第283話 逃走

 全速力で駆け抜けた。


 腿の筋肉も、腕の骨も、足首の関節も、音を立てて捻りきれそうだ。それを意に介せず、必死に手足を動かす。

 止まったら死ぬ。


 止まったら死ぬ止まったら死ぬ止まったら死ぬ止まったら死ぬ止まったら死ぬ止まったら死ぬ止まったら死ぬ止まったら死ぬ。

 止まれば、即、死。

 心の乱れから魔力の操作も乱雑になっていることに気づく。落ち着け。落ち着こう。ビークールだ。笑えない状況ほど冷静に。いつだってそうだ。俺の戦いが万事上手くいったことなんて、数えるくらいしかなかったじゃないか。

 気持ちを落ち着けると、少しずつ広がってくる。心も、物理的な視野も。

 背後では戦闘音が聞こえる。

 ナハトだ。

 弾丸のように空を切り裂きながら死霊高位騎士リビングパラディンに襲いかかっている。呪いの長剣に弾かれると、宙でばっと黒い翼を開いて静止し、胸元から熱光線カルロレイを放っている。鎧女は悠々とした足取りでその光線を長剣にて捌く。剣線に黒の呪いと極彩色の魔力が混ざっている。不死鳥の力の残滓だ。

 ナハトが噛み付いているということは、あいつが戦う判断をしなければとっくの昔に俺は死んでいたということだ。

 本当、この世界に生まれて悪運だけは最高にイカしている。


 横では瑠璃が少ない魔力を振り絞って並走している。限界が近い。

 赤い影がちらついた。

 ワイバーンだ。

 こいつも、なりふり構わず直線に逃げているのか。

 後ろから追いかける鎧女の足取りは不気味だ。歩いているのに、浮遊しているかのように加速している。そりゃそうだ。あいつも元々は死霊レイスだ。この世と重力から解放されてしまった存在。そもそもが二本足で動いていることの方が異常だったんだ。


 爬虫類の瞳と目が合う。

 今日一日だけでこいつとは随分と意思の疎通がはかれるようになったものだ。

 あぁ、みなまで言うな。わかっている。

 「逃走に協力しろ」だろ?


『瑠璃!子犬になれ!』

『足が遅くなるぞ!?』

『いいから早く!』

『ぬう!』


 瑠璃が子犬形態に変身して俺の胸元へ飛び込む。それを抱きかかえたままワイバーンの背中に飛び乗る。そしてすぐにワイバーンにありったけの補助魔法を費やす。


「ガアアアアアアアアア!」


 みるみるうちに加速する。俺もワイバーンも単体では決して出せない速度。木々が火山地帯の地面も岩も視認が難しくなり、灰と茶がない混ぜになった景色が高速で視界の外へ追いやられていく。

 速い。

 今まで体感した速度の中で段違いだ。


『よし!逃げ切「ギギギ!」』


 目を見開いて横を見た。

 すぐ真横に漆黒の全身鎧のヘルム。頭上にはおかしな方向へねじ曲がった肘関節。そして長剣。

 その長剣はぴたりと真っ直ぐに俺の方を向いていて、すぐさま振り下ろされる直前だった。


「あ、死ぬ」


 ぽろりと言葉が漏れ出る。


 瞬間、目の前が紅に染まった。

 とてつもないエネルギーの塊。それは不死鳥のものほど激しくはないが、雄弁に存在感を放っていた。


『一体なっ……ルビーか!』


 唯一の可能性に行き当たる。

 こんなことが出来るのは、ルビーしかいない。

 火の妖精であるところのルビーは本来、直接事象に干渉することは出来ないはずだ。それをねじ曲げて俺を救った。救ってくれた。この世界で初めての友人に、俺は何度恩を積み重ねているのだろう。


『あぁ、くそ!くそ!そんなことされたら死ねないじゃねぇか!くそ!』


 長剣ごと肩を焼かれた鎧女は、火山灰の地層につっこみ派手にガラス質の煙をあげた。


『今だ!確実に逃げ切る!』


 ワイバーンの背骨に並ぶ突起を掴み、魔力を振り絞って流し込む。


『飛べぇぇえええぇええ!』

「ガアアアアアアアアアア!』


 必死だ。

 俺も必死。

 こいつも必死。

 胸元に縋り付く瑠璃も。

 鎧女に追撃しているナハトも。

 この場にいる全員が生き残ることのみを考えていた。

 やっぱり、魔物退治はこうでなきゃ。

 どちらかが生き残る。

 巫女だとか、忌子だとか、魔王だとか、そんな複雑なことを考えずに、こういうシンプルなことだけ考えて生きていたい。

 でもこの世界は俺にシンプルであることを許してくれない。クレアを守らなければ。ルビーともう一度直接会わなければ。魔王を倒さなければ。俺はシンプルな幸せをつかめない。


「かひっ」


 力んで止めていた呼吸を慌てて再開する。肺を破裂させるかのように空気が口腔へなだれ込んでくる。

 流れていた景色が止まった。

 灰色が、いつの間にか緑に変わっていた。

 吹き抜ける緑色の風は、さっきまでのガラス質で喉を焼くような空気と違ってクリアだ。


『火山地帯を抜けたのか!』


 周囲を確認する。

 死霊高位騎士の気配はない。

 完全にまいたようだ。

 後ろに巨大な火山が直立していた。距離は何十キロも離れているはずなのに、火山が巨大すぎて近くに見える。遠近感が狂う。

 その頂上では不死鳥が悠然と佇んでいる。鳥類の表情の変化なんて全くわからないけども、腹が立つ顔だ。何となく、そう思った。

 あいつさえいなければ、あの鎧女を倒せたのに。

 何なんだよ。畜生。

 これからどうやってあれを倒せってんだ。


 だが、怒るに怒れない。

 瑠璃がいるからだ。

 俺は胸元にいる瑠璃を撫でる。

 こいつと出会えたのは、不死鳥が二世紀前に気まぐれで瑠璃を進化させたからだ。

 今回はその気まぐれが死霊高位騎士を救った。

 あれは自然そのものだ。天災だ。敵でも味方でもないのだ。

 怒るだけ、無駄なのだろう。


『瑠璃、無事か?』

『五体満足じゃの』

『そうか。ルビーは!?』


 見えるはずもないのに、周囲をきょろきょろと見渡してしまう。


『心配ない。わしの横で眠っておる』

『そうか……そうか』


 瑠璃の横にある空間に手を伸ばす。

 ルビーはいつだって俺のそばにいてくれる。できれば、それが一生続いてほしいのだけれど。難しいのかな。難しいだろうなぁ。


歯亡舌在はほろびしたあり

『ナハト。お前も守ってくれたんだな。ありがとう』


 マギサ師匠の元で過ごしていた時は割と見殺しにされることが多かったけど、今回ばかりは助けてくれた。素直に礼を言おうじゃないか。


『あ〜、一応お前にも礼を言うわ。聞こえないだろうけど。ありがとうな、トカゲちゃん』

「ガアァ」


 あれ。

 様子がおかしいぞ。元気なさすぎじゃない?

 もしかしてこいつ、魔力切れ?


『やべーこいつ!墜落するぞ!』

『何じゃと!?』

『俺も魔力ないんだけど!』

『わしも飛ぶ余力はないぞ!?』

朝開墓落ちょうかいぼらく

『すげぇ!何言ってんのかわかんないけど諦めムードは伝わってくる!』


 ワイバーンの高度がどんどん落ちていく。真下に広がる巨大な森に近づいていく。


『あれだけ必死に戦って死因が落下死だなんて、やってられるか!ナハト!まだ余力あるだろう!?』

『えー』

『そこで四字熟語じゃなくて普通の感嘆符で反応するの意味わかんねぇ!』


 ナハトが渋々といった感じで、黒い足を俺の背中に突き刺す。ずぶり、ずぶりと。

 え、突き刺す?


『え、何? 怖い怖い怖い!背中にナハトの足埋まってんのこれ!? 合体しちゃってるの!? 何それ怖い!全然痛くないのが逆に怖い!』


 これ位置的に背骨突き抜けて肺に爪が刺さってるはずだよね!? 何で呼吸できるの!? 成りかけ精霊ってこんなことも出来んの!?


 不安をよそに、背中でナハトが翼を広げる。まるで俺自身に黒い翼が生えたみたいだ。


『いやちょっと待って。小さくない?』


 その黒い翼は一般的なカラスとサイズがほとんど変わらない。俺の背中も狭いわけだが、それでも肩先から羽根が少し見えるくらいである。というかナハトの頭も俺の背中に埋まってるんだけど、大丈夫なのこれ?

 体に浮遊感与えちゃったことに成功し、落ちる速度が弱まっていく。


 反して、ワイバーンとの背中が離れる。

 力尽きて落ちていく。


 共闘はした。

 それでもトカゲちゃんを助けるわけにはいかない。こいつはあくまでも魔物なのだ。助けたところで、また俺の命をとりに来るだろう。

 森に落ちゆくあいつは、たぶん下にいる他の魔物に殺されるだろう。

 非情かもしれないが、見捨てるしかない。

 それが自然界では一番全うな判断なのだ。


『済まない』


 謝ると、木々がへし折れる音が返ってきた。

 ワイバーンが森の下へ墜落したのだ。


『ナハト。そのままゆっくり降りてくれ。まずは休める場所を探そう』

『合点承知』


 少しずつ高度を下げながら、森を観察する。

 ここは目的のエリアのはずだ。

 アスピドケロンだったころの瑠璃やアーマーベア亜種がいた森の浅瀬。溶岩窟。雪山。死霊の谷。火山地帯。それらのエリアを越えた先にある、エルフの森深層の奥の奥。

 世界樹があるエリアだ。


『ん?』


 目を凝らす。

 残り少ない魔力で魔力視の魔眼マギ・ヴァデーレに意識を集中する。

 そして気づく。


『この森。どう見ても葉が大きすぎないか?』


 それだけじゃない。樹木の種類もてんでバラバラだ。広葉樹の平べったい葉があるかと思えば、松のような針葉樹もある。花が咲いているかと思えば果実もなっており、季節感がバラバラだ。一度違和感に気づくと新しい違和感にも行き当たる。全てがあべこべなのだ。この世界に生まれてもう13年が過ぎている。どの季節にどんな花が咲くか。どんな実が成るかは体感として知っている。この森にはすべての季節が詰まっている。同じ季節では両立しない植物が同時に葉を生い茂らせたり花を咲かせたり実を成らせたりしているのだ。つる植物もあれば、眩い光に当てられているというのに苔も生えている。

 しかもでかい。

 近づけば近づくほど、その巨大さに気づく。

 巨大樹の森でもこれほどはなかった。


『一体全体どういう森なんだ? これは』


 葉の目の前まで来た。

 俺が十数人は余裕で乗れそうな葉っぱだ。

 おそるおそるそこに足を乗せる。


『ありがとう、ナハト。念のため、そのまま背中にくっついておいてくれ』


 ナハトが背中の中にある足をかき混ぜて返事する。

 うへぇ、何だその返事。気持ち悪いんだけど。


 周囲を眺めると、スケール感がおかしくて小人になった気分だ。

 いや、まぁ実際小人族ハーフリングサイズなんだけども。

 大きなリンゴのような果実が成っている。余裕で俺よりも大きい。これ一個で俺の食費、二週間はもつんじゃないかな。体力をつけるために体格の割には大食漢の俺でも、そのくらいかかるだろう。


『深層なだけあって、でたらめな森だな』

『本当じゃのう。それに魔素マナが濃いの。いや、濃すぎる。なんじゃ、これは』

『本当だよ』


 異常な速度で体調が快調へ向かっていることがわかる。魔力切れ寸前だったのに、ここで1、2時間昼寝すれば回復しきってしまいそうだ。


『枝の下に行ってみよう。樹上が安全とは限らない』

『あいわかった』

『合点承知』


 葉をかき分けつつ、下へ下へと降りていく。


『……?』

『どうしたかの?』

『何かこの植物。全部つながってないか?』

『……確かにそうじゃの』


 そうなのだ。花も、葉も、木の実も、全ての植物を目でたどっていくと枝がある。その枝は全て連結しているのだ。いつまで経っても幹に到達しない。段差を降りるように枝の下へ下へと降りていく。段差といっても、高さがまばらだ。数十センチの時もあれば、数メートルの時もある。


『……おい、もしかして』

『わしも何となく読めてきたぞ』


 抜けた。

 枝葉の隙間を。

 ナハトに羽ばたいてもらい、その全景を見た。

 そして理解する。


 俺達が森だと思っていたのは、一本の木だったのだ。

 無数の枝葉が一本の巨大な幹に集まっている。その木から、数十キロに渡り枝葉が広がっている。まるで永遠に続くキノコの傘だ。俺達はその枝葉の下にいる。太陽の光が完全に遮られているわけだが、明るさに問題はない。枝葉がキラキラと輝き、緑色の光を放っているからだ。


『セルフイルミネーションかよ』


 思わず感想が出る。


『……じゃあ、この枝葉の一本一本が世界樹だってのかよ』


 不死鳥の時も思ったけど、ここの森だけスケールが違う生態系しすぎじゃない?

 神様、設計間違ってません?


 イリスに世界樹の流木を貰って、それで紅斬丸を作れたわけだけど、これは作りたい放題だな。

 いや、そんなに甘くないか。

 魔力視の魔眼マギ・ヴァデーレで見るとわかる。魔力が束になってあの幹の方につながっている。枝葉を切るということは、この魔力の流れを切るということ。そうするとどうなる? おそらく、実行犯は楽に死ぬことは出来なさそうだ。それくらい、世界樹がもつ保有魔力が桁違いなのだ。多分、魔素にあてられて発狂して死ぬだろう。


『不死鳥はもしかしたら、これを守るシステムなのかもな』

『迎撃用のオブジェクトということかの?』

『多分』

『では、わしらを通したのは? あれがその気になれば全員消し炭に出来たじゃろう』

『さぁ、瑠璃は昔あれの羽を食べたんだろう?』

『そうじゃな』

『お気に入りのお前がいたから見逃してくれてたりして』

『まさか』


 瑠璃は子犬顔をしかめる。

 何それ可愛い。


『何にせよ、あの幹の方へ行こう。この旅のゴールだ』

『長かったの』

『本当だよ。というかめっちゃ太いなあれ。直径何キロあるんだ?』


 人生で木の幹の直径をキロで表現する日がくるとは思わなかったよ。

 何だあの出鱈目植物。


『おっとっと』


 さっきまで死にかけてたとは思えないくらい、穏やかな気分になっていく。多分、この緑色の光がそうさせるのだろう。あまりにも魔素の質がいい。あまりにも居心地が良すぎる。浦島太郎みたいに時間を忘れてここにいたいくらいだ。


 慣れないナハトの翼に助けられつつ、不規則な軌道を作りながら俺達は世界樹の幹へ飛んでいくのだった。

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