神がかり草紙

扇智史

* * *

 うちのお姫様が物狂いになって、すっかり変わり果ててしまったのは哀れなことだったけれど、あの方のいまわの際の姿はすばらしく幸せそうで、瞳もひどく澄んでいて、きっとその目にはうつくしく神々しい御仏の姿がお写りであったろうと思うと、しぜんと涙がこぼれてくるのだった。


 そんなようなことばを手すさびに書き付ける。なんだか気にくわなくて、反故にしてしまおうかと思ったけれど、できなかった。紙を捨てるなんてもったいない。

 姫の姿が思い出される。細くたおやかな指でそっと筆を手にし、菊花を薫きつけた紙にやさしく女手をしたため、ときおり「みち。ここは『や』とすべきかしら。それとも、『か』としましょうか」などと問いかけてきた。みちは横からそっと文机ふづくえをのぞいて、額を突き合わせて考え込んだものだった。

 あんなときは、もうふたたび訪れることはない。


 あの大地震ないの起こる前から、火災や大風、遷都といった騒ぎが相次ぎ、どこか足下のおぼつかないような、頭のふらつくような日々が続いていた。

 けれども、雷の轟き渡るような音とともに、地面が上に下に、右に左にと揺れ、築地ついじや屋敷はおろか堂舎塔廟さえもことごとく倒れてしまったあの日より後、お姫様の変わり様はなにかよくないものがとり憑いたかのようであった。きっと、御仏の守りがあの大地震をさかいに都から取りのかれてしまったのだろう。

 お姫様は、表着うわぎも羽織らず、単衣ひとえと袴だけの姿で門を出て、なんともぶしつけなことにご自分の足で道をいざり歩いては、痩せさらばえてさまよう下々のものどもにあたたかな声をおかけになっていたということだ。

 大路の溝渠より屍があふれ、築地の奥には腐った肉を食らう餓鬼のような稚児がいたと聞いた。土より吹き出す泥水でぬかるんだ大路が、ひっきりなしに訪れる地震で波打ち、まるで都がすべて海に漂いだしたかのようだ、と言われた。

 そんな、末世かと見まごう都を、裸のような姿でいざり、やさしくうち笑みながら、すこしの干飯ほしいいを分け与え、来世の恵みを説き歩くお姫様のお姿は、まるで来迎された御仏を思わせ、なんともありがたく、人々は手を合わせて拝んでいたということだ。


 どうしてこんな嘘八百を書き付けたのだろう。硯にたまる墨をぶちまけてやりたかったが、できなかった。

 姫のご様子は、みちの目にも哀れに見えた。あの日までろくに自分の足で歩いたこともなかった姫が、細くちいさな足を真っ黒にして帰ってくるのは、見るに堪えなかった。白い単衣は土と埃で汚れ、腐った水が膝の上までしみこんでいた。道すがらにむりやり脱がされたのであろう、引き裂かれた袴を両腕に抱え、おみ足はおろかつびまでさらけ出したまま帰ってきたことも一度や二度ではなかった。

 だのに、姫はいつもたおやかで静かな笑みを失うことはなかった。

 きれいな水にも事欠き、手水ちょうずにひたした布で体を拭くのがせいぜいだったのに、姫はいつもうつくしかった。痩せてあばら骨の浮いた肌も、くしけずるにも事欠いて痛んだ髪も、ろくに整えられずに素のままの眉も、すべてうつくしかった。

 肌や衣が汚れるにつれ、体の中から光があふれてくるようだった。

 みちは、彼女の身をできるだけ整えながら、しばしば涙を流した。

 もはやこのひとには自分は必要ないのではないか、と思いながら。


 お姫様は、いつしか御仏の生まれ変わりといわれるようになった。

 ぐらりぐらりと安らぎのない世界で、あの方のいざり歩いたところだけは崩れることがないと言われるようになり、いつしかその行くあとを人々がついて回るようになったという。飯や水を求めるでもなく、御仏のことばを聞くでもなく、ただ歩くだけのことにこの上ない功徳くどくがあるかのごとくで、いつしか高貴な方々のお乗りになる車や、ときには普段はそうした車のなかにいらっしゃる方々までも、お姫様のあとに付き従うようになった。

 老いも若きも、地下じげ殿上てんじょうも、境目もなくひとつの大路を埋め尽くす様子は、言い尽くすこともできぬほどにありがたく、乱れた世にはもったいないほどの出来事であったということだ。


 書けば書くほど、すべていつわりになっていくかのようだった。

 みちの知っている姫は、日に日にやつれ、病を得て、胸や顔に異様な腫れ物を作りながら、それでも笑みを欠かさない物狂いの女だった。彼女の説く御仏の加護がどれほどありがたく、末世における一縷の救いであったとしても、なにも関係なかった。

 みちの愛した姫は、扇の向こうで控えめにはにかんで笑う目だった。季節のかさねと、たきしめられた香に包まれた体だった。碁石をそっとつまむ、細い指だった。夏の夜にともした脂燭しそくの明かりの中で、白粉の下からうっすらとにじんで光る汗だった。

 恋の歌を記す姿を、後ろからのぞきこんだときの、ふっくらとあたたかなうなじの柔らかさだった。

 あれから、みちは別の名前になって、ずっと遠くの屋敷にいる。あのころと違うあわせ薫物たきものの香りにあふれ、細々とながら困窮することのない暮らし向きの中で、ふと、何もかも夢であったかと思いたくなる。

 末世に取り残され、あの人の名付けてくれた蜜の味のする菓子くだもののことも忘れてしまいそうになる。

 せめて、覚えておくためにことばに書き残したかったのに、その筆さえも曲がっていく。

 いっしょに狂ってしまえばよかったのか。それとも、いっしょに死んでしまえばよかったのか。

 あのひとのもたらした救いは、彼女の元にだけは届かない。

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