第45話 バトンタッチ

 私はこの調理を始める前にあらかじめレミューさんに借りていた腕時計を見て、時間を確かめる。長針はちょうど『10』の数字を指していた。


「レミューさん、これから『40秒』の間温度を一定に保っていくよ。さっき決めた通りの合図に合わせてよろしくね!」


「わかりましたわ……ッ!!」


 レミューさんはゴクリと喉を鳴らして、緊張気味に寸胴鍋へと意識を集中させる。私もまた温度計をジッと見て、少しの目盛りの変化も見逃さないように目を凝らした。


「――『開いて』っ!」


 温度計が131℃を示した瞬間に私は声を上げる。


「はいっ!」とレミューさんがそれに応じると、寸胴の中から『ピィ~ッ!』という甲高い音が聞こえて、そして細く白い水蒸気が立ち昇った。温度計を見る。130℃へと目盛りが戻り、そして瞬時に129℃へと下がる。


「――『閉じて』っ!」


 私がまたそう声を掛けると、これまた「はいっ!」とレミューさんがそれに答える。そうすると甲高い音も柱のようにそびえた水蒸気も消えてなくなった。温度計を見れば、その目盛りは再び130℃のところで色の変化を止めていた。


 これが温度調整。私の『開けて』の合図に応じて、レミューさんが密閉空間を作っている泡に小さな穴を空けるのだ。それによって寸胴の中身に掛かる圧力が減り、温度の上昇が止まる。しかし、穴が大きすぎたり、空け過ぎたりしていると130℃を下回ってしまうことがある。その時は再び私の『閉じて』の合図に応じて空けた穴を塞いでもらうのだ。


 そしてその合図と共に開け閉じが、数秒の間隔で繰り返される。


『開けて』『閉じて』『開けて』『閉じて』『開けて』『閉じて』『開けて』


 通常の沸点を遥かに超えた130℃の水は温度変化が激しく、微調整がとても難しい。圧力鍋であれば厳密に設計された弁が指定温度に達した段階で必要な分だけの水蒸気を外部に逃がしてくれるが、しかし人力となればそう上手くはいかない。それに大変なのは温度調整だけではなかった。


「くぅ……っ!! 魔法をこんなに展開し続けるのは初めてですわ……っ!! コントロールが、段々……っ!!」


 見ればレミューさんの魔術によって寸胴に張られた1枚の泡が段々と、内側からかかる圧力にその扁平へんぺいな形を保ち切れず、高温の鉄板に敷かれたホットケーキミックスのようにブクブクと泡立ち始めている。


「がんばるぞ……もうちょっとだ。がんばるぞ、レミュー」とヒヅキさんが魔力を伝えるためのその手に力を込める。秒針は『3』を示していた。


「あと15秒ッ!!」

 

 私はそう叫んですぐに温度計へと視線を戻すが、私の視界の外であっても2人が頷いたのは自然と私に伝わった。


「ふぬぬぬぬぅ~~~ッ!!!」とレミューさんが寸胴鍋へとかざした手を震わせながらも、発現させた魔法の泡の形を保とうと意識を集中させる。


「レミューさん、『閉じて』!」


「はい、ですの……っ!!!」


 1つ1つのアクションで集中力が持っていかれるのか、それを保とうとするレミューさんの額に汗が幾筋もの線を作る。それが目に入ろうとも、しかしレミューさんは片時も寸胴から目を離すことはない。


「『開けて』!」


「は、い……っ!!!」


 秒針が『4』を指した。レミューさんは奥歯をギリッと噛み締め細く息を吐きだして、まるでマッチ棒で組まれた舟を水面に浮かせるような慎重さで泡へと小さな穴を空けていく。


 間違っても穴を拡げすぎてはいけない。寸胴の中身が唐突にこれまでの気圧を失ってしまった場合、それは『爆発』してしまう。それはきっと、まるで強力なスプリングが最小の長さへと押して縮められたところから放たれて飛ぶように、その中身の液体を一気に気体へと変貌させて食材を宙へと打ち上げてしまうだろう。そうすれば周りにいる私たちに大きな火傷は免れないし、何よりカレーが間に合わなくなる。


 ――これは、私たちが魔族へと対抗するための最初で最後のチャンスなのだ。そしてそれをわかっているからこそ、レミューさんは身体中から集中力と魔力をかき集めて、今にも散り散りになりそうな精神を支えている。秒針が『5』を指した。


「あと5秒ッ!!」

「踏ん張るぞ、レミューッ!!」

「……ッ!!」


 私とヒヅキさんの言葉に、レミューさんはもう声すら返すことができない。額からは汗が噴き出し、身体は小刻みに震えている。しかしそれでも歯を食いしばって、その心の中に貫き通す1本の芯を折らせることはない。


「~~~……ッ!!」


 ギュゥッ! と繋がれたヒヅキさんの手が強く握られる。ヒヅキさんはそれを握り返す。それはきっと互いを確認し合う作業だった。


 ――どんなに困難な時でも1人じゃないということ、自分を支えてくれる人がここにはいるんだということ、その想いこそが1番の力になっているんだということ。


 その確信の炎を瞳に宿したレミューさんが挫けることはとうとう、なかった。そして秒針はようやく『6』へと到達する。


「レミューさんッ!! 『ゆっくりと開き続けて』ッ!!」


「は、い……ッ!!!」


 最後の力を振り絞って、レミューさんが泡の盾の表面をゆっくりと変化させていく。最初に立ち昇った細い水蒸気は、徐々にその形状を太く変えていく。それと同時に寸胴に取りつけられた温度計が、その数値を勢いよく下へ下へと更新していった。


「110℃、105℃……100℃!!! よし、もう大丈夫っ!!!」


 通常の沸点まで温度が下がったことを確認して、私はレミューさんたちを振り返った。


「お……終わりましたの……?」と実感無さげにヒヅキさんが訊ねたので、私はそれに頷いた。


 寸胴に張っていた泡がパチンとはじけて消える音が聞こえる。それと同時に、まるで操り糸を切られた人形のように力を失ったレミューさんが、ガクリとその身を崩してヒヅキさんの方へと倒れ込む。


「レミューッ!?」とその身体を抱きとめて、ヒヅキさんがその顔を覗き込む。


「うぅ……」


 ヒヅキさんの腕の中で弱々しい声が聞こえる。


「レミューさん……!? だ、大丈夫……!?」


「申し訳ありませんの……魔力も気力も、使い果たしましたわ……」


 私は肩で息をするレミューさんへと歩み寄ろうとするが、しかし。


「――ソフィアさん、後はお任せいたしますわよ……っ!!」


「……っ!! うんっ!!」


 ハッとさせられる。私はそう返事をすやいなや、1人調理場へと身体を向ける。


(そうだ……! 今私がやるべきことは、レミューさんを心配することでも労わることでもない……!)


 寸胴の中身を見れば野菜とお肉は充分に煮込まれて、スパイスも充分にスープへと馴染んでいるようだった。私はあらかじめ傍らに準備をしておいた炒め済みの小麦粉を一息に寸胴へと投入して、大きな木ベラで鍋底から縦に押すようにカレーをかき混ぜる。

 

(レミューさんたちのがんばりを無駄にしない! 1秒でも早く、このカレーを完成させるんだ!!)


 カレーは次第にとろみを増して、そしてとうとうそれは完成する。食材を鍋に入れてから5分、圧力時短テクニックによる『日本カレー』のできあがりだ! 味を見れば、しっかりカレーになっている。そして1番大事な強化魔法も付いていた。


「レリシアさんッ!! 」と私は調理場の外へ向けて大きく叫んだ。


 するとすぐに調理場の影からレリシアさんが姿を見せる。その後ろには3つの人影が立っていた。


「ありがとう……!! これで私たちも戦えます……ッ!!」


 それからカレーを飲んだレリシアさんたちは、さながら尾を引く彗星のようなスピードで厨房を飛び出していった。彼女の率いる高等冒険者チーム・<蒼剣連鎖>の完全復活だ。


 ――そうして舞台は私たちが死力を尽くした調理場から戦場へと戻る。


 バトンタッチ。キャストの交代だ。私は自分にできることをやり尽くし、あとは願うだけ。どうかみんなが無事に勝利できますように、と。

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