Ⅰ
『あー! 書けん!』
携帯の向こうから突然聞こえた叫びに、私はビクリとして作業の手を止めた。
「どうした。発作?」
『やかましい』
「やかましいのは君の方でしょ」
それはそうだけどそうじゃなくて云々、ぶつぶつ言う彼女を無視し、私は作業に戻る。三連休初日の夜。思う存分執筆ができるねと言って、彼女は私を通話に誘ってきた。いわゆる作業通話――通話を繋げた状態でお互いに作業をすることで、サボり防止や息抜きの時の話し相手などになったりするというアレ――である。
個人の空間に突然他人が割り込んでくる感覚が嫌で、私は通話というものが嫌いだ。だが、彼女とのそれだけは別だった。
私も彼女も、互いの顔も知らなければ本名も知らない。知っているのはハンドルネームとペンネーム、それから互いの作品のことだけだ。しかし私も彼女も、顔と本名しか知らない互いの友人たちより、ずっと互いのことを知っていると自負していた。
私と彼女は、ものの書き方が似ているのだ。
生活を切り取って、感情を抉り取って、言葉にする。感情を抱えて、抉った傷口がまだ光るまま海に飛び込む。潜る。海の潮が傷に沁みてじくじくと痛む。言葉を拾っては編んで、綴って。誰に見られずとも、そうするのだ。そうしないと生きていけない、筈だから。
どんなに書くことが痛くてもやめられない、そんな人種なのだ。
少なくとも、彼女は。
『——で、そっちはどうなのさ。学校の課題は順調?』
「……バレてら」
『当たり前だろ。通話始めてから微塵もキーボードの音しないし。それにこの間スランプだって自分で言ったじゃん』
「覚えてんならなんで誘ったのよ、作業通話」
『通話繋いでないと寝そうだったんだもん。あんたのことは考えてなかった』
「ばか」
書けなくなってから、彼女と通話をする時は大抵学校の課題か設定作りをしていた。書けもしないのに物語のことを考えるのはやめられないから、書く当てのない話の設定ばかりがどんどん積み上がっていく。たぶん、仮に書けるようになったとしても、このノートに書いた設定で話を書くことはないだろう。そういう書き方をしてこなかったし、私がやりたいことはそれではないと強く思う。設定は本当にただ暇潰しと惰性で書いているだけだ。
ノートの中の登場人物たちが実際に文字になって動くことはないのに、無責任に生み出し続けて。彼らはいったい、どこへ行くのだろう。
どこにも行けはしないか。私のように。
携帯の向こうからは、沈黙とキーボードを叩く音だけが流れてくる。このスピーカーの向こうには彼女の生活があって、彼女の部屋がある。互いに、実生活の話はあまりしなかった。ただ互いの海の話ばかりをしていた。
彼女はそれを「海」とは例えなかったけれど。
私が書けなくなってから、彼女は少し彼女の生活の話をするようになった。私の話すことがなくなった分の、所在ないその沈黙を埋めるために。
私には、そのことがたまらなく悲しかった。
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