第44話 ハイプレス・クッキング

 高熱に設定した加熱魔具の上に置かれた寸胴鍋が水蒸気を吐き出したのを見て、私は隣に立つ2人の方を向く。


「レミューさんっ!! ヒヅキさんっ!! 出番だよ、さっき話した通りによろしくね!!」


「ええ……わかりましたのっ!! ヒヅキ、魔力の供給をお願いしますわっ!!」

 

「はいよっ!!」


 私がかけた声に頷いたレミューさんとヒヅキさんの2人は互いに手を繋いだまま、寸胴鍋の前へと立つ。その中には肉、タマネギ、人参などといった食材が入れられていて、お湯がヒタヒタ程度に張られている。


 レミューさんはその鍋へと手をかざすと1つ深呼吸をし、そして魔法を詠唱した。


「――<泡盾バブル・シールド Lv1プライマル>ッ!!」


 瞬間、寸胴鍋へ蓋をするように内側へと泡の膜が張られる。それは狙い通り食材の少し上の位置で漏れなく一面を覆っていた。それまで鍋から立ち昇り始めていた湯気はもう上がることはない。その鍋は完全に塞がれて、その中から少しの分子すらも逃さないほど完璧な密閉状態となっていた。


「70℃、75℃、80℃――」と、私は2人が魔法を発現させている横で寸胴の外側にマグネットのように張り付いて取りつけられている温度計が示す値を読み上げていく。


「――90℃、95℃、100℃……『105℃』ッ!!」


 私はその瞬間、寸胴を覗くために屈めていた背を伸ばして、寸胴の中を覗き込む。それは狙い通り、105℃の温度で沸騰してはいなかった。


「よし……っ!!! 大丈夫、上手くいってるよっ!!!」


「ほ、本当ですのっ!? やりましたわ……っ!!」


「うん――110℃、115℃……水が沸騰しないまま、温度だけがちゃんと上がっていってる。レミューさん、このまま泡の盾をキープしてっ!!!」


「お任せあれっ!! ですわ!!」とレミューさんは不敵に微笑みながら、再び発現中の魔法へと集中を高めていく。


 寸胴の中の水は沸騰しておらず、見た目だけでは静かなものだ。しかし、今まさに通常の煮込み方の何倍もの速さでその食材たちが煮えていることが私にはわかる。


 なぜならこれは――での調理方法をモデルにしたものだからだ。


 前の世界の怪しげな通販番組で圧力鍋の存在を知った時は驚いたものだった。それは60分煮込む必要のある料理がなんとたったの3分で調理出来てしまうとのことで、実際にその番組のスタジオ内で収録中に手間のかかる煮込み料理が易々と作られてしまっていたのだ。


 その理由は言葉にすると簡単で、通常、水は沸点である100℃以上にその温度を上げることはできないが、しかし圧力鍋であればその沸点を120℃に移すことができる。そうすると水温を120℃まで上げることができるようになり、結果として中の食材に熱の通るスピードが16倍にもなるということだった。


「しかし、不思議だな」と、レミューさんへと渡す魔力へと意識を集中させつつも、ヒヅキさんがそうこぼす。


「いったいどうして泡を張ることで、水が沸騰しなくなるんだろう?」


「えっと、それはね――『気圧』と関係するんだ」と私は答える。


「『キアツ』……?」


「うん。気圧、つまり空気の圧力。ヒヅキさんって、空気にも重さがあるっていうことは知ってる?」


「え? 空気に……? いや、考えたこともなかったな……。でも確かに普段吸ったり吐いたりしているこの空気も、物質の1つなんだって考えれば重さがあるのは不思議ではないか……」


「そう、空気も物質の1つだから質量を持っているの。だからね、山のてっぺんとこの世界で一番低い位置にある盆地なり谷なりではその高低差の分だけ『空気が重なる量』に違いがあるから、当然のことだけど空気が上から物を押さえつける力が全然違うんだよ」


「なるほど、空気が上から物を押さえつける力、それが空気の圧力――つまり気圧ってことだね?」と納得気にヒヅキさんは頷いた。


「それで、その気圧と沸騰にどういう関係が?」


「うん。沸騰というのは水が高温で熱せられることで水蒸気――つまりは空気に変わる現象のことを言うよね? 水から変化した空気は目に見えないけど質量を持っていて、そしてその空気が行く先の空間にあるのはやっぱり同じ程度の質量を持った空気なの。だからね、もしも行く先の空間が空気でいっぱいになってしまったら、空気が押しかける圧力によって、水は空気になることができなくなるんだよ」


「うーんと……?」


「状況を自分に例えてみると簡単かも。私とヒヅキさんの2人が入ってギュウギュウになってしまう屋根裏部屋があるとするよね? そんなところに梯子を登ってレミューさんが『わたくしも入りたいですわー!!』って言いながら自分の身体を詰め込もうとしてくる。私たちはもちろん歓迎するんだけど、でも屋根裏は私たち2人でギュウギュウなんだからどんなにがんばってもレミューさんがその中に入ることはできないよね? それは私たちの意思とも、レミューさんとの意思とも関係なく」


「ああ、そう言われてみれば確かにそうだね。私たちの意思の在り方に関係なく、物理的にレミューは屋根裏部屋には入れない。なるほど、その関係性が空気と水にも言えるわけだ」


 私は頷いた。ヒヅキさんは言葉を続ける。


「すでにそこにいる私たちの圧力を押しのけてレミューがギュウギュウになった屋根裏部屋に入れないように、水もまたすでに空間いっぱいに存在する空気の圧力――つまり気圧を押しのけて新しく気体になることができない」


「気圧と沸騰の関係はまさしくソコだよ。気圧が上から沸騰という現象を押さえつけてるっていうことだね!」


 ヒヅキさんは「なるほどなるほど」と納得気に何回か頷いてみせる。


「だいぶわかってきたよ。つまりレミューがこの寸胴に泡を張ったことによって泡の内側にある水が沸騰しなくなった理由は、さっきの例えで言うところの屋根裏部屋をこの中に作ったからってことだね?」


「その通り!」


 ヒヅキさんの言った通り、寸胴の中、食材より少し上の位置に泡を張って密閉空間を作れば、その閉ざされた空間で空気が存在できる量は限られてしまい、結果的に水を空気へと変える沸騰という現象が起こらなくなるわけだ。


「おっと……こんな話をしている間に、そろそろだね……!」


 寸胴に外付けされている温度計を見れば、ちょうどその中身が130℃になっていることを示していた。


「ここからが本番だよ、レミューさん。よろしくね……!」


「ええ、お任せくださいですの……っ!!」


 レミューさんは深く息を吸い込むと、そう言ってゆっくりと頷いた。

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