第363話 魔軍交戦60 融合
真っ暗な世界で、俺は膝を抱えて浮遊していた。
二度目の正直か。
そう思った。
三度目はないだろう。流石にね。
前回はレイアの胎内で似たような感覚を味わっていた、ような気がする。そばからクレアの心音が聞こえて、心地よかった。
今は何だろう。春の陽気のような、暖かな光が薄暗く照らしてくれている。クレアの心音も聞こえない。レイアの心音も聞こえない。完全な無音。それでも、この陽気は凪のように心を落ち着かせてくれる。覚めることのない、昼寝をしているかのような寝心地がする。
なるほど。今度こそ、これが浄土か。
素晴らしいところじゃないか。
仏教でいうところの救いが解脱だということに、強い説得力を覚える。
安心はすぐさま不安へと移った。
あの後、どうなったのだろうか。
クレアは逃げ切れたのだろうか。トウツは、生き延びたのか。ファナは。カイムやレイアは。王宮にいる瑠璃やフェリは。戦っている学園のみんなは。イリスは。イヴ姫は。師匠は、魔王に勝てたのだろうか。冒険者のみんなは無事なのだろうか。
不味いことになった。
死ぬには残した不安が多すぎる。
「やっばいな。うっかり
「先輩って、うっかり幽霊になるんですか?」
聞こえるはずのない心音が聞こえた。
誰の心音だろうか。まさかレイアやクレアではあるまい。では、声をかけた人物? そんなわけがない。
あぁ、何だ。驚いた。
自分の心音か。
高揚する俺の心情に合わせて、心臓のビートが五月蠅いくらいに早鐘を打つ。
仕様がないじゃないか。
今の相槌は、多分俺が世界で一番欲していた声なのだ。
「お前、茜か?」
「私以外に誰がいるんですか」
意思の強そうな黒い眉をくしゃりと曲げて————僕の前世でいうところの彼女である茜が回答した。
「驚いたな。あの世ってこんなサプライズしてくれるのか」
「ここでボケを続行するあたり、ソウマ先輩って何にも変わってないですよね」
茜がため息をつく。
ソウマ。ソウマか。
ここ十数年、ずっとフィルだのフィオだの呼ばれていたから忘れかけていた。俺の、本当の名前。いや、フィオという名前だって本当だ。どちらも、俺にとっての本当。
「いやいや。俺に都合が良すぎるだろう。流石は浄土だなぁ。心の福利厚生が行き届いている」
「私は先輩の福利厚生ですか?」
「そうだな」
「では、福利厚生費をくださいな」
「参ったな。俺、債務者なんだよね」
「異世界まで行って何やってるんですか先輩……」
おや、どういうことだろう。
感動の再会のはずなのに、ずっと呆れられている気がするぞ?
「待て。ちょっとこれまずんじゃないか?」
「何がです?」
「俺31歳で死んだんよ」
「——ご愁傷様です?」
「お粗末様です?」
「何ですかその返し」
「ご愁傷様とか直接言われたことないから、言葉の作法が追い付かないのよ」
その言葉、普通は遺族に言うことだよね? 俺、死んだ本人。
「先輩の作法が追い付いたことなんて、ほとんどないじゃないですか。特に彼女のトリセツに関しては酷いものでしたよ」
「死んでまでそこまで言われる!?」
「それは置いといて」
「置いとかないで!?」
茜が笑う。口元がによによと動いている。
まぁ、いいか。彼女が笑っているのならば、それでいい。
「先輩が31歳で死ぬと、何が困るんですか?」
「いやいや。ここって天国じゃん?」
「ナチュラルに自分が天国に行けると思ってる辺り、無駄に自尊心強いですよね先輩。いつもネガティブなふりしているのに」
「話戻したのに何でまたそこ突っ込むかなぁ」
じわじわと思い出してくる。
俺は、この子と中身のない会話をすることが好きだったんだ。
「お前も死後の世界にいるってことは、もしかして若くして死んだのか? あ!もしかして、俺と一緒にトラックに轢かれたとか!? 大丈夫!? 異世界転生してない!?」
「先輩じゃないんですから、異世界転生なんてしませんって」
「なんかって何だよ。なんかって」
けっこういいものだったんだぞ。異世界転生。
茜はほくそ笑みながら、周囲を見渡す。黒のような、白のような、オレンジがかった空間。ただ広いだけの空間のどこを面白がって見ているのだろうか。
「異世界に行く過程で、時間も捻じ曲げられるって考えられないんですか?」
「え、あ。なるほど?」
異世界へ移動できるのだ。時空だって超えれるものなのだろう。理屈はまた別として。というか理解できそうにない。
「私はちゃんと、お婆ちゃんになって老衰で死にましたよ」
「そうか———そっか」
言葉が出てこない。
彼女を労う美辞麗句を探したけど、短い相槌のみになってしまう。
「ちなみに、孫に囲まれて死にました」
「何だって」
「普通にあの後、新しい彼氏を見つけて結婚しました」
「何ですって?」
「何でオネェっぽい口調になるんですか。当り前じゃないですか。まさか先輩、私が一生引きずることに期待してました?」
「いや!期待してたけど!でもそこまで期待はしてなくて!君が幸せだったならいいんだけどさぁ!別の男と結婚してもさぁ!でも現実を突きつけないでくんない!?」
必死に弁明する俺を、茜はころころ笑いながら見る。
おい。何だその満面の笑みは。生前でも中々見なかったぞそんなもん。
「いや、ごめんなさい。必死になってる先輩が可愛くって」
「どこが可愛いねん!」
「くふふ、もう無理。あはは!」
茜が腹を抱えて笑う。
だだっ広い空間だからか、彼女の声は反響しない。空間の底に音だけが消えていく。
「生前の先輩が私にそこまで固執することってなかったから、嬉しくってつい」
目元の涙を彼女がぬぐう。
「む」
それはずるいぞ。何も言えないではないか。女性の涙はずるいのよ。対俺のリーサルウェポンだ。
「ちゃんと10年引きずりましたよ」
「えっ」
「まさか次の恋をする覚悟をするのに、アラサーまで待つことになるとは思いませんでした。先輩って、思っていた以上に私の中でほとんどを占めていたんですね。ずるいです」
「む」
「先にあっさり死んで、ずるい」
「すまん」
「私が10年、心の折り合いをつけるのに。どれだけ苦心したかわかります?」
「…………」
「先輩の墓前で、何度先輩のご両親に謝ったか」
「おおう」
それはなんとまぁ。嫌なことをさせてしまった。
「先輩のお姉ちゃんにビンタされましたよ。私」
「あいつが!?」
あれに弟への思いやりとかあったの? マジで言ってる?
「先輩のご両親は私を一切責めなかった。でも、その横からお姉さんがすり抜けてきてね。体重乗った一撃を、こう、バチーンと」
茜が野球選手の投球フォームのように、全身を屈伸させて手首をスナップさせる。
「何だそれ。鼓膜潰しにきてるじゃん」
「うん。怖かった」
「済まない。姉貴が」
「いいんですよ、先輩。逆に私は救われたので」
「…………」
「誰かに罰してほしかったんですよ、私。あの時、車をちゃんと見ていれば。先輩の気持ちをもっと考えたことを言えていれば。悔やんでも、悔やみきれない。お姉さんはそれが分かってるから、叩いてくれたのかもしれないですね」
いや。あの姉は何も考えてないと思うよ?
「でも——最後に思ったのは、自分が幸せにならないと、先輩が浮かばれないと思ったんです」
「——あぁ、その通りだよ」
「何のために先輩は私を庇って死んだのか。くよくよして死ぬまで苦しむのは、先輩の死を冒涜しているように思ったんです」
茜がこちらを正視する。
「だから、ありがとうございます。先輩。あの時、私を助けてくれてありがとう」
俺は思わず、茜を抱きしめる。
何年ぶりだろうか。14年ぶりか。俺の肩幅に収まる華奢な身体。彼女の毛先の匂いも好きだったことを思い出す。
「だから先輩。今の世界では、女の子から逃げないでちゃんと向き合ってくださいね?」
耳元で茜がささやく。
「……え、どゆこと?」
「先輩。一緒に見たアニメで『こいつ嫌いなんだよね』と連呼してた鈍感系主人公やってるの気づいてます?」
「いや割と俺敏感よ?」
「そうですよね。イリスちゃんには気づいてたもんね」
「ぐぇ」
「可愛いよねぇ、あの子。私が男の子だったら速攻で落とされてたと思う」
「ねぇ、この話やめない?」
「嫌です」
「何で?」
「先輩が嫌がってるから」
え、何この子。死ぬ前よりも毒舌力上がってない?
「何で、あんな可愛い子をふっちゃうかなぁ~」
「ねぇ、やめようよ茜。誰も幸せになんないよこの会話」
「私のせい?」
「…………」
「元の世界に残した私に、遠慮していたの?」
「あ~」
「やっぱり。先輩って適当に生きてるふりして、けっこう責任感強いですもんね」
「お前は俺以上に俺を知ってるから、時々怖かったよ」
「そう? 嬉しい」
茜が楽しそうに笑う。
「私は、私の幸せをつかんだよ。先輩。だから、いいんだよ?」
「いいって、何が」
「先輩も自分の幸せ。見つけていいんだよ?」
「残念だけど、もう時間切れだよ」
死んじゃったし。
「んふふ。先輩の心臓の音、とてもうるさい」
「お前の心音は静かだな」
「当り前じゃない。私は死んでいて、先輩は生きているもの」
「は?」
今、何て言った?
「また難聴系ですか?」
「いやいやいや。超聞こえましたとも。そりゃもう、ばっちりよ」
「私が死んでるっていうのは、正確にはちょっと違うかな。私は死んだあと、残留思念みたいなのが残ったの。それが運よく異世界に流れ着いて、先輩にくっついちゃったみたい」
茜さす加護。
俺の運を引き寄せてくれていた、彼女の加護だ。
「そうか」
「だから、私は正確には茜本人とはいえない。デッドコピーみたいなものかな? それとも、質の高いAIみたいなもの? 何にせよ、茜のような何かよ。オリジナルはこっちへこれない。異世界を移動する間に魂ごと潰れちゃう。無傷でこっちへ来れる先輩みたいな魂の持ち主、かなり稀有なんだよ?」
「へぇ、よく知ってるな。そんなこと」
「私の知識じゃないけどね」
「じゃあ、誰の知識だと言うんだ」
「それは今から本人に聞けばいいわ」
「本人?」
「もう、時間みたい」
腕の中にいる茜の存在が、希薄になっていく。身体が透き通っていく。体温を感じなくなっていく。
「待て。ちょっと待ってくれ」
「さようなら、先輩。私はオリジナルじゃないけど、最後に話せてよかった」
「俺は話し足りてない!」
「言いたいことだけ言って、ごめんね? 残留思念だと、顕在化するのはこれが限界」
「もっと言いたいことがあるのに!」
話そうとする俺の唇を、茜が塞ぐ。
「もう伝わってるよ」
そう言って、彼女は消えてしまった。
ずっと身近に感じていた安心感。感覚が消える。
守ってくれていた加護が消えてしまったのだ。
「やぁ、ここからは彼女に代わって僕から話すよ」
背後から。
見知った声が聞こえた。
それは茜と同じくらい、聞きたくてやまなかった声だ。
「……ルビー?」
俺の呟きに、赤い妖精はニヒルに笑った。
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