19.「完璧にコピーできたら、何かプレゼントしようか」

 ぱちぱちぱち。ぴゅー。

 スタジオ中に、拍手と口笛が響いた。


「上手くなったじゃん、マキちゃん」


 能勢は思わず小柄な牧野の肩を掴んで揺する。それはある程度予想されていたことなので、牧野はにっ、と笑うことで返した。


「そう? 俺、上手くなった?」

「うん、上等上等」


 伊沢も言いながら、再び拍手する。

 しかし本当にいつの間に、とベルファのメンバーは半ば呆れていた。

 七月。彼等が牧野というこの高校生と出会ってから、三ヶ月経つか経たないか。

 なのにこの小柄な少年は、彼等の大事なベーシストと予想以上に仲良くなり、しかもベースまで教えてもらっていた。それだけではない。恐ろしく覚えが早かった。

 このバンドの曲は一見穏やかで、取っつき易そうに見えるが、実は展開が入り組んでいるし、コードもあちこち移る。つまり、初心者がチャレンジするのは無理なものだった。

 なのにこの少年は。

 奈崎はギターの前で腕を組みながら、彼にしては珍しく、本気で感心していた。牧野は照れながら左手を振る。そこには指先といい、手のひらといい、痛々しいものがあった。

 弦楽器を急速にマスターするには、それこそ文字通りの血みどろの努力というものが必要となる。それを短期間でやり遂げてしまうというのは、よほどの熱意か――― 集中力を元々、持った者だった。


「だって君、つい最近ベース始めたばかりだ、と思ったのにさあ……それでこれなら、すぐ、もっと上手くなるよ、ねえトモちゃん」


 奈崎はそう言いながらトモミの方を向いた。うん、と彼女もうなづいた。だがトモミの表情は、返事とは裏腹に、さして驚いている様ではなかった。


「マキノ、貸して」


 そして、そう言いながら自分のベースを取り戻す。


「ここはやっぱり、こう」

「何処?」


 彼女は伊沢に合図して、あるフレーズを叩く様に頼んだ。そしていつもの自分流にトモミは弾き直す。目を閉じてじっと聞くと、牧野は大きくうなづいた。


「……うんそうそう、そう弾きたかったの。だけどまだ、それは俺には難しかったから」

「やっぱり手取り足取り教えてるのは強いねえ、マキちゃん」

「奈崎さん!」


 牧野は反射的に大声を出していた。そしておっと、とばかりにトモミの方を見てほっとする。良かった、驚いてはいない。


「まー怒らないで怒らないで」


 奈崎はそう言うと、ぽんぽんと牧野の頭をはたいた。


「奈崎さん、俺、小さいと思って~」

「そうそう、小さいのにさ、よくトモちゃんのロングスケールこなすよな」


 能勢も口をはさむ。


「……まあワタシも迷ったけど。うちには短いスケールのものもあるし」


 彼女は家に合計十二本、ベースを置いていた。ちなみに牧野に使わせていたのは、黒いシンプルなベース。二番目の愛用品だった。

 彼女が使うメインのベースは、やはり黒が基調のロングスケールだが、全体に螺鈿の模様が入っているのが特徴だった。


「けどホント、マキちゃん、何でそんな上達早い訳? 俺はあきらめてこの美声を生かすことにしたんだけど」


 ふっ、とそれを聞いた奈崎は遠い目をして、そう言えばお前は本当に覚えが悪かったなあ……とつぶやく。


「マキノはピアノをやっているから力があるんだ。曲の複雑な構成にも慣れてるし」


 へえ、とメンバーは揃って声を立てた。


「マキノ、手を出して」


 トモミは牧野の手を取ると、奈崎の手を握る様に言った。何のことやら、と思いつつ、奈崎もそれに応じる。


「はい、お互いぎゅっと握って」


 ぎゅっと。彼等はトモミに言われた通り、力を込めてお互いに握り合った。小柄な牧野の手は、奈崎の大きな手にすっぽりつつまれてしまうかの様である。だが。


「痛ぇーっ!」


 奈崎の声が、スタジオ中に響き渡った。慌てて牧野は手を離した。


「……な、何、マキノ君って凄い力」


 ひらひら、と手を振る奈崎に、だろう? とトモミはくすくす、と笑った。

 笑った。これもまた、彼等にしてみれば、恐るべき変化だった。

 トモミがくすくすと笑う。にっこりと笑う。ふふ、と笑う。それが毎日、何処かしらであるなんて。彼女をバンドに入れて三年、そんなことは彼等には考えられもしなかった。快挙である。それだけでも、彼等にとっては、牧野を自分達の周辺に引きずり込んだ甲斐があったと言えた。


「ワタシも最初、驚かされた」


 当の牧野は首を傾げ、そうかなあ、と自分の両手を広げてじっと見る。


「それに手が小さいとは言っても、ピアノを弾くことで指を広げる訓練はできているから、ベースに関しても、全然問題じゃない」


 へえ、と再び感心する声が周囲から上がる。


「じゃあトモちゃん、結構すぐに、追い越されるかもよ」


 そう、と彼女は微妙な笑みで答えた。そしてふと、唇に指を当て、何やら考え込む。

 その間牧野はずっと、能勢のおもちゃにされていた。ナナよりも小さい彼が、バンド一の長身の彼に抵抗するのは、まず無理だった。握力だけでは彼には勝てない。

 やがてふと、トモミは指を口から離した。


「ねえマキノ」


 んもう! と言いながら、根性で牧野は能勢から逃れた。


「ワタシが指定する曲、キミが完璧にコピーできたら、何かプレゼントしようか」


 え、と牧野は能勢や奈崎の来襲を受けた時よりも、大きな目をした。


「で、何がいい? マキノの好きなもの」


 おおっ! と周囲が再び湧いた。


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