エピローグ
その三十二 七月某日
七夕会を終え、休みを挟んだ俺は出勤し日報を見た瞬間口を大きく開けたまま止まってしまった。
そこに書いてあったのは『辻井さん:退所予定』の文字。
「ど、どういうことですか!?」
俺は夜勤明けの横山さんを捕まえて、自分でも驚くくらい上ずった声で尋ねる。
「あ?んなもん書いてある通りだろ」
対する横山さんは淡々とした様子でPCから目を離さず答える。
「そ、それにしたって急すぎませんか!?」
「急っちゅうか。早いよな。認知症の症状が確認されたのが先月。その行動頻度が増えてきてケアマネが出張って状態を確認。要介護の判定を出して特養の空きがたまたまあったから手続きを取った」
「そ、そうですよ!それに本人だって心の準備とか……!」
「あのな桐須」
横山さんは後頭部を掻くと仕方ない、といった様子で漸くこちらを向く。
「俺たちはサービスを提供する側だ。んでもって、サービス管理責任者……うちの場合は主任の桂木さんだな。これが『この人に提供するべきサービスはここではなくもっと相応しい場所がある』と判断したんだ。俺に言ったって仕方ねぇだろが」
横山さんの言うことは尤もだ。恐らく間違っているのは自分の方なんだろうけど……。
「なんか……もやっとします」
「慣れとけ」
横山さんはそう言うと、再びPCに目を向けそれ以降何も言わなくなった。
「……ちょっと外の空気吸ってきます」
俺は呟くようにそう言うと、滅多に行かない喫煙所へ向けて歩き出す。
「……あ」
「おっ?」
喫煙所に行くと、早番のはずの椎名さんが携帯灰皿に煙草を押し付けていた。
「珍しいね。吸わないでしょ?」
「……ちょっと。外の空気が吸いたかっただけです」
「……ふーん」
椎名さんはポケットから一本煙草を取り出すとこちらに差し出す。
「ほい」
「……いや、別に吸いたいわけじゃ。ていうか椎名さん今勤務時間中じゃ」
「固いこと言わないの。ま、体に毒素でも貯めこめば少しは気が紛れるかもよ、って提案。終わったら私のロッカーに突っ込んどいでくれればいいから」
ライターと携帯灰皿を押し付け、椎名さんは館内へと戻っていく。
残された俺はしばし悩んで、渡された一本に火を点ける。学生時代以来吸っていなかった身体は、紫煙を吸い込むと久方ぶりの刺激にむせ返り、咳き込んでいる内に涙が出てきた。
そうして、更に幾ばくかの日にちが経過し、あっという間に辻井さんは退所となった。退所にあたって荷物のチェックだとかで俺も手伝い、関りが無かったはずではないのだが不思議と記憶には薄い。
或いは、わざと記憶に残すまいと思っていたのか。だとすれば、自分は相当な薄情者だと自嘲気味に嗤う。
これから辻井さんが入所する施設は
そうしたら彼女の、あの穏やかな笑いは曇るのだろうか、なんて考えてしまう。
退所自体は、すんなり終わり彼女は向こうの施設の車で送られていった。
最後に手を振ると、穏やかに手を振り返してくれた。
支援員室に戻る。
「お疲れ様です。コーヒー淹れるんですけど、飲みますか?」
川上さんが気を遣ってくれているのか俺に尋ねる。
「……お願いします」
未だにぐちゃぐちゃの頭でそれだけ返す。
程なくして自分用のマグカップにインスタントコーヒーが差し出される。
「どうぞ」
インスタントコーヒーの顆粒が溶けきらず未だにカップの中で渦を巻いていて、なんだか自分のように思えてならなかった。それを見たくなくてひと思いに啜る。
「熱っ」
熱湯を注がれたばかりのマグカップは持っただけでじんわりと熱く、それを飲もうとすると食道が焼けるようだった。
なんだか、空回っている。
そんな実感だけがある。心と頭が噛み合っていない、とでも言えばいいのだろうか。
「……」
「……?」
川上さんがじっと俺を見つめていた。
「ショックですか?」
何を、とは言わないが何が言いたいのかは分かった。
「……まあ、それなりに」
「……そうですか」
川上さんはそう言うと、遠くを見る。
「結構、珍しいんですよ」
「……何がです?」
俺が聞き返すと、困ったように笑って川上さんは言う。
「『生きている内に』施設を出ていく利用者さん、ですね」
その言葉には重みがあった。
「大体、ここの利用者さんの退所理由、持病の悪化とかで病院に搬送されて、後は病院でゆっくりと……若しくは施設と病院を何度も往復している内に……ってパターンが多いですから」
じっと川上さんは自分のカップを見つめる。
「だから……きっと幸せな方だと思います」
「それを……『幸せかどうか』を俺たちが決めてしまって良いんですか?」
「良いか悪いか、ではないですかね。心の整理を付けるための方便です」
息を何度か吹きかけるうちに冷めてきたコーヒーをゆっくり啜ると、熱が体を伝っていく。
「それに、慰めになるかは分からないですが」
川上さんは仮想デスクトップを開くと一枚のフォトデータを俺に送ってくる。
「この表情は、『幸せ』と呼んでいいのではないかなと、私は思います」
そこに映し出されていたのは、七夕会の時楽しそうに笑う、辻井さんの姿だった。
「ああ―――」
少しだけ、胸のつかえが取れた気がした。
「これなら、そうかもしれないですね」
俺は既に、遠く去ってしまった車に思いを馳せる。
ここは、『国立
高齢化し、身寄りのない
(認知症のAI、辻井さんの場合:終)
ロボットの介護士さん 釈乃ひとみ @jack43
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