第3話 校舎に漂う妖気
「さあ、順番にシャワーを浴びてらっしゃい。今日は運動部の生徒もいないから、ゆっくり浴びられるわよ」
森山先生が俺たちの方を向いて言った。シャワー室は一階にあり、薄暗い廊下を通り抜けた一番奥の部屋だ。一人で行くには勇気がいる。
「早めに行ってこよう、石田」
俺は、石田の肩に手を置いた。
「そうだな、遅くならないうちに行こう」
俺たちは美術準備室に戻り、着替えとタオルを持って一階のシャワー室へ向かった。古い校舎の壁は、昼間見ると汚れはただ生徒がいたずらでつけた足跡なのだが、夜はその汚れが人の手や顔の様に見える。曲がり角の向こうから誰かが自分たちを見ているような気がする。
「誰かがいるんじゃないのか。人の気配がするが」
俺は、前を歩く石田に囁いた。
「気のせいだ。古い校舎のせいでそんな気がするだけだろ。お前意外と怖がりなんだな。この校舎は老朽化が激しいからそろそろ改築されるらしい。こんな年代物の校舎、何か出そうだが気のせいに決まってる。卒業してから来たらなくなってだろう」
「寂しいこと言うなよ。俺は卒業した生徒たちの楽しみと怨念のこもったこの古い校舎が好きだ」
「怨念か……まあ、確かに三年の間には楽しいことだけじゃなく辛い思いをする奴もいただろうな」
「ほら、あの壁の模様なんか、人の眼にそっくりだ。天井の汚れが何本もの手に見えてきた」
「外が真っ暗だから、汚れた蛍光灯に照らされて変な模様に見えるんだ。特にこんな夏休みの夜には何か妖気が漂っているような気がする」
「おい、脅かすな!」
恐る恐る歩き、ようやくシャワー室の前にたどり着いた。ふーっと安堵の溜息をついた。
「よかった。やっとシャワー室に着いた」
暗闇の中でシャワー室の横にあるスイッチをさがし、パチリと通した。明るくなった室内に入ると、俺はようやく現実に戻りほっとした。シャワー室は廊下よりはずっと明るく清潔だった。じっとりと体に張り付いた汗を流しさっぱりした。帰り道は、ほとんど口も利かずすたすたと速足で歩き美術室へたどり着いた。
美術室では女子たちがシャワー室へ行く準備をして待っていた。石田が彼女たちに意味ありげに語っている。
「シャワー室までの廊下、真っ暗で怖かったな。壁の汚れが誰かの眼みたいで、あちこちから見つめられているようだった。廊下全体から妖気が漂っているぞ。気を付けて行けよ」
「何脅かしてるのよ! 何も出ないわよ。気のせいよ!」
美奈が強がっているのがよくわかった。
「みんなで一緒に行くから大丈夫! さあ行くわよ!」
「大勢いたって関係ないん。出るときは出るんだから気を付けろよ」
「もうやめてっ! 早く行こう!」
彼女たちは六人一緒に連れだってシャワー室に向かった。
「おい、石田。いくら何でも脅かしすぎだろ。あいつらを脅かしてもいいことはないぞ」
「おーい。せっかく合宿に来てるんだ。思い切りこの雰囲気を楽しまなきゃ」
「なんだ、そういうことか」
俺たちは美術準備室に着替えを持って入った。またしても絵の中の少年と目が合った。今見ると絵の背景が薄暗い部屋と同化して、顔と目だけがぼんやりと浮き上がっているように見える。じっとこちらの動きを観察しているようだ。
「気味が悪いな。暗くなってきたせいかな。端にかたずけておこう」
俺たちは絵を部屋の隅に置き、近くにあったクロスをかぶせ顔が見えないようにした。俺は冷蔵庫から、持ってきた炭酸飲料を取り出し、ペットボトルのままあおった。石田は麦茶を紙コップに入れクーっと一気に飲み干した。
そのあと、二人で顔を見合わせ一連の行動が薄暗がりの中で行われていたことに慌てふためき、ようやく電気を付けた。
「布団を敷いて、そのうえでゴロゴロしてよう」
俺は石田に提案した。
「いいな。旅行に来ているみたいで、ワクワクする」
布団を敷き、その上に二人ともごろりと横になり、俺は持ってきた雑誌を読み、石田はイヤホンで音楽を聴くことにした。静かな部屋の中で思い思いの時間が過ぎていた。
「なんだ、石田」
俺は石田の顔を見たが、何事もないように音楽を聴いていた。
「今、何か言わなかったか? おい!」
俺は、もう一度彼の方を向いてさっきよりは大きな声で言った。石田は、イヤホンを外して不思議そうな表情をした。
「今俺のこと呼んだ?」
「お前こそ、俺に声かけなかった? 声がしたけど」
「呼んでない。気のせいじゃないのか?」
「そんなはずはない。確かに声がした。細い男の声で……俺を呼んでた」
俺たちは顔を見合わせ、それから部屋を見回した。どこかの声が漏れて聞こえてきたのだろうか。
「おーい、誰かいるんだろ。俺はここにいる」
その声は小さくかすかに、美術室と準備室を繋ぐ扉の反対側にある、廊下へ抜ける扉の外から聞こえてきた。空耳なんかじゃなかった。
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