第6話 湖とイヌワシ
どこをどう引っ張り回されたのか、正確には思い出せない。
急勾配に広がる針葉樹林を抜けた先で、唐突に目の前が開け、気づいたときには急峻な山々に囲まれた広大な湖のほとりに立っていた。
「着いたよ。これだよ、俺たちが見せたかったもの」
ひと仕事終えたというようにため息をつくユリウスの隣で、僕はまた違った息を吐き出した。
「きれいだ」
そんなプレーンなセリフしか出てこない自分の語彙力が情けなくなるくらいの光景だった。
澄み切った青緑の湖に、アルプスの峰々が見事に映り込んでいた。
蒼いシルエットに残雪を残した山々は、ただ美しいだけでなく、荒々しい自然の息吹を感じさ、繊細で幻想的で神秘的な空気を生み出していた。
小魚が飛び跳ね、小さな波紋が描き出される。波一つなかった湖面に投影され、逆さになった山々や青空、木々の緑がろうそくの炎のように微かに揺れる。
少し遅れてノアもやってきて、僕の唖然とした表情を見上げて笑う。
「ぼくらの村自慢の景色です。山も水も木々も大自然のものですが。村の名前になっているゴーサゼィというのも広大な湖の意味で、この場所が由来なんです」
「いやあ、これまでヨーロッパ中を飛び回っていろんな風景を見てきたつもりだったけど、こんな湖は初めだ。山間の窪地に湧き水やら雪解け水やらが溜まってできたのだろうに、こんなに大きい」
それを聞いたユリウスが、本当?、まるで自分が褒められたようにうれしげにと聞き返す。
「じゃあさ、海って、この湖の何倍くらい大きい?」
思いがけない質問に、僕は腕組みして考え込む。
「そうだねえ……すまないけど、実は僕も正確な海の大きさを知らないんだよね」
「え? イギリス海軍なのに?」
口を揃えて仰天の声をあげた兄弟に頷く。
「けどね、これだけは知っている。海はね、この膨大な面積を誇る地球の七十パーセント近くの面積を占めているんだ」
「七十パーセント! 地球の?」
「そう、信じられないだろう。僕だって未だに信じきれちゃいない。偉そうに言ってるけれど、海の神様じゃなくてただのパイロットだからね。まだ世界中の海を見たわけじゃない。ただ、何となくわかるのは、いつも眼下に見下ろしている海が、想像以上に大っきくて、水面下に何が隠れているのか全くわからないってこと」
それを聞いて身震いしたのはノアだ。
「何があるかわからないんだよね。アランさんは、そんな海の上を飛ぶのは怖くない?」
僕はしばらくの間答えを探した。
「んー、最初は緊張してたけど、もう慣れたかな。確かに、海面に飛行機が突っ込めば、ただじゃすまないどころか、衝撃で鉄みたいに硬くなった水に機体が粉砕されてしまう。でも、そんなことを理由に飛ぶことはやめない。万が一の交通事故を恐れて外を歩けなくなるのと同じだからね」
理を得たりとばかりにユリウスが弟の肩にゲンコツを食らわす。
「んな、言ったろ。お前大袈裟なんだよ。海はそんなに怖いもんじゃないって。そりゃ何が潜んでいるのか全くわかってないことも確かだけどさ、アランさんが飛んでも飛びきれないくらいでっかい海には、きっと僕らなんかが知らない不思議なもので溢れてるんだ。海の向こうには見たことのない国があって、信じられないような不思議な人たちが暮らしているかもしれない。俺はそれが見てみたいんだよ」
最後には芝居のかかった身振りまで交えて、ユリウスは言い切った。
それでもノアの表情は晴れない。
「でも、海の上に飛行機が墜落すればほとんど助からないのと同じで、船もいつだって沈没する危険と隣り合わせだよ。ぼくはそんな危ない海とは関わりたくないな」
「墜落したり沈没したりしなけりゃいいじゃん」
このままでは兄弟ゲンカが勃発しかねないので、僕はまあまあと仲介に入った。
「二人とも正しいよ。明るい面もあれば暗い面もある、それが海ってものなんだ」
そこで僕はいったん言葉を切る。
「二つの面を見つめられるようになって、初めて海を知ったといえるんじゃないかな」
幼い少年二人は顔を見あわせ、首を傾げた。
二羽のイヌワシが羽ばたくことなく湖上空を旋回していた。
鉄の塊の力を借りなければ空も海も知ることがなかった僕なんかが太刀打ちできないほどに、その飛行技術は洗練され、非の打ち所がなかった。
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