第38話 降臨する災厄

 私とルーリは立ち上がり、そして目の前の光景を見て――愕然とした。


「う、うそ‥‥‥!」


 そこにあったのは大きなクレーター。土煙が立ち込めてその全貌は明らかではないものの、およそ直径30メートルはあろうかという丸い穴が、今まで平地だった地面を大きく抉って目の前に存在していた。


 その辺りにいた冒険者たちは突然落ちてきた何かから逃れることが難しかったのだろう、クレーターの外周にまるでおもちゃ箱の中身をひっくり返したような乱雑さで倒れ込んでいる。


 突然、ゴウッ! と音を立てて土煙を晴らす風が起こった。クレーターの内側が露わになる。そこには、1人の人間が立っていた。


「――人?」と、そんな自分の認識に対して、疑問の言葉が口を突いて出る。


 そう、それは人と呼ぶにはあまりにも禍々しかった。そのキツネのように細い目は幾百人の血の色が染み込んだように紅く、その髪は光さえ反射させずに呑み込んでしまうほどの漆黒だった。そしてその背中にあったのは――。


「黒い……翼……?」


「――魔族だッ!!」


 その時、静まり返った空間を裂くような声が聞こえる。ベースキャンプにいる冒険者たちのうちの1人が、クレーターの中心を見て叫んだのだ。そしてその後の動きはさすがにプロだった。


「それぞれ自分のチームを集めろッ!! 休んでる場合じゃねえぞッ!!」

「倒れている奴らを後ろに下げろッ!! 戦闘に巻き込むなッ!!」

「囲め囲めッ!! クレーターの外に出すなッ!!」


 未だ魔族の動かぬ間に、冒険者たちは着々と迎撃姿勢を整える。そして第1陣に参加した冒険者たちがすっかりその魔族をクレーターごと囲んでしまうと、冒険者たちの中から1人の男の人が歩み出た。


「貴様、いったい何者だッ!? 何の目的があってここまでやって来たッ!?」


「……」、魔族はその誰何すいかに応えることはなかったようだ。


 魔族の様子は私の位置から見て取れないが、しかし冒険者たちによる怒号は相手の無反応さに起因しているようだった。いよいよ痺れを切らした冒険者たちがクレーターへと飛び込んでいく。クレーター外縁に残った魔術師たちは詠唱とともに火や水、風、光魔法を次々と穴の中心目掛けて飛ばす。


 ――そして、まるで旋風つむじに巻き込まれた木の葉のようにその全てが宙に舞った。


「え――っ?」


 バタバタバタ、と空から人々が落ちてくる。つい先ほど威勢よく攻撃を仕掛けにいった全ての冒険者たちが、まるで天変地異の前触れを報せるひょうのごとく地面へと叩きつけられた。


 悲鳴は聞こえなかった。むしろ占めたのは、静寂。みんな呆気に取られて息をすることも忘れていたのだと思う。


「――違う。コイツらじゃない……」


 だからこそ、その低い呟きのような声は、地の底からベースキャンプへと広く響き渡った。


 クレーターから影が飛び出した。頭からつま先にかけて影と見紛うほどに黒色のその魔族は、ベースキャンプを見渡す。その鋭く冷たい視線がこちらに向いて、止まった。


「ハ、ハ、ハ…………ッ!!」


 魔族の唇を割ってその奥から舌が覗き、その口周りを這って濡らした。深紅を宿す舌と瞳が暗い淀みを持った沼地に咲く彼岸花を連想させる。それはまさしく『死』の色に他ならなかった。


 トッ! と唐突に押されて、私の身体が後ろへと倒れる。それと同時に、ガキィンッ! と鋼鉄同士が凄まじい速度でぶつかったような酷い音が辺りに響いた。それは目にも止まらぬ速さで突き出した魔族の腕を、ルーリが両手で受け止めた音だった。


「――ほう。お前、我らが同胞か。なぜ人間の側になど立っている?」


「……答える意味なんて、ない……ッ!!」


 ほんの一瞬の間に、魔族は今私たちのいる野外調理場へとその距離を詰めて攻撃をしてきたのだ。


「――ルーリッ!!!」


「危ないからソフィアたちは下がっていて……ッ!!!」


 ルーリは組み合った相手の魔族を蹴り飛ばすと、追撃するように高速で前に出た。それは恐らく人類がどれだけの年月を鍛錬に費やそうと到達できることのない速度。


 ――ルーリや私たち炊き出し班のメンバーには未だカレーの強化魔法の効果が残っていた。


 炊き出し班が最後にカレーを食べたのは第1陣目を見送って一段落した時のことだったので、他の冒険者とはその強化魔法の継続時間に差がある。それが功を奏した。

 

 あれほどの数の冒険者を一瞬にして倒すほどの力を持つこの魔族は、恐らく桁外れに強いに違いなかった。しかしルーリだって幼いながらも魔族として大成するだろう潜在能力を備えた少女。それにカレーの強化魔法の効果が加われば――。

 

 ――世界最強。


 以前セテニールの郊外でマラバリ・ロードを消し去った瞬間を目にしていればこそ、その称号を当てはめてなお過言ではない。


「やぁぁぁあぁぁあっ!!」


 ルーリの息つく暇も与えない連続攻撃がジリジリと魔族を後退させていく。そして、音速さえ凌ぐスピードに乗せた、抉り抜くような拳が敵の魔族の顔面を打ち抜いた。


 ――かに思えたが、しかし。


「クックック……」


「っ!?」


 その後に続いたのは決して拳が肉を打つ音や、それを上回る衝突音ではない。魔族の気味の悪い嗤うような声と、ルーリが息を呑む音だけだ。


 ――ルーリの渾身の一撃が、事も無げに魔族の手のひらに収まっていた。

 

「え――ッ!?!?」


 その目の前の光景が信じられない。ルーリのパンチは強化魔法抜きでさえマラバリ1体を吹き飛ばす威力があるのだ。しかも、今は強化魔法だってかかっているというのに……!


「うっ……!」

 

 掴んだ拳を魔族は持ち上げる。ぶらり、とルーリが宙へと浮いた。


「デタラメな強化魔法を抜きにしても、その年ごろでこの速さ、威力と申し分ないな」


「く……ッ!! は、放せ……ッ!!」とルーリはジタバタと片腕を掴まれてぶら下げられた状態でも暴れて抵抗する。


 掴まれていない方の片腕で、その両の足で、殴り掛かり蹴り掛かる。しかし宙に浮かされてはその攻撃の全ての威力が半減してしまって、魔族に対して何の痛痒も与えていないようだ。魔族はいわおのように微塵たりとも動きはしない。それは見た目通り、大人と子供そのものの構図だった。


「今、俺の軍はかなりの被害を受けていてな。どうだ? お前、俺の仲間になるつもりはないか?」


「断る……ッ!!」


「……それなりの扱いをするぞ?」


「うるさい……ッ!! 早く放せ……ッ!!」


 魔族の勧誘に対して、ルーリはにべもなく拒否を示す。


「そうか、残念だ……」


 そう言うと、その魔族は心底残念そうに首を横に振る。そして、ルーリの頭へと手をかざした。いや、かざすという言葉は正しくない。


 中指と親指で輪が作られている。そのの部分がルーリへと向いていた。中指が親指より内側に入った見覚えのある構え、いや見覚えどころか実際に私だって何度もやったことのあるソレ。


 ――小学生の頃よくやった、デコピン。それが私の知るようなお遊びのものではない、凶悪な威力を持ってルーリへと襲い掛かる。


 パキャァンッ!! という銃声にも似た破裂音が、ルーリの額から響き渡る。のけ反り、そしてまるで砲撃にもあったかのようにルーリの身体は吹き飛ばされた。


「ル、ルーリッ!!!」


 瞬間的に、私は後先考えずに走り出していた。ルーリの飛ばされた方向へ、有り得ない滞空時間を経て落ち行くその小さな体躯の元へ。


 ズザァァァッ! と、その身体が地面に叩きつけられる直前でその間に何とか滑り込む。私の上に落ちたルーリを仰向けに起こして、その顔を覗く。息を呑んだ。

 

「ル……ルーリッ!? しっかりして、ルーリッ!!!」


 ――顔が、紅に染まっていた。


 ドクドクと、その額からはとめどなく血が流れている。ポケットに入れていたハンカチを取り出して傷口に当てる。ああ、ああなんて深い傷だ。血は勢いを止めず紫の割烹着の首元を赤く濡らしていく。


 止まれ、止まれ、止まれ…………っ!!


「ソ、フィア……?」


「ルーリ!? よかった、ルーリ!!」


 ルーリの口からこぼれ落ちるように弱々しい言葉が聞こえる。大丈夫、生きている!! 張りつめた心の中、安堵の波が押し寄せてやってくる。


「ソフィア……」

 

 ボンヤリとした口調で、ルーリが私の名前を呼ぶ。頭を打たれたのだ、きっと脳が揺れて視界が定まらないに違いない。

 

 ルーリはおぼろげなものでも見るように不確かな瞳で私を見やる。それでも意識があるならきっと大丈夫。

 

「だ、大丈夫だからね……! すぐに、すぐに医療班のところに――」


「逃げ、て……」


「――え……っ」


「アイツ、強い……きっと、私じゃ勝てない……」


 ルーリはハンカチの上から額を押さえる私の手を、静かに、それでいて余地なくどかす。パサリ、と血をいっぱいに吸ったハンカチが地面へと落ちて砂にまみれた。


「ル、ルーリ…………?」


「逃げて……ソフィア。敵わなくても……それでも時間くらいなら……稼げるから……ッ!!」


 ルーリはグイッと私の身体を後ろに引くと、前に立った。そしてその碧眼が、鮮血よりも遥かな紅色に染まる。その口元へと空間を捻じ曲げるほどの凝縮された黒い魔力の塊が作り出された。


 それは以前ルーリに教えてもらった、魔族が持つ種族技能であり、そしてルーリが持つ最大の技。

 

「――<黒星の爆発ターミネイト・ノヴァ>ッ!!」


 極黒きょっこくの光線が、強大なその魔族に向かって放たれた。

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