偶像崇拝

エド

偶像崇拝

 まただ。また、上司がわたしを憂さ晴らしに使っている。

 命じられたとおりに作成したはずの書類に、気に入らないところがあったらしい。だがそんなのは建前だ。噂によるとこの上司は家に居場所がないらしく、妻にも子にも相手をされないといううだつの上がらない人物であるという。だから気弱で根暗な性質を持つわたしをサンドバッグにして、毎日毎日憂さを晴らしているのだ。

 その証拠に今日も、別の上司達ならば何も文句を言わないような部分に対し、延々とケチを付け続けている。そうしてわたしが疲弊した姿を見て満足すれば、気まぐれに解放するのである。

 入社直後から、わたしはずっとこの上司の奴隷同然と言ってもいい。

 大勢の前で怒鳴られ、大きな音を出して萎縮させられ、口を開こうとすると〝言い訳はいらない〟と遮られる。パソコンのキーボードを叩いている途中ですら、何かしら理由や因縁をつけられて〝だから他よりも仕事が遅れるんだ〟と説教をされ、貴重な時間を失ってしまう。そして残業コースに一直線だ。

 それでもお金がなければ生活が成り立たないため、わたしはどうにかこの現状を受け入れる。転職すればどうかと考えたことは何度もあるが……わたしのような根暗が他の仕事にありつけるとは到底思えなかった。それによしんば転職出来たとしても、また同じような人物から標的にされてしまうかもしれない。そう思うと、わたしは萎縮するばかりで動くことが出来ないのだった。

 上司は未だにわたしに対して怒鳴り続けている。疲弊しているわたしには、もう内容が理解出来ていない。いい加減、集中力が限界を迎えていた。すると上司は〝話を聞いているのか〟と大声を出し、拳で机を叩いた。これ以上は限界だったので、力なく「申し訳ありません……」と頭を下げると、今度は〝謝って済む問題ではない〟などと言ってまたも机を殴った。無意識にわたしは、同じリアクションを繰り返してしまう。わたしの両肩が大きく跳ねるのが、そんなに面白いのだろうか。

 そしていよいよ攻撃対象が、わたしの身なりや顔の造形、性格などに移った。これはいよいよ長くなりそうだ。わたしは覚悟を決められないまま、目の前が滲みそうになるのを必死にこらえ続けていた。

 すると、


「失礼します、部長。少しよろしいですか?」


 焦げ茶色の髪を後ろで束ねた女性が、上司の憂さ晴らしに割って入ってきた。


「お話の最中に横入りしてしまい、申し訳ありません。しかしながら我々も書類を提出したいところですので、心苦しいですが中断してくださると幸いです。それに、このまま作業が滞っておりますと……〝沢田常務がお怒りになってしまう〟かもしれません。そうなれば我々としても非常に困りますので、早急に確認をお願いします」


 そして、睨み付けるような表情と強い語気でそう語ったと思えば、彼女は自分の後ろで行列を作っている社員達を指し示した。


「沢田常務のためにも、よろしくお願いします」


 憂さ晴らしに夢中で現状に気付いていなかったらしい上司は、上の役職に立つ者の名を具体的に出された瞬間、広い額からわき水のようにぶわっと冷や汗を滲ませた。そして〝わかった〟と頷くと、彼女に対して舌打ちをしてから書類の確認を始める。


「ちーちゃん、今の内に。ほら」

「……あ、あり、ありが……」

「お礼は後。またロックオンされちゃうよ?」

「う、うん……」


 上司が書類とにらめっこをしている間、わたしを〝ちーちゃん〟と呼んだ彼女は、礼を言おうとするわたしに「いいからすぐに逃げちゃえ」と耳打ちをする。それでもこのまま立ち去っては不義理にも程がある。わたしは声帯に〝動け!〟と必死に命じると、


「あり、ありがとう、ございますっ、瀬名係長……っ」


 どうにかこうにか蚊の鳴くような声で礼をし、お辞儀をして立ち去るのだった。



 ◇ ◇ ◇



 そしてようやく退社時間になると、幸運にも残業を免れることが出来たわたしは「疲れた……」と大きくため息をつきながら会社を出る。

 そして多くの社員と共に、公共の場である道路へと一歩踏み出すと、


「ちーちゃん、ごめん。いつもより助けるのがずっと遅れちゃった……!」

「う、ううん……こっちこそ、ほ、本当に、ありがとう……本当なら、か、歌織ちゃんに頼らなくても、いいように……わたしが、ちゃんと色々出来なきゃいけない……のに……」


 数時間前、わたしを助けてくれた瀬名係長……〝瀬名歌織(せな・かおり)〟が青ざめた顔でこちらに飛び込んできた。

 歌織ちゃんは、わたしが小学生だった頃からの幼なじみだ。どうして根暗なわたしと仲良くし続けてくれるのか解らないくらい底抜けに明るくて、文武両道で、とても美人で格好いい、最強の女の子である。

 当然ながら、初めて話しかけたのは歌織ちゃんの方からだった。

 小学校の図書室に通っていた彼女が、自分好みの本に付いてある貸し出しカードのほとんどに〝わたしの名前〟が書かれていることに気付き、興味津々で自身の友達などから話を聞いた末にわたしを見つけたらしい。放課後の図書室で何を借りようかと物色している最中に肩を叩かれたときには本当に驚いた。

 そして何よりも、快活な彼女から「なぁんだ、すっごく可愛いじゃん! 男子の嘘つき!」と言われるやいなや「あたし、瀬名歌織! 朱島千夏(あけしま・ちなつ)ちゃんだよね? 一緒に本、探そっ!」と手を差しのばされたことに一番驚いた。

 当時のわたしには既に根暗な性質が根付いており、まともな友達など一人としていなかった。鼻を横断するように出来ていたそばかす――幸いにも大人になった今は消え去ってくれている――がコンプレックスだったし、男子からブスだブスだとからかわれていたから、顔を隠さなければと必死に目元の髪を伸ばしていた。だというのに歌織ちゃんは、わたしの前髪をどけて顔を見た瞬間に褒めてくれたのだ。

 今でも、どこを見てそう言ってくれたのかは解らない。だけど、その言葉がお世辞なんかではなく、本心からのものだということは確実だった。何故ならその出会いをきっかけに交友を深めていく内に、歌織ちゃんは嘘をつくのがとてつもなく下手くそなのだと実感する出来事に何度も遭遇したからだ。

 そして現在、成人を迎えてしばらく経った後にも縁の糸は繋がり続け、どういうことだか全く同じ職場で働いている。

 極めて激しい人手不足状態だったということもあるが、文武両道であり続ける歌織ちゃんはあっという間に係長へと――歴代最速記録を叩き出したという――昇進したその一方で、元から要領が悪い上に例の上司が抱いているストレスのはけ口にされてしまったわたしは、多くの平社員の中でも最下層の位置に突き落とされた……という凄まじい格差こそ生まれたものの、それでも歌織ちゃんはわたしと仲良くし続けてくれている。


「いつも、いつも、ごめん……あの、今日のお礼っていうのもあるけど、えっと……明日、休みだし……じ、実家から、いいお酒、貰ったから……今日、い、一緒に、どう……?」

「え、いいの!? 気にしなくてもいいのに……なーんて言いながら、じゃあ今日もお邪魔しちゃおっかな! えへへ、お酒トーク楽しみー!」

「か、歌織ちゃんと一緒に飲む方が、絶対楽しいから……沢山開けちゃおう……! だ、大丈夫……歌織ちゃんの分の布団も……ちゃんと、干してるし……」

「ははーっ! いつも助かります、ちーちゃん陛下ーっ!」


 そうしたやりとりを経てアパートに到着したわたし達は、二人きりの宴を始めた。

 思い出話に花を咲かせたり、うっかり前にもした話をしてしまったり、大きな皿に盛りつけた料理へと共に舌鼓を打ったり、録画していたバラエティ番組を見て大笑いしたり、次に波が来そうな作家を予想しあったり……わたしの住む小さな部屋は、学生時代に生まれた幸せの園へと姿を変えていた。

 普通の人ならばとっくに心が壊れてしまっていてもおかしくない状況下で、こんなわたしなんかがあの会社で働き続けられているのは……ひとえに歌織ちゃんがいてくれているおかげだ。歌織ちゃんが同じ職場にいてくれるというただそれだけで頑張れるし、こうやって気軽に遊びに来てくれるからこそ力が湧いてくる。

 中学生になって陰湿ないじめに遭っていた頃もそうだった。

 歌織ちゃんが助けてくれるから、ではない。

 歌織ちゃんがわたしの近くにいてくれているから。

 だからわたしは、あらゆる全てに耐えられるのだ。



 ◇ ◇ ◇



 やがてあっという間に季節が変わり、木々の葉が鮮やかに染まり始めた頃。

 例の上司に時間を奪われた結果サービス残業を余儀なくされたわたしが、外灯に照らされた夜道をふらふらと歩いていると、不意に歌織ちゃんから連絡が来た。曰く〝話したいことがあるから家の前にいる〟とのことらしい。立ち止まってから〝わかった〟と返事を送り、歩を進めるスピードを速めてアパートに辿り着くと、確かに彼女がいた。


「やっほ」

「や、やっほ……ど、どど、どうしたの……?」

「うん、あのね……」

「あ……ま、ま、待って」


 季節の変わり目と言うことで寒くもなってきたし、立ち話も申し訳ない。

 というわけでわたしは歌織ちゃんの手を引き、自室の鍵を開いた。そして「入って、話そう……」と振り向くと、わたしは歌織ちゃんの表情が僅かに硬くなっていることに気付いた。

 明らかに、緊張しているって顔だ。自分の受験番号が張り出されているかだとか、きちんと面接に受かっただろうかとか、そんな心配をしているときにしか見せない表情だ。

 そんな顔をして話すこととは、一体何だろう。家族に不幸があったとか、そういうことなのだろうか? それとも歌織ちゃんにも、愚痴を吐き出さなければ頭がおかしくなりそうな出来事が降りかかったのだろうか? どちらにしろ、わたしでは荷が重いだろうけど……力になりたい。今度はこっちが踏ん張る番だ。心中で決意したわたしは座布団の上に歌織ちゃんを座らせると、震える手で二つのコップに水を入れた。

 そして歌織ちゃんの前にコップの片割れを置くと、勇気がしぼんで消えてしまわない内に「か、歌織ちゃん……ど、ど、どうしたの……?」と口に出して問いかける。

 すると彼女はコップに口を付けることもせずに「ごめんね」と謝ると、


「あたし、ドイツに住まなきゃいけなくなっちゃった」


 わたしの口があんぐりと開くようなことを告げた。

 実際、開いてしまった。コップを掴もうとしていた手も止まり、声帯は機能を停止してしまっている。あまりの突拍子の無さに、わたしは冷凍されてしまったらしい。


「驚かせてごめん。あのね、うちの会社のさ……海外支店を、今度はヨーロッパに作るって話があったじゃん? その出向メンバーに、あたし、選ばれちゃって……」


 段々と声量を失い、俯いた歌織ちゃんを眺めることしか出来なかったわたしだったが……ここでようやく、身体の各機能が再起動を始めた。いの一番に口に出した言葉は「なんで?」だった。その問いに、歌織ちゃんは「成績がいいから、だって」と力なく答える。

 成績がいい……か。そうだ、その通りだ。確かに彼女の成績は抜群だ。だからこそわたしを標的にしている上司ですらも、嫌味の一つも言えずにいるのだ。力がものを言うブラック会社において、歌織ちゃんは間違いなく強者だった。歴代最速で係長へと就任したほどまでに。

 だからこそ、彼女は選ばれたのだろう。欲されたのだろう。


「こ、こ、断れ、ない……の?」


 藁をも掴む思いで言葉を紡ぐ。

 返ってきたのは「無理だよ」の四文字だった。


「あたしにそんな権限、あるわけない。何だかんだ言って、まだ係長なんだよ? あの最低な部長よりも下なんだよ? 無理だよ、あたし程度じゃ」


 今にも泣きそうな顔で笑みを浮かべた歌織ちゃんは、すっくと立ち上がった。そして部屋一面を見回すと「大事な話だったから、ちーちゃんに一番に言わなきゃって思ったんだ」と言い、自身の鞄から本を取り出した。栞が挟まった読みかけのそれは、ちょっと前にわたしが貸したものだ。映画化した後、カットされたシーンがいっぱいあるんだよって勧めて……いつか感想を聞こうと思っていた本。歌織ちゃんはテーブルにそれを置いて「だからこれも、返さなくちゃだ」と呟いた。


「もう、この部屋には気軽に来られないね。寂しいな……うん、寂しい……でもわがままは言えないから、もうお別れしなきゃ」

「ま、待って! 待って! や、やめて……やめて……言わないで、歌織ちゃん、歌織ちゃん……言わないで……それ以上は、それ以上は、それ以上は……っ!」


 わなわなと身体が震えるのを抑えられないまま、わたしは歌織ちゃんの言葉へと割り込む。これ以上は駄目だと思ったからだ。これ以上続けば、歌織ちゃんは〝バイバイ〟と言ってしまう。それだけは阻止しなくてはならない。

 けれどわたしの思いを知ってか知らずか、歌織ちゃんの言葉は続く。


「大丈夫! あたしの他にも、ちーちゃんの味方はいるから! 後はお願いって、部下のみんなに頼んだし! だから、だからこれからも、ちーちゃんも頑張って……」

「無理だよぉっ!」


 もう駄目だ。耐えきれない。想いを抑えきれない。

 生粋の運動音痴であったはずのわたしは、これまでの人生で叩き出したこともない速度で立ち上がると、自分でも驚くほどの力で歌織ちゃんの両肩を握りしめた。そして彼女の身体を前後に振り回しながら「無理、無理、無理ぃっ!」と駄々をこねる。

 そうだ、大丈夫なわけがない。無理だ。わたしには無理なのだ。

 他人からの助けなんていらない。その代わり、歌織ちゃんがいてくれればそれでいい。わたしは、わたしの近くに歌織ちゃんがいてくれているから……だからこれまで耐えてこられたのだ。だからこれまで心が壊れずに済んだのだ。歌織ちゃんと一緒にいる……ただその現実だけが、わたしを助けてくれていた全てだったのだ。

 だというのに、その現実を奪われてしまえば……頑張れるはずがない。否、頑張る頑張れない以前の問題だ。

 わたしにとって、歌織ちゃんを奪われるということは即ち……酸素を、水を、食べ物を、丸ごと全て奪われることと同義なのだから。


「駄目だよ、駄目。上司なんかに洗脳されちゃ駄目。ドイツになんか行かなくてもいい。別の方法はまだきっとある。だって歌織ちゃんは歌織ちゃんだから。発言力だって絶対ある。最初から諦めちゃ駄目。出来るよ、絶対。日本から出なくて済む方法は必ず見つかる。この部屋は思い出なんかにならない。大丈夫、きっと大丈夫。一緒に考えよう。三人寄れば文殊の知恵っていうし。あ、でも今は二人だ……いや、歌織ちゃんは文武両道で凄いから一人でも二人分として認識されるから問題ないね。だからお願い。考えて、一緒にここにいる方法を考えよう。一緒に、一緒に……っ!」


 歌織ちゃんを奪われてなるものか。

 日本とドイツなんて遠すぎる。

 歌織ちゃんを奪われてなるものか。

 わたしの安月給じゃ気軽に会いに行けない。

 歌織ちゃんを奪われてなるものか。

 今も生きてるだけで精一杯なのに。

 歌織ちゃんを奪われてなるものか。

 奪われれば最後、わたしはその瞬間に死んでしまう。


「ち、ちーちゃん! 待って、落ち着いて! お願いっ!」


 数あるコンプレックスの一つだった吃音が突如として治ったことに自分で驚きながらも、わたしは〝それどころではない〟と必死に歌織ちゃんを押し留める。

 一方で歌織ちゃんもわたしの腕を掴み、引きはがそうとした。わたしに捕まれたままでは自宅に帰れないからだろう。当たり前だ。このまま帰らせてなるものかという一心で、わたしは現状に抗っているのだから。

 テーブルに互いの脚が当たり、乗っていたコップが倒れ込む。まだ脱いでいなかったタイツが濡れたことで不快感に襲われたが、だからといってわたしは止まらないし、止まれない。今は歌織ちゃんを止めることが全てだ。それだけを考えなければならないのだ。


「お願い、ちーちゃん! 普通に、普通にバイバイを言わせて! あたし、ちーちゃんと喧嘩したくて話したんじゃないんだよ! だからお願い、ちーちゃ……っ!?」

「あっ」


 そんなお互いの意地が暴発したのか、突拍子もない事故が発生した。

 立ち上がった二人がお世辞にも広いとは言えない部屋の中でもみ合った結果、位置がズレにズレた座布団を歌織ちゃんが踏んづけてしまい、足を滑らせたのだ。

 ゴンッ、という嫌な音がした。

 歌織ちゃんの頭と机の縁が衝突した音だった。


「……歌織ちゃん?」


 名前を呼んでみたが、歌織ちゃんは動かず、言葉を返さない。

 大変なことになってしまった。そう思ったわたしは、すぐに歌織ちゃんの手首に指を当て、更に彼女の胸に片耳を押し当てる。すると幸運にも、それらはきちんと元気よく脈動していた。ああ、よかった。死んだわけではなかった。殺してしまったわけでもなかった。きっと彼女はショックによって気絶しているのだろう。口元に手を当てると、呼吸もしてくれていた。

 急いで救急車を呼ぼうと、わたしは電話を手に取る。

 けれど番号を押そうと親指を動かしかけた瞬間、電撃のように〝とある考え〟が脳を駆け巡った。まさに、まさにそれは天啓だった。ならば急がねばと、わたしは電話の操作を中止し、日用品を入れている収納ボックスが置かれている場所へと静かに早歩きをする。

 そして……。



 ◇ ◇ ◇



「ちー……ちゃん……」

「あ、起きた……?」


 作業を済ませてから数十分後。よく手入れされたフルートのように美しい声が耳朶を叩いた。当然、声の主は歌織ちゃんである。

 彼女は「あれ……? え……?」と半ば惚けた様子で周囲を見回す。きっと前後の記憶が無いのかもしれない。かつてわたしも、運悪く野球部の硬球が頭に直撃して意識を失ったことがあるので、その奇妙な感覚はよく解る。


「おはよう、歌織ちゃん。まだ日付は超えてないから、心配しないで」


 吃音の消え去った言葉で、わたしは歌織ちゃんの混乱を解きにかかる。

 しかし逆効果だったらしい。遂に頭が完全に覚醒したらしい歌織ちゃんは、自分の身に何が起こっているのかをしっかり理解し……軽い錯乱状態に陥ったようだ。


「ち、ちーちゃん! ちーちゃんっ! 何、何これ! どうして……っ!?」

「歌織ちゃんを奪う人達から守るためだよ」

「どういうこと……どういうこと……っ!?」


 歌織ちゃんの四肢は、強力なガムテープによって拘束されていた。

 いや、その表現はおかしい。まるで無関係な第三者が存在しているようじゃないか。それはよくない。だから正しく言い換えよう。

 わたしによって四肢を強力なガムテープで拘束された歌織ちゃんは、寝転がされた状態で目を白黒させていた。

 両腕は後ろ手に組ませた状態で、手首から肘までをぐるぐる巻きにしている。両脚は使い終えた脚立よろしく両膝をしっかりと畳んだ上で、同じくぐるぐる巻きにさせてもらった。足首と脚の付け根、そして太ももの裏とふくらはぎをくっつけられてしまえば、その場から動くことは難しいだろう。せいぜいが、横向きに転がって移動出来るくらいだ。


「お願い、歌織ちゃん。行かないで。お願い」


 歌織ちゃんのそばにしゃがみ込んで顔をのぞき込み、わたしは懇願する。


「歌織ちゃんがいないと駄目なの。わたしにとって歌織ちゃんは、わたしの体中を流れる血なの。血液を三割抜かれた人は生命の危機に陥る。なのにそれを全部一気に抜かれたら、死んじゃうに決まってるでしょ?」


 そもそも誰だって全身から血を抜かれれば死んじゃうけれど。

 わたしはそう付け加え、再び「だからお願い。外国になんかいかないで。考え直して」と求める。


「歌織ちゃんがいたから耐えてこられたの。歌織ちゃんがいたから生きていられたの。男子からブスだってからかわれたって、中学に入って陰湿ないじめを受けたって、上司にパワハラを受け続けたって、ずっと今日まで生きていられたのは……歌織ちゃんがいたからなんだよ?」

「そんな……そんな、あたし、そんな大それたことしてない……っ」

「しててもしてなくても同じなの。歌織ちゃんが〝近くにいてくれてる〟こと自体が、わたしの盾になってくれてたの。これまでわたしの心が壊れずに済んでるのも、全部全部、歌織ちゃんっていう格好良くて美人で尊敬出来る、そんな女の子がいてくれたおかげなの」


 解る? と、わたしは問いかける。

 すると信じがたいことが起きた。


「う、あ、あ……ああ……っ」


 うじうじとしたわたしと違い、すぐにハキハキと返答が出来る強いコミュニケーション能力を持っているはずの歌織ちゃんが、白い歯をカチカチと鳴らし始めたのだ。おまけに返答もしてくれない。こんな歌織ちゃんを見るのは初めてだ。

 困ったわたしはもう一度、口を開く。


「ごめん。言い方が悪かった? 伝わってる?」

「ひぃ……っ!」


 またも返答が来ないので、次は「言ってる意味、理解出来る?」と問いかける。今度は少し言い回しを変えてみた。そうすれば、違う角度から答えに辿り着いてくれるだろうと思ったからだ。何せ歌織ちゃんは賢いから。

 だけど、


「やめて……怖い、怖いよぉ……っ」


 歌織ちゃんが紡いだのは、恐怖を示す言葉だった。


「お願い、お願い、ちーちゃん……正気に戻って……! こんなところで、壊れちゃやだよ……! わたしは、わたしは、ちゃんとお別れを言いたいの……っ!」

「わたしが、壊れてる? 正気じゃない?」

「そうだよ! そうじゃなきゃ、優しいちーちゃんがこんなことするわけないじゃんかぁっ! お願いだから、このテープを取って! それできれいにバイバイって言わせて! 別に永遠に会えないわけじゃないし! 連絡だって取れるし……!」

「だから、わたしは、歌織ちゃんがそばにいてくれてるから……」

「ちーちゃん! 元に戻ってぇっ! 今なら警察にも言わないからぁっ!」


 何故だ。何故こんなにも会話が成り立たないのだろうか。

 わたしは誰かと上手く意思疎通を図れない性質ではあるが、これまでは歌織ちゃん相手のときだけは別だった。歌織ちゃんとならば、きちんとコミュニケーションを取ることが出来ていたのだ。現に、彼女が気絶するまではちゃんと意思疎通が出来ていた。だというのに、どうして急にズレが発生したのだろうか。

 整理しよう。歌織ちゃんがそばにいてくれているおかげで心を壊さずに済んでいるわたしは、他の誰でもない歌織ちゃんとだけならきちんと会話が出来る。互いに誤解を生むこともなかった。喧嘩もしなかったのだから。

 だというのに、どうして、


「やだ、やだよぉ……こんなちーちゃん、見たくない……」


 どうして、どうして、どうして、


「正気に、戻って……お願いだから、自分を自分で壊さないで……」


 歌織ちゃんだけが、らしくないことばかりを口走っている?


「嫌、嫌だよ、ちーちゃん……こんなの嫌ぁっ!」


 なんだ、これは。

 格好良くて、素敵で、尊敬出来る歌織ちゃんが、どうしてこんな風になっている?

 わたしはただ、そばにいてほしいだけなのに。


「歌織ちゃんは……そんなこと言わない」

「え……っ?」


 やっぱり、会社に洗脳されているんだ。歌織ちゃんは、あのろくでもない会社に呑まれてしまっているんだ。だから〝あなたがいないと生きてられない〟とはっきり口にしても全く伝わっていないんだ。だから会話にズレが、齟齬が発生しているんだ。

 そんなのは、そんなのは歌織ちゃんじゃない!

 わたしは静かに立ち上がると、衣装箪笥から自分の下着を――ベージュ色の地味極まりないものだ――取り出し、次にテーブルへと置きっ放しにしていた焦げ茶色のガムテープを再び手にした。


「歌織ちゃんは我を失ってる。あのおかしな会社のせいで、わたしの言葉が通じなくなっちゃってるんだ! 格好いいはずの歌織ちゃんがわたしみたいな根暗の弱々しい人間相手に怯えてるのも、全部あの会社のせいなんだ!」

「ちーちゃん! ちーちゃん! 何するの!? 怖いよ! ねぇお願い、怖いのはもうやめて! これ以上自分を傷つけないで! そんな怖いちーちゃん、もう見たくないよぉっ!」

「歌織ちゃんはそんなこと言わない。そんなこと言わない。そんなこと絶対言わない! もういいから、しばらく喋らないでっ!」

「お願い、お願い、助けてっ! 誰か、誰か助け……うぶっ! むぐぅっ!」


 そして丸めた下着を歌織ちゃんの口へと詰め込むと、何枚かに切り取ったガムテープをその上に何度も貼り付けた。おかしくなってしまった歌織ちゃんが、これ以上彼女らしくないおかしな言動を続けないように……厳重に、厳重にだ。


「んん……っ! んぶぅっ! ぐむぅうううっ!」


 そしてこれは洗脳の副作用なのか、くぐもった声を出す歌織ちゃんの大きな両目から涙があふれ出た。その煌めきたるや、さながらダイヤモンドが液体と化したかのようだ。

 しかしわたしなんかよりも遙かに強い女の子だった歌織ちゃんが、わたしに怯えて涙を流すはずがない。こんな目はいらない。こんな目で見てほしくない。この怯えきった眼差しは、歌織ちゃんがわたしなんかに向けていいものではない。


「元通りになるまで、それも禁止だよ、歌織ちゃん」

「うむうううっ!?」

「抵抗しないで」

「ぐぶぅっ! んんんんっ!」


 今度はガムテープを思い切り伸ばし、歌織ちゃんの両目に貼り付ける。そして何度も何度もぐるぐる巻きにしたところでようやく切った。これでもう、歌織ちゃんがいつもらしからぬ奇妙な視線を向けることはない。

 一仕事終えた感覚に襲われたわたしは、大きく息を吐いて彼女のそばに腰掛けた。


「どこにも行かないって、わたしのお願いに頷いてくれるまで、このままだからね」

「むぐぅっ!?」

「わたしのお願いに頷いてくれるまで、わたし、待ってるから」


 やることを終えて時計を見ると、すっかり日付変更線を超えていることに気付く。

 すぐに眠らなければ、明日の仕事に影響を及ぼすだろう。未だに単語として成り立っていない呻き声をあげる歌織ちゃんを一瞥したわたしは、シャワーを浴びる準備を始める。

 そして数十分後に浴室から戻ったわたしは二人分の布団を敷き、引きずるように歌織ちゃんを布団の中へと潜らせると、


「おやすみ、歌織ちゃん」


 布団の中で青虫のように身体をくねらせる、らしくもない歌織ちゃんにきちんと挨拶をしてから電灯を消すのであった。



 ◇ ◇ ◇



 そして翌朝……わたしは目覚めた瞬間、自分の心に素晴らしい変化が起こっていることに気がついた。

 なんと、朝を憂鬱に思わなかったのである。それどころか出社するための準備を始めたところ、今までよりも遙かに早いスピードで済ませられたときたもんだ。

 朝のパンも、あのパワハラ部長に出会ってからは食べ物の形を模した味のない何かを口にしているかのような憂鬱なものであったにも関わらず、今日は久々にきちんと味を感じることが出来た。しかも、とても美味しいという嬉しいおまけつきだ。

 何故ここまでの変化が訪れたのだろうか……と考えたが、その答えには十秒も経たずに辿り着いた。それは、


「歌織ちゃん、おはよう!」

「んむぉ……っ?」


 歌織ちゃんが家にいてくれているからだ。

 あの歌織ちゃんが、考えを改めてくれるまではそばにいてくれる……その状況が、わたしの心を浄化してくれたのだ。さすがは歌織ちゃんだ。

 掛け布団をはぎ取り、わたしは彼女の耳元で質問を囁く。


「昨日のお願いの答え、訊かせてくれる? 気は、変わった?」

「んんっ!? んぐっ! むぐうぅっ!」

「……そう」


 やはり一朝一夕で洗脳が解けるはずもなく、答えが変わるわけがない。さすがにわたしも、そこまでは期待していなかったのでまぁよしとしよう。

 首を横に振った歌織ちゃんに「それじゃ、行ってくる。残業からは絶対に逃げるから、それまで待っていてね」と言葉をかけてから家を出ると、わたしは昨日までよりも遙かに軽い足取りで会社へと向かった。

 しかしまさか〝家に帰りを待つ歌織ちゃんがいる〟というだけで、ここまで前向きに変われるとは思わなかった。こんなにも心が弾んだのはいつ以来だろうか? 今なら、あの上司だって怖くない。いくら怒鳴り散らされようと全て論破出来そうな気さえする。

 ああ、最初からこうすれば良かったんだ。

 であれば、もしも歌織ちゃんの洗脳が解けた暁には、彼女の拘束をすべて解いて同居を提案してみよう。いつかに彼氏を作る気にはなれないとぼやき、まるで恋人がするというお家デートの如くわたしの家に遊びに来てくれていたあの歌織ちゃんなら、嬉々としてその提案に乗ってくれるだろう。

 そうすれば歌織ちゃんはいつでもわたしと楽しく過ごせるし、わたしはわたしで言わずもがなだ。どちらも共に救われる、最高の未来が待っている。

 そうなったら別の職場を探して、あのブラック企業に三行半を突きつけてやろう。


「信じてるよ、歌織ちゃん」


 いつか自分を取り戻した歌織ちゃんに、ただいまを言う日が楽しみだ。

 バッグを片手に駅の階段を昇りながら、珍しくわたしは鼻歌を口ずさんだ。

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