愛しき地上の青に捧ぐ
木染維月
序
いつも、海に身を浸していた。
底なしの、言葉の海だ。静かで穏やかで、暗く、どこまでも深い。その海に身を浸すと私の周りには言葉が溢れて、その言葉たちは波に揺られてゆっくりと踊る。その様はとても美しくて、いつまでだって見ていられそうな気になる、が――あまり悠長にしていると、彼らはどこかへ行ってしまう。だから私は急いで、その中からとりわけ綺麗に踊る言葉を幾つか拾い上げるのだ。
言葉を追って深く潜る。吐き出す息が気泡になって、玻璃のようにキラキラ輝く。それさえも目を凝らせば言葉になっていて、弾ける前に捕まえなければいけない。もっと、もっと早く。拾いきれない言葉が消えてしまう前に。私の手の届く範囲からなくなってしまう前に。捕まえて、手元に置いて。並べて。——そうしているうちに、随分深いところまで来て。息が苦しくなる前に、海面まで戻らなければならない。
私は昔から、その海面まで戻る時間が本当に嫌いだった。周りにはまだ、拾いきれていない綺麗な言葉がたくさんある。もっと深くまで行けば、私の知らないものがあるかもしれない。私の息はまだ保つのに、何かとつけて邪魔をされて、私は海面に呼び戻される。まだこの海から出たくないのに、地上まで無理やり引っ張り戻される。もっと深くまで行けばもっと良い作品が出来上がったかもしれないのに。
どうして彼らが私を呼び戻すのか、私には心底理解が出来なかった。海の中には、地上よりずっと素敵なものがたくさんある。綺麗なものたくさんある。暇さえあれば私は海に潜った。大切なものは海の中にあった。
しかしそのうち、地上にも大切なものが出来た。地上にこんな素敵なものがあるなんて、今まで海の中にばかりいた私は知らなかった。必ず大切にしようと思った。
出来なかった。
海に潜ることが他の何よりも優先される生活は、知らず知らずのうちに、私の地上での生活を蝕んでいたのだ。地上の私は変り者で、認めてくれるのはいつも一緒に海に潜る仲間たちばかりで。地上に住むものを、海を知らない者を、大切にすることは、向き合うことは――どうやら、海に潜ることとは両立できないらしい。
だから私は海に潜るのをやめようと思った。もちろん完全にやめる訳ではない。ただ、海に潜ることの優先順位を下げた。暇のできる度に海に潜ろうとするのをやめた。地上から手を伸ばして拾える範囲にも、それなりに素敵な言葉はたくさんある。それを拾えばいいのだ。何もあんなに深いところまで潜る必要なんて初めからなかった。海の中に現実はない。深くに行くにつれて感じる息苦しさも、現実のものではない。地上で、綺麗なものの少ない地上で、この乾いた現実で闘うことこそが――本当は、正しいことなのだ。
海に潜るなんて。
ただの、現実逃避に決まっている。
どんなに綺麗な言葉を拾っても生活ができる訳ではない。地上の人間と上手くやれる訳でもない。何もかも意味のないことだ。こんなことは趣味程度に留めておくのが正しいのだ。もういい歳なのだし。地上にもそれなりに綺麗なものはあるし、少しだけど大切なものだってある。それらとちゃんと向き合うために、海に潜るなんて馬鹿げた真似は、本当に、本当にたまにするだけでいい。
ある時私は、海面を見つめて気が付いた。
——私、潜れなくなってる。
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