第7話 タール
ゴーサゼィ村に、僕にとって三度目の朝日が昇った。
天気は良好。万年雪をかぶった山々の間から顔を出した太陽が草原を濡らす露を宝石のように輝かせる。村を取り囲む山脈全体が太陽の色に染まっていた。
「どうもお世話になりました」
ペコリと腰を折った僕に、ダヴィット村長と奥さんはいやいやと手を振る。
「礼を言うのは私たちの方です。うちの息子たちが世話になりました」
「食事のときも、くつろいでいるときも、よくぞ我慢できたなというほどの質問攻め。アラン君の面倒見のよさといったら、どうだ、いっそ家の世話係になってくれないか」
村長のユーモアに見送りの村人たちがどっと笑う。
「いやあ、それはちょっと。イギリス軍の仕事がありますし。ちょうど中間報告を求められていますので」
「わかっているとも。頑張れよ」
そう言ってダヴィット村長は握り拳を差し出す。
「もしここらを通りがかることがあれば、私たちのことを思い出してくれ。いつでも歓迎する」
「ぜひ。そのときはよろしくお願いします」
僕は頷き、同じように右手を握って掲げた。瞬間、村長の拳かなりの速度で飛んで来て僕の手を強襲した。
「な、何するんですか、痛いですよ」
「ははは、隙だらけだな、アラン君は。ほんとに軍人か」
「なるほど、子どもは親に似るわけです」
再び笑い声の大合唱が巻き起こり、近くの梢から小鳥たちが勢いよく飛び出した。
ふと村の方を見やるとこちらの方へかけてくるでこぼこなシルエットがあった。
「噂をすれば影といったところか。おおい、お前たち、遅いじゃないか。アラン君はもう出発するぞ」
「ちょっと待ってえー!」
同時に叫んで急ブレーキをかけたユリウスとノアは息を整えてから小脇に抱えていたものを差し出した。
「受け取ってください」
「ぼくらからのお礼です」
二人の腕の中にはあふれんばかりに白い花が咲き誇っていた。
僕は何がなんだか信じられずに彼らの顔と花束を交互に見つめてしまう。
「あら、エーデルワイスじゃない」
「らしくないな、お前たち。こんなにたくさんどこで?」
目を丸くした両親に、二人はよく似た満面の笑みを浮かべた。
「ひ・み・つ」
「お前たちは結局変わらないのか」
本日三度目の笑いが山間の緑に咲く。
その波が収まるのを待ってから、ユリウスが改まった様子で口を開いた。
「アランさん、俺決めたよ。イギリス海軍に入る」
今度こそは、誰も笑わなかった。
これに声を上げて驚き反対したのは、無論ダヴィット村長だ。
「冗談じゃない! お前自分の言ったことの意味がわかっているのか。お前が海に恋い焦がれているのは重々承知の上だが、なぜ軍に入らねばならない。戦争に行けば命の保証などないんだぞ。小国に暮らす貧しい私たちに、同胞が傭兵として諸外国へと赴いた歴史があるのは確かだ。だが決して憧れてはならない歴史だ。彼らは傭兵として、別々の国へ散っていった。もし雇われている国どうしが戦争を始めたらどうなる? 同士討ちだ。その結果多くの村人がどことも知れない異国の地で命を落とした。今はもうこの国は永世中立国になっている。この国の国土にいさえすれば、命は保証されるというのに……父さんはお前に、苦い歴史の仲間入りをしてほしくない。お前には次代の村長になるという立派な使命もあるじゃないか」
「昔の話はしてないよ! 俺はもう決めたんだ。七つの海を支配イギリス海軍の一員として村長の仕事ならノアが継げばいいんだ」
「そうだよ父さん。ぼくは、外国も海も怖いんだ。だからこの村でずっと暮らす。父さんの次は、ぼくが村を引っ張っていくから。お願い、お兄ちゃんのこと信じてあげてよ」
ノアが目に光るものを浮かべて父親にすがりつく。
「お兄ちゃんなら、お兄ちゃんなら、海のこと全部解き明かすまで、絶対に死なない」
「……ノア、お前までどうして」
ダヴィット村長は一つ深くため息をつくと僕の方を振り返った。
「アラン君、どうやら君の訪問は私のやんちゃ坊主たちを大きく変えてしまったようだな」
「な、なんかすいません」
村長の口元が少しばかり持ち上がる。
「いや、謝るようなことではない。むしろその逆だ。君は、二人の人間に進むべき道を示してくれたのだから」
背中が強めに押され、僕は飛行機の方へつんのめった。
「さあ、もう行ってくれ。君は世界中を飛び回るパイロットだ。その君を、私たちが引き止める権利はない」
何かがこもった村長の、いや、一人の父親の言葉に急かされ、僕はユニオンフラッグが尾翼に刻まれた戦闘機に乗り込んだ。
機首のプロペラが刻一刻と回転速度を上げていく。
空気を高速で切る轟音と燃焼機関が吐く爆音が大気を振動させ、ついにプロペラはその動作機構を最高出力にまで引き上げた。
ゴーサゼィ村一同の歓声に見送られ、イギリス海軍所属の戦闘機は、僕を乗せ離陸する。アルプスの涼やかな風に乗り、僕の愛機は順調に高度を上げていった。
だが、僕の心持ちは、いつも大空に感じる爽快感とは程遠いものだった。何か言い忘れている気がして、背後を振り返る。
子どもも大人も、僕の飛行機を追いかけて朝日が照らす緑の大地を走って来る。
その中に、並んで走る背丈も髪の色も何もかもが違う、でも、よく似た二人。
ユリウスとノア。
別れを惜しんでちぎれんばかりに腕を振る彼らに、僕はハンドルから一時手を離し敬礼した。
海に憧れ、その夢を追い、海軍への入隊を心に決めた兄と、海を恐れ、村から外界への一歩を踏み出さず、村長の跡を継ぐ弟。
僕はどちらの少年も責めることができない。だが、ひとつ確かなのは、彼らがどちらとも「彼らのまま」ではいられないということ。
夢を追うだけでは海軍は務まらない。
海を自身の目で見て研究を積むには一番のポストかもしれないが、軍隊はあくまで軍隊だ。
戦争が起きれば身を呈して敵国と戦わねばならない。
それに、傭兵という立場上、ユリウスの場合は自国のためではなく英国のため戦うことになるのだから皮肉なことだ。
ダヴィット村長の言う同士討ちが起きてしまうかもしれない。
それでも、彼はまだ海に夢を見たままでいられるのだろうか。
ふさぎ込んでいるだけでは村のリーダーは務まらない。現時点で、村長の業務は村内だけとはいわないまでも周囲の地域に限定される。しかし、外部との技術格差も広がっていく一方だ。村人たちの生活を考えそれを埋めるため村を開くほか無くなるときが、いずれ必ず来る。さらに、あの平穏な村にまで戦禍が及ぶ可能性もある。彼自身が戦地へ赴き、暗い大海原へ繰り出さなければならなくなるかもしれない。そのときノアは、否が応でも彼の恐れる海と外界の闇を直視しなければならないだろう。
彼らが彼らの考えを押し通し続けることは困難を極める。それでも、僕は彼らに純粋なままでいてほしい。純粋なままで、海に憧れ、恐れていてほしい。海の真の姿を見ないままで無垢な幻想を抱いていてほしい。
海に生き、海で死ぬ人間の、タールの汚れに馴染みきらない願いだ。
僕は日の光にさんざめく峰々を、黒い海を飛ぶ。
エンジン音は、今日、僕をどこへ連れてゆくのだろう。
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