第360話 魔軍交戦57 復活の老幼魔女
「終わったか。存外、感慨は湧かないものだな」
萎れた老婆が地面へ落ちていくのを眺めながら、エイダン・ワイアットは呟いた。
「後は、消化試合か。やっとだ。幾千年も焦がれた時が来る。待っていてくれ、ガーネット。我もすぐにそこへ行こう」
「そこへ行く前に、十万億土を踏みやがれってんだ」
洞のような目つきで魔王エイダンが見下ろした。
そこには、倒したはずの銀髪の魔女が仁王立ちしていた。腰は曲がっておらず、若木の幹の様に真っすぐ立っている。肌には染みも皺もない。陶磁のように光沢を放つ真っ白な肌。落ちくぼんでいたはずの目は爛々と鋭い眼光を放っている。鷲のようだった鼻は、細く曲線美を主張している。
「……マギサ・ストレガか? だがしかし、その姿は——貴様」
「察しが良すぎるのは助かるねぇ。説明しがいがないとも言うがね。お察しの通り、完成したのさ。お前さんの魔法を見た、先の
「——時間の逆行」
「そうさね。お前さんが時間を止められることは知っていたよ。そうでなければ辻褄が合わない。お前さんほどの危険人物の魔法。どう考えてもどこかに記録が残っているはずだ。だが、どの国にもなかったのさ。驚くべき程、綺麗に魔王の見てくれ、魔法、侵略の過程の記録。何もかもが真っ白だった。まるで、誰かが念入りに焚書していたかのようだねぇ」
「————」
「ウィーデ・ニアットという著作名義。お前さんのだろう? エクセレイの国庫管理最高責任者。魔法研究や学術書の権威でもある。権力を操る側に回って、自身の痕跡を消していたか」
「それが何故、貴様が時間逆行の魔法を開発するきっかけになるのだ?」
「簡単さ。お前さんが時間停止魔法を使えると、わたしゃ気づいた。誰かが出来るなら自分も出来る。そう考えるのが学徒の自然な考えさね」
「その発想は、異世界からこちらへきた人間が
「おや。現地人差別かい? お前さんが異世界出身だというのはとっくの昔に考えが及んでいたさね。確信になったのは糞弟子との会話からだがね」
「我が時間加速魔法を使えるのはいつから気づいていた?」
「知らなかったさ。知らなかったとも。お前さんは止められるなら進められると発想した。わたしゃ
「戻すことは不可能だと結論付けたからこそ、我は進めることにしたのだがな」
「未来志向だねぇ、古代の魔王様は。すまないね。わたしゃ耄碌したばばぁなもんだから、過去ばかり省みているのさ」
「その見た目で耄碌した老婆とは。聞いて呆れる」
魔王がため息をつく。
地上に立っているマギサ・ストレガは、まるで少女だった。二十代前半にも見えれば、ローティーンにも見える。銀色の長髪が銀河のように光沢を放っている。
「その姿。長く保たないだろう」
魔王には、マギサの魔力の流れが異常な乱流を生み出していることに気づいていた。これは自身の時間停止魔法と同じ。時間を司るのは神の領域である。魔王は数多くの命を供物に捧げ、その代償を軽減してきた。
だが、目の前の老婆は代償をそのまま自ら払おうとしている。
この老婆は、若返りの魔法が解けた瞬間死ぬ。
魔力が尽きるまで逃げれば確実に勝てるのだ。
「ほう? 腰抜けの魔王様は、時間稼ぎして私の魔法が切れるのを待つかい?」
「いや、待たんよ」
エイダンが拳を握る。
魔王の腕に力が入るのを見たマギサが、獰猛に笑う。嗜虐的で老獪な笑み。若返りした顔には、あまりにもアンバランスで奇妙な笑顔だった。
「貴様はやはり我の最後の壁にふさわしい。我が望むものは、貴様を正面からねじ伏せてこそ手に入れるべきもの」
「話が分かるやつじゃないさね。そうでなきゃ、私も博打を売った甲斐があるというものよ」
マギサが地を蹴り、垂直に飛び上がった。
「いいわ」
耳を塞ぎ、俯いていたフェリが静かに顔を上げた。
目元には、宝石のような涙がほろほろとこぼれ落ちている。
「いいのか!?」
「えぇ」
「待ちなさいな」
ファナが黒い十字架を俺の顔面の前に掲げる。
「根暗エルフ。勝手な判断は許しませんの。変態兎は十中八九、五体満足でこの戦争を終えることはありませんわ。それはマギサ・ストレガとて同じ。全て、フィオのためにしていることですのよ? 貴女だけの判断で壊していいものではない」
「私を奴隷紋の主人として認めたのは、他ならないフィオよ。マギサお婆様もそれは後で承諾してくれたわ。一番最後にパーティーへ入ってきた貴女に決定権をどうのこうの言われたくないわ」
「言わせておけば。生意気になりましたわね」
「貴女やトウツに似てきたのよ」
ファナの額に青筋が浮かぶ。
フェリはそれを能面のように眺める。
「フィオの人生に、口を出す権利があるとすれば。それはマギサお婆様かルビーくらいのものよ。私たちが束縛すべきではなかったのよ」
「逃げましたわね。判断を妖精に委ねた。卑怯者ですわ。貴女はフィオの命と人生の責任を負えなかったのですわ」
「何とでも言って。貴女とトウツは確かに強いわ。フィオに嫌われてでも、守ろうとする強い意志がある。私には無理だったのよ。貴女たちはエゴイスト。でも知ってた? 私はそれ以上に自己愛が強いの。フィオに嫌われる自分を拒絶するくらいにはね」
フェリと目が合う。
彼女の視線が横に流れる。先には窓が開け放たれたバルコニーがある。
俺の太ももが一気に膨張した。魔力も弾けるように飛び散る。
さっきまで体と一体化していた椅子から、腰があっさりと離れる。
「っく!」
目の前を黒い十字架が遮る。
視界を塞いだ黒い影がはね上げられた。
「瑠璃!?」
いつの間にか、瑠璃は元の犬型に戻っていた。背中から植物型の魔物の蔦を生やし、ファナの十字架を弾いたのだ。
『行け、我が友。ただし死ぬな』
「ありがとう!」
瑠璃の横を駆け出し、バルコニーへ向かう。
フェリの真横を駆け抜ける瞬間、目と目が合う。
彼女は悲痛な顔をしていた。年上の女性とは思えない、置いて行かれた迷子のような顔。
俺は満面の笑みを浮かべる。浮かべられただろうか。
「ありがとう、フェリ」
バルコニーの柵を捻じ曲げるくらい力強く蹴り、外に飛び出した。
体が軽い。羽のようだ。
走ろう。走るんだ。
クレアとトウツのところへ。
「……とんでもないことをしてくれましたわね」
怨敵でも見るかのような眼力で、ファナがフェリを睨む。
瑠璃がゆっくりと迂回して、フェリの隣に位置どる。
「ふぅん。貴女もそっち側ですの、瑠璃。最悪ですわね。もしフィオが死ぬようなことがあれば、どうなるか分かりますの?」
「少なくとも、|無彩色に来る紅〈モノクロームアポイントレッド〉は解散ね」
「当たり前ですわ。もしそうなってしまえば、わたくし、貴女の顔を二度と見たくありませんもの」
ファナが構えていた十字架を地面に置く。衝撃で床が弾けて亀裂が入る。
「……私たちを押し退けて、フィオを止めに行かないの?」
「そんなことしませんわ。行きますわよ」
「どこに?」
「加勢に」
ファナが、フィオが飛び出したバルコニーの方を見る。
「……いいの?」
「いいも何もありませんわ。フィオは今、十分過ぎるほどに強いですわ。今回は相手が悪すぎるだけ。わたくしは強い。でも、貴女たち2人を押し退けて、フィオを安全に無力化できるほどではありませんわ。ならば、もういっそ加勢してフィオの生存率を少しでも上げた方が現実的ですわ」
「……ありがとう」
「驚きましたわ。貴女に礼を言われる日がくるなんて。それと、加勢するにしても行くのはわたくしだけですわ」
「……私もフィオを助けたいのだけれど」
「貴女、欲を隠さなくなりましたわね。いいことなのか悪いことなのか、分かりませんけども。勘違いしないでくださいな。貴女に適任の仕事があるから言っているのですわ。身内を止めなさいな。あれは貴女の人生の汚点でしょうに」
ファナの言葉に、フェリがバルコニーの向こう側を眺める。
家屋よりも高い、エイブリーが操舵するゴーレムが一瞬で消えた。その後、次々と周囲の家屋も消えていく。否、圧縮されているのだ。いつの間にか、四天王キリファが王宮のそばまで到達していたのだ。
「確かに、あの男の魔法をよく知っているのは私ね」
「頼みますわね。魔王であれ獅子族の王であれ、戦っている最中にあれが乱入すれば、即全滅ですわ」
「瑠璃を借りていくわ。腹が立つけど、あの男は未だに私よりも金魔法使いとして完成している」
「父とは呼ばないのですね」
『おい』
「母が亡くなった瞬間、あれは父ではなくなったわ」
『おい』
「そうですの。では、躊躇なく神の御元に送れますわね」
「任せて」
『儂も我が友の方へ行きたいのじゃが。勝手に役割を振るのをやめてほしいのう』
「瑠璃。何を言っているのか分かりませんが、肉声で喋れるのに惰性で精霊用語を使うのならば、貴女に発言権はありませんことよ。頼みますわよ。わたくしはこの陰険エルフがどうなってもいいですが、死んだらフィオが悲しみますの。わたくし達はパーティー全員、この戦争を生き残りますの。これは決定事項ですわ。いいですわね? 瑠璃」
『仕様がないのう』
瑠璃が返事がわりに尻尾をパタパタと振る。
「行きますわよ。散開」
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