その二十一 午前~書道クラブの準備~
掃除が終わると時刻は午前9時30分を回っていた。
椎名さんと合流した俺は再び掃除用具入れに赴き利用者がモップやら掃除機やらを中にしまうのを確認し、使用前と使用後で本数が合っていること確認する。
これを怠ると、時折「後で自分の部屋掃除しようと思って……」と言いモップを自室に持ち込んでしまう利用者がいるからだ。というか居た。
一応掃除用具も施設の物なのでそういったことは禁止事項となっている。なので、そういった現場を見つけた場合は口頭で注意、というか元に戻すようお願いをしている。
幸い今日はそういったことはなかったようで本数は掃除の前後で変化は見られなかった。
掃除用具入れの施錠をし、支援室に戻ってくると椎名さんが10時のおやつの準備をしていた。
「あ、手伝います」
慌ててお茶の準備をしようとした俺だったが、椎名さんが言う。
「あー。いいよいいよ。こっちは私一人で何とかなるからさ。桐須君は10時からのクラブの準備、頼んでいい?」
「了解です」
ここの施設では平日は余暇の時間としてクラブ活動が行われており、今日は朝会でも話した通り書道クラブが入っている。
10時頃に外部の講師が来所されるので、それまでに書道で使う和室の準備やクラブに入っているのだけれども来れない人への対応をしなければならない。
「おーい」
あれこれ自分の中でスケジュールを考えていると、支援室の窓口から誰かの声がする。
「ちょっと外散歩行ってくるわー」
そう言って片手を上げたのは杉谷さんという男性型の
「あ、はーい」
現在施設のシステムでは利用者の現在地とスケジュールが職員側で把握出来るようになっていて、今のやり取りから『外出許可の申請』と『職員の了承』、『出発時間』が記録されるようになっている。
杉谷さんの状態が『外出 AM9:40~』となったのを確認した俺は「気を付けてくださいねー」と言い見送る。
そして利用者一覧からソート機能で検索をし、書道クラブに所属している人を確認する。
「んーーーー……?」
そこで俺はどうしたもんか、と顎に手を当てて考える。
「どした?」
「うわぁっ!」
むくりと起き上がったのは夜勤明けで机に突っ伏していた横山さんだった。
「まだ居たんですか」
「失礼なやっちゃな」
横山さんはそう言うと寝起きの頭をがしがしと義手で擦る。
「あ、いやすいません。悪意はないです」
「当たり前だこの野郎。で?どした?」
そう言って横山さんは俺の後ろに回り込みモニタを覗き込む。
「今日の書道クラブなんですけど……辻井さんて書道入ってたんですね」
「あーそういやそうだったなぁ」
横山さんも顎に手を当てる。
二人並んでうーんと唸る。
「二人してどうしたの」
今度は日報の回覧を終えて支援室に帰って来た内藤さんがやってくる。
「あ、内藤さん。実は……」
こういう事情なんですけどどうしましょう、と相談する。ここで俺は失礼にも、内藤さんもうーんと悩んで3人揃えて首を傾げるの巻、みたいなことを想像していたのだが、内藤さんはさらっと当然のように言った。
「それじゃあまずは辻井さんのADLから考えてみたらいいんじゃない?」
ADLとは日常生活動作、つまり日常生活の中で生じる基本的な動作のことを言う。つまり、辻井さんが今の生活出来る動作でクラブに参加出来るのか、ということである。
「あとは何より本人の意志じゃない?会費、無料《タダ》ってわけじゃないんだし」
そう言って内藤さんは伸びをした。
入所者の殆どは国から出ている年金生活者が中心で、そこから施設の食事代や光熱費、その他諸々の経費を差っ引いたお金が手元に残る、らしい。一介の支援員である俺にはまだその辺の詳しい事情は分からないが、桂木さんとか川上さんあたりならその辺も詳しいかもしれない。
「そう、ですね。ちょっと聞いてきます。ありがとうございます!」
「うん。あ、車椅子乗せるんだったらちゃんと外骨格着なよー」
はーい、と返事をして俺は辻井さんの居室へ行く……、とその前に。
「椎名さーん。俺辻井さんとこ行ってきますー」
「はいよー。車椅子乗せる時は声掛けてねー」
「了解ですー」
辻井さんの部屋は支援室のすぐ近くにある。
車椅子を使用する利用者ということで、支援員室から見やすい位置に配置されているからだ。
ドアをノックすると、「はーい」と辻井さんの声がする。
「こんにちはー」
「こんにちは。えーと……?」
辻井さんは俺の顔を見ると困ったように固まった。
「桐須です」
「あ、そうそう桐須さん!どうしたの?」
辻井さんの顔がぱあっと明るくなる。
「えっとですね。今日書道クラブがあるんですけどね?」
「うんうん」
「辻井さんそこにお名前が入っているんですよ」
俺がそう言うと辻井さんは本当に驚いたような顔になる。
「あらまぁ!そうなの!?」
「えぇ。参加出来そうですか?」
その問いに辻井さんは申し訳なさそうに言う。
「良いの?」
「えぇ。大丈夫ですよ」
「じゃあお邪魔させて頂こうかしら」
「それじゃあ時間になりましたらお呼びしますね」
「うん。ありがとうね」
「どういたしまして」
彼女の心からのお礼に返事をして、居室を後にする。
「戻りましたー」
「お、お疲れさん」
「どうだった?」
支援室に戻ってくると、横山さんと内藤さんが鞄を背負っていた。これから帰るところなのだろう。
「参加するって言ってました」
「そっか。じゃああれだね。和室に机出しとかないとね」
「あー。ていうか車椅子で畳で踏むのまずくね?タイヤの下にクッション代わりに座布団多めに準備して敷いとこうぜ」
「あ、そうだね」
二人は背負った鞄を下すと話は決まったと言わんばかりに和室へ向かおうとする。
「ちょっ…!待ってくださいよ!」
振り返った二人が不思議そうに俺を見る。
「二人とも今から帰るってとこじゃないですか。俺やっときますからいいですよ」
「ばーか」
横山さんが呆れたように言う。
「おめー今から
「うっ……」
その通りだった。確かにあと10数分で横山さんが言ったようなこと全てに加えて和室の準備をするというのは少々きつい。
「まぁ困った時はお互い様ってね。てことで僕らが困ったときは容赦なくこき使うから気にしないでいいからね」
冗談ぽく笑って内藤さんが言う。
「うわー。内藤さん本当ありがとうございます。あと横山さんも」
「なんで俺のがついでみたいな扱いなんだよ」
「はいはい時間ないんだからやるよー」
子供のように不平を言う横山さんの背中を押しながら内藤さんは今度こそ和室へと向かって言った。
「あ、椎名さん。辻井さん車椅子乗せたいんで手伝って貰っていいですか?」
俺は支援員室でお茶とおやつを準備していた椎名さんへ声を掛ける。
「はいよー。じゃあ先
俺は返事をすると支援員室の脇にある美品質から医療用強化外骨格を装着する。
自身のバイタルやパーソナルデータが承認されているのを確認して一歩踏み出す。
「戻りましたー」
「ほいほーい」
今度は椎名さんがもう一着の強化外骨格を装着しに行く。
椎名さんが支援員室を出て行ったタイミングで支援員室の電話が鳴る。
「はい支援員室、桐須です」
「あ、桐須さん。講師の先生きたから通すよー」
事務の上田さんからだった。上田さんはそれだけ伝えると通話を切ってしまった。
現在時刻は午前9時50分。
「ととととりあえず和室に連絡……!」
慌てて和室で作業をしているであろう二人が電話に出てくれることを願って和室へ通話を試みる。
「はい和室、横山です」
「あ、横山さん今事務所から連絡あって先生がもう来て上田さんが通しちゃって……!」
慌てて早口になる俺は必死に頭を回していた。ええっと時間が前倒しになったから放送入れてメンバーに声掛けして椎名さんと二人で辻井さんを和室へ連れてって……??
「よーし相当慌ててるみたいだなお前」
「……へ?」
「落ち着け落ち着け。とりあえず俺らしばらく和室居っからよ。先生の方はこっちで対応する。椎名さん戻ってきたら辻井さんを車椅子に乗っけて一回こっち連れてこい。放送入れんのはその後で良いからよ。他の利用者に急かされるかもしんねーけどそん時ぁ俺がそうやれって言ってたって言え。出来るか?」
「りょ、了解です……」
やることを明確化してもらったおかげで少しだけ頭がすっきりした気がする。
「うむ。お礼は今度の飲み代でいいぞ」
「そこはせめて割り勘でお願いします」
横山さん、めっちゃ酒飲むじゃないですか。
「ほいただいま。どした?」
横山さんと話をしていると椎名さんが戻って来た。
「あ、椎名戻ってきてくれた切りますね。すいませんがそっちはよろしくお願いします」
「おー。焦らずやってけ」
ぷつり、と通話が切れる。俺は一度落ち着く為に大きく深呼吸をした。
「えっと……椎名さんが出てったタイミングで事務所から先生来たって連絡がありまして。和室の方で夜勤明けの二人がそっち対応してくれるって言ってくれたのでお任せしています。後辻井さんも先に和室連れてきていいそうなので送ってからクラブの放送入れようと思います」
なるべく落ち着いて、これからの予定を椎名さんへ説明する。
「うん。りょーかい。そっかーあの二人迷惑掛けちゃったねぇ」
「礼は今度の飲みで良いって言ってましたよ」
「抜かせ、って言ってやっていいよ全くもう」
椎名さんはどこか懐かしそうにふふっ、と笑みをこぼす。
「どうかしたんですか?」
「いんや。じゃあ辻井さん移乗させちゃおうか」
「はい!」
自分を鼓舞させるためにもなるべく元気よく返事をする。
その声は自分でも思っていたよりも大きく、椎名さんが想定外の大声に驚いたようだった。
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