20.「何で、『笑う雨』なの?」
「プレゼント」
牧野はその単語を繰り返す。
「うん。ワタシにできる範囲で」
んー、と牧野は天井を見上げた。
「何でもいいんですか?」
「おい、この言い方って怖いんだぞ」
能勢は人の悪い笑いを浮かべた。
「……じゃあトモさん、トモさんが俺にあげたいものをください。何でもいいです」
「ワタシが、キミに、あげたいもの」
うなづく牧野に、うわぁ、と周囲の男達は、息を詰めた。どう彼女が答えるのか、想像ができないのだ。
「……でもそれって、結構難しくないか?」
能勢は苦笑しながら牧野をのぞき込む。そうですか? と牧野は意外そうに答えた。
「じゃあトモちゃん、課題曲は何?」
奈崎は微妙な笑みを浮かべ、問いかけた。
「課題曲? 課題曲か……」
彼女はしばらく考えていたが、やがてぼんぼん、とある曲のイントロを爪弾いた。
「……お、それかい!」
奈崎は驚いて声を上げた。
「ええ」
「それかい、って何ですか?」
牧野は隙あらばちょっかいを出そうとする能勢に、素早く問いかけた。
「……『LAUGHIN' RAIN』。よりによって一番ベースがややこしい曲じゃねえの」
「だから、じゃない?」
ナナの声が戸口から飛んで来た。
「あれ、お前どうしたの」
能勢は不意に入ってきた彼女に自慢の声を飛ばす。
「何言ってんの、差し入れよ差し入れ」
彼女は言いながら、チェックの紙袋を持ち上げた。差し入れの言葉にわっ、と男達は彼女の方へと群がる。トモミと牧野をのぞいて。
「『LAUGHIN' RAIN』……笑い…… 雨?」
多くも無い英単語の記憶の中から、高校生はようやく意味を見いだした。
「はずれ。笑う雨」
ワタシの曲、とトモミは付け足した。
「そう言えば、外にスクーターあったけど、あんた達の誰か、乗ってきた? 鍵ついたままだったわよ?」
ナナはちゃり、と鍵を掲げてみせる。
「あ…… それ、ワタシだ」
「トモちゃん!」
ちょっとこれ持ってて、と彼女は能勢に紙袋を押しつけると、トモミの方へつかつかと歩いて行った。
「トモちゃん、あんた、あれほど言ったのに、免許取ったの?!」
「一応、講習は受けた。ワタシはきちんと道路法則は守るから優秀だと言われた」
でもねえ、とナナは付け足した。
「判ってる? もの凄ーく危ないのよ? もしも何かあったら、あたし達本気で怒るわよ!」
それは何か違うのではないか、と男達は思いつつ、それでもナナの言葉を否定する訳にはいかなかった。
「……大丈夫ナナさん、ワタシは事故は起こさない。まだワタシも死にたくはない」
「だから! そういう縁起でもないことを言うんじゃないの!」
牧野はその話を耳にしながら、そうかやっぱりベスパ買ったのか、と当然のことの様に思っていた。最初にトモミの部屋に行った日、彼女はその写真を熱心に見ていた。
その時から彼は、トモミがいつかそれを必ず手に入れるだろうことは知っていた。ペパーミント・グリーンのベスパ。判っていたのではない。知っていたのである。
*
「なかなかできないよ、あの課題曲」
八月のある夜、マキノは苦笑しながら、それでも何処か楽しげにトモミにこぼした。
「当然。簡単に弾ける様には作っていない」
彼女は彼女で、何処か満足そうにうなづく。
「それに俺には少し辛い。フレーズ一つ一つはまあそれなりに弾くことができるけど、どうしても、上手くつながらないんだ」
「難しいテクニックは使ってないよ」
「違うよ。そういうことじゃない」
マキノは親指で第一弦を弾く。それは黒一色のベースのボディに当たって、やや耳障りな音を立てた。
「すごい、……自虐的」
「ムズカシイ言葉を使うんだ。マキノ」
「だってホント。あれを弾いてると、音に含まれてる、トモさんの感覚が伝わってくる。あれ、あのひとが、死んだ時のでしょ?」
「マキノ」
「クラセさんが、死んだ時の」
彼女は軽く目を伏せた。
「何で、『笑う雨』なの? 俺、あなたからタイトルを聞いた時、リフレインの間違いかと思った」
「偶然。考えたことはない。あの時のワタシには、そう聞こえた。それだけ。雨の音が笑ってる、って。雨が降ってたんだ。クラセの葬式の日」
「お葬式の」
「ワタシは行かなかった。いや、行くことができなかった。身体が動かなかったんだ」
ほらそこ、と彼女はコーナーにある、楽器のたまり場を指さした。
「ワタシは彼が死んでからずっと、そこに居たんだ。外ばかり見ながら、床に転がってた。時々ナナさんがやってきた気がする。でも気だけだ。覚えていたのは雨だけなんだ」
「それが『笑う雨』?」
ああ、と彼女はうなづいた。
「でもどういう雨か、は判るだろう?」
言葉で説明するなんて、今更彼等にとっては、無駄なことに過ぎない。そうだね、とマキノは答えた。
「俺は知ってる。あなたの見た雨が。聞こえる。それはひどく自虐的だ。そして俺にとっても。あなた、意地悪だ」
「ワタシが?」
くっ、と彼女は笑った。だがマキノの表情は動かなかった。
「うん、意地悪だ」
「どうして?」
「だってこの曲は、トモさんがクラセさんのこと、考えてるものだ。俺には、辛いよ」
だがその口調は、決して心から辛がってはいない。おいで、と彼女は牧野に手を伸ばした。彼はベースを下ろすと、彼女の手を取った。そのまま軽く、抱きしめ合う。
「ねえ、先輩はもう居ないんだ。何処にも」
「判ってる。だからこれはただの俺の嫉妬。トモさんの気持ちを独り占めできないから」
結局指が動かないのは、そのためだ。彼は知っていた。技術的なことではない。ただ自分はこの曲を、弾きたくなかっただけなのだ。
「マキノは嫉妬する必要はない」
彼女は少しだけ、手の力を込めた。そうだね、と彼も同じ様に力を込めた。
「クラセ先輩は、ワタシにとってとても大切なひとだった。だから彼の記憶で曲を作ろうと思ったのに、どうしてもこれしか作れなかった。居た時の彼ではなく、不在の彼しか」
居る時には、作れなかった。作ることも、考えなかった。
「でも、ワタシの中で、一番、覚えていたい、彼の存在が、あの中にはある。だからあれ一曲で、いいんだ」
「じゃあ…… これからもっと楽しい雨の曲も作ろうよ」
「そう。台風の日に、外に遊びに行こう。空も風も、色々な顔を見せてくれる。きっと雨も暖かい。誰も居ない街で、二人ではしゃごう。ずぶ濡れになって、思いきり大声を出して、馬鹿面をさらそう」
「帰ってきたら、廊下をびしゃびしゃにしながら歩いて、そのままバスルームへ行って。そしてうだる程熱い風呂に入って泡だらけのまま記憶の空を、海を、雲を音にするんだ」
「そして台風が過ぎたらサングラスを掛けて外に出よう。むっとする大気と人間の中を抜けたら、きっとオアシスなカフェがある」
「グラスの中の氷の音。ストローをかき回す時の音」
「夕立も来ればいい」
「それで上がった時にまだ陽が出てたら、お日様に背を向ければ虹が見えるよ。そしたらあなたの虹を音にできる」
「そうもっと。これから曲は作れる。マキノと居れば」
「俺と居れば。俺でいいの?」
「キミがいい。誰が居る?」
すると牧野はすっ、と彼女から身体を離した。そして先程置いたベースを取り上げると、彼女にヘッドフォンをかぶせた。
「……聞いて」
彼は自分自身にもヘッドフォンを付けると、ピックを振り下ろした。
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