18.「でもキミはワタシと同じ種類の人間だ、と思ったから」
「空いているところに座っていて下さいな」
居間に彼を迎え入れるなり、彼女は言った。
空いているところ。
空いているところだらけだった。
三年前と同じく、この部屋はすっきりとしていた。当時とまるで変わらず、オーディオと楽器がコーナーに、ファイルの棚が部屋の真ん中に置かれているだけだった。その側には折り畳みのマットレスらしきものが、アイボリーのカバーを掛けられて避けられている。当時と変わっているものがあるとしたら、それはクッションの数だけだろう。
「何でこんなにたくさんクッションが?」
牧野は思わずつぶやいた。
広いLDK、彼女と寝床と楽器の居場所以外を全て、クッションが埋め尽くしていた。
それはこの部屋の基調のナチュラルカラーとは違い、「南国の鳥の羽」の色から「呪われた国防色」まで色とりどり。また大きさも実に様々だった。
「……これって…… ふとんと違う?」
彼はふと、牛柄模様の、壁に立てかけられた一枚をつついてみる。
「ふとんじゃない、クッション」
彼ははっ、と飛び上がった。いつの間にか背後に、トモミが飲み物の乗ったトレイを持って近づいて来ていた。
「お、驚かさないで下さいよ……」
「あ…… ごめん」
さらりと言いながら、彼女はその場にかがみ込み、トレイを置く。そして山の様なクッションの中の前に立つと、んー、と唇に人差し指を当てて考える。
「マキノ君」
「は、はい?」
不意に問われて、彼は戸惑う。
「ワタシは今日どれが使いたいんだろう?」
「え?」
そんなこと聞かれても。牧野はそれでもざっとクッションの山に視線を走らせた。
「……ええと、これ?」
ふとぱっ、と目に飛び込んできた一枚を手にした。
「そう。ありがとう」
「本当に、これで良かったんですか?」
「本当に、これでいい。ありがとう。マキノ君も好きなの選んで座ればいい」
彼女はその上に座ると、雑誌を引き寄せ、ぱらぱらと床の上で繰った。
牧野は何となく腑に落ちない様な気もしつつ、まあいいや、と巨大な牛柄を選んだ。やっぱりふとんだよ、と思いつつ。
トレイの上には、温かい紅茶が乗せられていた。彼女は特に彼にそれを勧めるでもなく、自分は既に口にしていた。
沈黙が続く。それはそれで悪くないのだが。
「……何か面白い記事でも載ってます?」
「え? あれ、マキノ君、呑まないの?」
慌てて彼はカップを手に取る。
「今、記事って言った?」
「あ、言いました」
「見る?」
おいで、とトモミは彼を手招いた。それは大きな雑誌だった。ファッション雑誌の中でもアート系と言った方が良いものである。
「いいなあ、と思って」
「ああ…… このベスパ」
何故そう言ってしまったのか、彼には判らない。ただその広げられたページを見た瞬間、彼の目には、一つのものが飛び込んで来てしまったのである。
石造りの道を、ペパーミントのスクーター――― ベスパに乗って、女性モデルが走って行く。そんな姿。
「うん。いいよね、これ」
「トモさん乗りたいんですか?」
「うん。ナナさんは駄目だって言うけど」
「どうして?」
「ワタシが乗ると必ず事故を起こすから」
うーん、と牧野はうなった。
「マキノ君は乗ったこと、ある?」
「や、無いですよ。だってまだ俺、十六になったばかりだし」
「十六歳。高校生。楽器やってるって?」
「ええ、ピアノ」
「やっぱり」
彼女の表情が微かに緩む。あ、笑った、と牧野は思った。だがそれはほんの微かなものだったので、普段から彼女を知らない限り、判らないくらいのものでもあった。
「……ピアノ、好きですか?」
「ピアノは好き。高音でもうるさくないし」
「ふうん…… 高音、うるさいですか?」
彼女は曖昧に首を傾げた。
「人の声、ソプラノ・サックス、ピッコロ…… ああ、あのバンドのギターも駄目だなあ……」
彼女はそう言うと、長々とバンド名を並べた。ざっと五十もあっただろうか。
「俺その半分も知らない」
「ワタシは記憶力だけはいいんだ。でもそのバンドは駄目だ。音が耳に当たって、痛い」
「ああ…… 鼓膜がびりびり来るって感じ?」
「やっぱり? うん、それもあり」
何がやっぱり、なんだろう。その時ようやく彼は思った。
「ねえトモさん」
彼はカップを置いた。何、と彼女は問い返した。
「何がやっぱり、なんですか?」
「……もう少し、具体的に言って欲しい」
「うーん…… じゃあちょっと変えます。どうしてトモさん今日、俺泊めてもいい、って思ったんですか?」
彼女は軽く目を細めた。そして口の中で何かをつぶやく。そしてうん、と小さくうなづくと、ゆっくりと答えた。
「間違ってたら、ごめん。ワタシはよく質問の意味を取り間違うらしいから」
「……そうなんだ」
メンバーの中で言葉少なな理由はそのせいか、と彼は思い当たる。
「でもキミはワタシと同じ種類の人間だ、と思ったから」
「同じ?」
彼女はうなづき、身を乗り出した。
「ワタシの言い方、判らない? もしそうだったら、キミはそうと言って欲しい。ワタシの問い方や言い方や話題は、時々何かが抜けてるか飛ばしていて判らないらしい」
うーん、と牧野は口を少し歪めた。奇妙は奇妙だ、と彼も思う。だがそれは何と比べて「奇妙」なんだろう。だって。彼は思う。
俺には、彼女の言おうとしていることが、「何となく」判るから。
たぶん、それがきっと。
「……どうだろ。コトバは時々ひどく難しいから。音の方が判りやすい」
「音。やっぱり音なんだ。ベースの音は、一番ワタシにとって心地よい」
「俺もベースは好き。それに同じフレーズが繰り返されるのって、安心できるよね」
「安心。そう、安心できるんだ。何よりも」
「ピアノも好きなんだ。でもあれは俺を不安にさせる。だから俺は時々ピアノを弾くのが苦しい」
「苦しいのに弾くの?」
「だってそれ以外、俺は俺の感じたものを外に出す方法が判らない」
「必要なんだね」
「うん。必要なんだ。苦しいけど。作ったひとの、音に込めた感情が、情景が、そのまま、ピアノから出た音が俺の耳を通るたびに、伝わって来る。俺はそれで立ち止まってしまう。まえにレッスンしてくれた先生は、それは大切なことだ、君の感性は大事にしろって言ったけど、……先生には、俺がどれだけ『痛い』のかは、判らない」
「……ワタシはそれ、判る。判る、と思う」
「判る?」
彼女はいつになく熱心にうなづいた。
「ウチのバンドと他のバンドの違いもそう」
「でも結構激しい曲あるでしょ」
「うちの音は、いいんだ。曲そのものが、心地いい。激しい曲でも、それはあくまで海や雨の激しさで、人のそれじゃあない」
「ああ…… やっぱり海だったんだ」
彼は納得したように微笑した。
「見えるんだよね」
「そう、見える」
くすくす、と二人は笑い合った。
「コトバじゃないんだよね、あなたも」
「ワタシには、歌詞は判らない」
「俺もそう。そしてあなたは俺のそれが、最初から、判ったんだ」
「キミがあの男達に囲まれて、叫んでいる声を聞いたとき、ワタシが居るって思った」
彼女はつ、と牧野の頬に触れた。彼もまた、同じ様に指を伸ばした。彼女は避けなかった。
「ナナさんが、トモさんの側を通る時には気を付けて、って言ったけど」
「彼等は親切だ。ワタシが唐突に触れられると、飛び上がることを良く知っている」
それは彼自身にも覚えのある感覚だった。彼女程ではないかもしれない。だが無いとも言い切れない。そして「親切」も。
「でもワタシには、『親切に対しての感謝』以上の感情は、彼等に対して、どうしても持てない。フリは何とかするけど」
そうだね、と彼はうなづいた。
牧野は軽く目を伏せた。
「俺もずっと、故郷でそうだったんだ」
彼女は両手で彼の頬を包み込んだ。
「俺の育ったのは凄い田舎だったから、特にそうだった。窒息しそうだった」
「窒息。そう、彼等はワタシにもそう言った。マニュアル通りにやってるだけじゃいつか窒息する、って。でも必要だから父はワタシに遺したんだろう」
「お父さん、死んだの?」
「死んだ。昔だ。今じゃあない」
「哀しくはないんだね」
「哀しいのが普通の感情だ、と皆言う。でも言われてもワタシには困る。クラセが死んだ時もそうだった」
「クラセさん」
「大切なひとだった。父より大切だった」
牧野はその言葉に少なからずショックを受ける自分を感じていた。だがその反面、そんな事実があったのか、と冷静に受け止めてもいた。何しろそれは「過去形」なのだ。
「大切なひとだった。でも哀しい、という気持ちじゃあない。彼等にそう見えたとしても、それは違うんだ。ワタシはただ困った。どうしようもなく困った。それだけなんだ」
「うん、判る」
「彼等はおそらく親切な誤解をしているんだ」
牧野もまた、彼女の顔に両手を伸ばした。
「大切なひとが居なくなって困った。その様子が、彼等にとっての『哀しい』と似ているだけなんだ。ワタシは相変わらず彼等の言うところの『哀しい』という感覚は判らない。非難されてもワタシは困る。ワタシには感じられないんだから」
「あなたが言うなら、きっとあなたにとってはそうなんだ。俺もそうだ。俺は両親がちゃんと自分の両親だということは知ってるけど、彼等に対して、どうしても違うところの人間だ、という感覚しか持てなくて」
「困った」
「困ったんだ、そう」
彼等はそう言いながら、次第にお互いの間にある距離を減らしていった。
やがてその距離が0になる。
「大丈夫?」
と牧野は彼女の背に手を回して問いかけた。
「大丈夫」
と彼女は答え、同じ様に腕を回した。
「君は、ワタシを浸食しようとはしない」
「あなたは、俺を食いつぶそうとはしない」
「彼等は親切だ。だけど時々境界線を越えて来ようとする。それは困る。困るんだ!」
―――困るんだ、それは。
彼等は朝まで、牛柄のクッションの上で抱き合った。
だがそれだけだった。それ以上のことは、彼等には必要ではなかったのだ。
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