第3話 シャンプーの香り
明日香の両親は共働きで、特にお母さんの方がよく出張に行っていた。
明日香の両親が共に家を空けるときは、明日香が泊まりに来るのは珍しくなかった。
代わりにといってはなんだが、俺も何度か、試合のときに明日香の父に送り迎えしてもらったことがあった。
俺の家も明日香の家には世話になっていたので、お互い様という感じだった。
が、それは小学生までの話だ。
ここ数年は明日香も、明日香の弟の明弘も、自分たちだけで留守番をするようになっていたから、俺の家に泊まりに来るのは久しぶりだった。
なんで今、わざわざ俺の家に泊まりに来たんだろう。
ちょっと気にはなったが、特に聞こうとはしなかった。
俺はそんなことに思いを巡らせながら、食事が終わってからも、ダイニングでスマホをいじっていた。
明日香が、俺の肩を軽くトントン、と叩いて言った。
「お風呂、先に借りるねー」
「おー、了解」
俺はスマホから目を離さずに答えた。
あ、久しぶりに来たから、タオルの場所教えないとな、と俺は思って、脱衣所まで行って明日香に声をかけた。
「タオルの場所わかるか?」
明日香は、「大丈夫ー」
と言いながら、勝手知ったる要領で棚の上から2番目にある母さんのタオルを手に取っていた。
じゃあ、と言って脱衣所のドアを閉め、俺は階段を上り、自分の部屋に向かった。
うわぁ…せっま。
母さんは、本当に「ちょっとだけ」片付けてくれていた。
俺のベッドの横に、来客用の布団が敷いてあった。
俺が寝たら頭をぶつけそうなくらいには、椅子や、漫画の棚が迫り出してきていた。
だりぃな。
物置に椅子を閉まって、散らばっていた
ティッシュやら漫画やらを拾い集めて、クリアケースに放り込んだ。
まあ、これで寝られるだろう。明日香には俺の布団で寝てもらえばいいやと思った。
床に敷いてある方の掛け布団をはいで、俺は腹筋を始めた。
下の階からシャワーを浴びる音が聞こえてきた。
あいつ、シャワー浴びてんだな。
当然の流れのはずだが、改めて思ってしまった。
だからなんということもない。
俺は腹筋を続けた。
でも、シャワーの音に気を取られたせいか、何回やったのかがわからなくなってしまった。
しばらくすると、階段を上がる足音が聞こえてきた。
明日香はノックをせずに俺の部屋のドアを開けた。
長い髪は濡れたままで、肩にはピンク色のタオルを掛けていた。白いもこもことしたパジャマは、触り心地が良さそうだった。
「お風呂、どうぞ」
明日香は背筋をやっていた俺を見下ろしながら言った。
「おー、じゃあ行くわ」
と言って俺は起き上がって、部屋を出ようとした。明日香が、
「ドライヤーどこ?」
と聞いてきたから、
「母さんの部屋か、姉貴の部屋だと思うよ」
と答えてから、シャワーを浴びに行った。
風呂から上がって、適当に体を拭いた。
いつもはパンイチだけれど、ちょっと気を使ってシャツを着ておいた。
風呂上りに服を着ると暑いんだな、と思った。
部屋に戻ると、明日香は俺のベッドに腰掛けて、髪を乾かしていた。
俺は、床に敷いてある布団の上にあぐらをかいて座った。
時折、ドライヤーの風が俺の顔に当たって、シャンプーの甘い香りがした。
ドライヤーを終えた明日香が、机を貸して欲しいと言い出した。
そう言われても、俺の机の上はお世辞にも綺麗とは言えない有様だった。
しかも、さっき椅子を物置に片付けてしまったし。
「机で、何するんだ?」
と俺が聞くと、
「何って、勉強」
と、不思議そうな顔で明日香が答えた。
「宿題とかあんのか?大変だな」
と俺はねぎらうつもりで言ったが、
「無いけど。明日の予習、復習ね。てか、あんたは勉強しないの?その机も使える状態じゃないし…」
と、逆に小言を言われてしまった。
本当にこいつは親よりも親みたいだ。
「んー、じゃあ、姉貴の部屋の机使えば?」
俺の隣が姉貴の部屋なのだが、姉貴は一人暮らしして大学に通っているので、多分空いているはずだった。
「葉月さんに申し訳ないなぁ」
とか明日香が言った。俺の机は使える前提で姉貴の机を使うのは申し訳ないんだな?
「とりあえず見てみるわ。」
と言って、俺は姉貴の部屋のドアを開けた。
母さんが買ったバランスボールやら、父さんがノリで買ってきたセグウェイの紛いものやら。
色んなガラクタ(きっと多分必要な物)がごちゃっと置かれているのが、目に飛び込んできた。
明日香が来るから、無理矢理片付けようとしたのだろう。机には辿り着けそうになかった。
「ダイニング行けば?」
と俺が言うと、明日香は、
「わかった。じゃああんたも来て」
と言ってきた。
「いや、俺まだ筋トレとかあるから。お前が戻ってくるまで起きてるからさ」
と伝えて、俺はもう一度横になろうとした。
明日香は動かなかった。
「どうかした?」
と俺が聞くと、明日香は、部屋のあちこちにちらちらと視線を移しながら、少し考えるような仕草をした。そして、
「…下でも腹筋とかできるじゃん」
と不満気な顔をして言った。
俺を連れて行きたいのか?
めんどくせぇな、と思ったが、仕方がないのでついて行くことにした。
俺はリビングのカーペットの上でストレッチを始めた。
その間、明日香は分厚くて青い参考書を開きながら、うんうん唸っていた。
せっかくだし、話し掛けてみるか。
「…なんか難しそうだな」
と俺は言った。明日香は、小さくうん、と言って頷き、そのまま問題を解き続けていた。
俺が降りてきた意味は無いように感じたが、明日香の隣でトレーニングをしていると、いつもより捗る気がした。
誰かと一緒に過ごす夜も悪くないなと思った。
「あ、もう0時」
明日香に言われて、日付が変わったことに気がついた。
明日は朝会がある日なので朝練はない。
普段はこれからソシャゲに時間を費やすのだが…目の前にいる明日香の目がとろんとしていたので、ついでに俺も寝ようと思った。
明日香は最初、私が床で寝ると言ったが、俺がベッドを譲ると言うなり、あっさり布団に潜り込んだ。
俺も布団に潜り込んだ。
久々の敷布団。背中に床の感触が伝わってきた感覚があった。
「…ねえ」
明日香が呟くように言った。
「ん?」
まだ起きてたのか、と思いながら返答した。
「久しぶりだね、こういうの」
と明日香が言った。
「そうだな」
と俺は相槌を打った。
「でも、俺の家来るより一人の方が楽だったんじゃないのか?明弘もいるんだろ?」
と率直な疑問を呈した。
「今日ね、お母さんが台湾に出張で、お父さんが愛媛のおばあちゃんちに行ってて…
明弘は林間学校だったんだよね、それで」
ああなるほど、と俺は思った。それで俺の家に来たのか。
半分くらい質問に答えてくれていなかった気もしたが、俺も眠くなってきたので、特に突っ込まなかった。
おやすみ、とだけ言ったような。
俺はいつのまにか眠りに落ちていた。
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