第246話 始まる最悪2
「今日はクレア、休みなんだ」
朝の授業が始まってすぐに、アルが言った。
マギ・アーツの授業だ。視界の端ではピトー先生、いや、ショー先生が指示を飛ばしている。名前がショー・ハイレンに変わったので、子どもたちがショー先生と呼ぶようになったのだ。子どもたちにとって、ハイレン先生は養護教諭のヒル・ハイレン先生のみという認識なのだろう。
「そうだな。何かあったのか? イリスは知ってるか?」
「知らないわ。起きたら書き置きだけあったの。今日は休むって」
ロスの質問にイリスが答える。
「ちょっと寂しいね」
柔軟しながら、アルが言う。
「そうだな。でも、いいんじゃね? クレアは真面目すぎるくらいだから、少しは休んだ方がいいって」
ロスが笑う。
クレアは、ロスのことで心を痛めて休んでいる。俺はどうすればいいかわからない。託宣夢は無闇に言いふらせば災となって返ってくることが多いと、国の記録にはある。理由は様々だが、託宣夢の内容を知った人間の行動が起因であることが多いそうだ。
託宣夢が自分にとって都合が良ければ、維持しようと動く者。
託宣夢が自分にとって都合が悪ければ、改変しようと動く者。
この両者がぶつかり、歪み合い、争うことで、夢の内容以上に悲惨になることが多いのだそうだ。今の場合でいう両者とは、エクセレイと魔王だろう。
クレアやエルフ側の判断以上のことを、俺は出来ない。正式な巫女はクレアなのだ。俺は異世界からそこに割り込み、間借りさせてもらっているだけ。
それでも言いたい。
ロスに、クレアは君の為に泣いているんだと、教えてあげたい。でも、出来ないのだ。そうなれば、ロスも傷つく。
自分に出来ることは何か。
もう一度考えよう。そして動くんだ。俺は小さいけれど、耳も目も腕も足もある。出来ることはあるはずだ。
「クレアさんは体調不良で休みですよ。心配してくれたの? ありがとう」
イリスに問われ、リラ先生はふわりと笑って答えてくれた。
「配布物!何か配布物はありませんか? あたしが届けます!」
イリスが髪を揺らしながら、言う。
「病気がうつったら悪いから、お見舞いはいらないと言伝をもらっているわ」
「……そう」
イリスが気落ちする。
「うつらなければ、お見舞いくらいいいだろう」
リラ先生が去った後に俺が言うと、イリスがしばらくの間の後、表情がぱっと華やぐ。
「そうよね。あたしたちは頑丈だもの。大丈夫よ」
「たくさんで行くのも悪いから、今日はイリスとアルで行ってこいよ」
「僕?」
「そうね、アルが来れば、クレアもきっと喜ぶわ!」
「俺は!?」
「ロスと俺はお留守番」
「ひでぇ!」
すまない、ロス。今のクレアに君を会わせるわけにはいかないんだ。
怒るロスをなだめながら、必死に笑顔を取り繕った。
『泣いておるの』
「そうだな」
放課後、俺は瑠璃と一緒にクレア宅を覗いていた。カイムの気配察知をかわすために、気配隠しのスカーフを2人で身に纏う。
アルに飛びついて泣き出すクレア。イリスは横でどうすればいいかわからず、おろおろとしている。ドアの近くでは、カイムとレイアが心配そうな顔をして泣く娘を見ている。
アルとイリスを行かせて正解だった。クレアは責任感の強い子だ。安心して泣ける相手は、同年代ではあの2人くらいだろう。
すっと立ち上がり、踵を返す。
『見ていかんのか?』
「クレアは強い子だ。あれだけ泣けば、持ち直してくれるはず」
『信頼しておるの』
「俺の妹だぜ?」
瑠璃と一緒に、空元気で笑う。
足に魔力を込める。
脱兎のごとく走り出した。
あんなもの、もう2度と見たくない。
あの
王宮へ行くのだ。
クレアを守るためには、まずあの人の許可が必要だ。
「レギアへの遠征を許可してください!」
「却下です」
開口一番、エイブリー姫は俺の要望を切って捨てた。
「どうして!?」
「こうなった以上、エクセレイとしてはフィル君を失うわけにはいかないわ。レギアにいる
「コーマイへの遠征許可はしてくれたじゃないですか!」
「危険度が段違いよ。コーマイはグレーだった。レギアは完全に漆黒よ。敵の手中に巫女を送り込むなんて、馬鹿以外の何者でもないわ」
「でも、レギアが落ちたらエクセレイは危険です」
「事前に動くことが、託宣夢の最善の活用法だとでも言うつもり?」
「そうです」
「それをするにしても、フィル君が行く必要はある?」
「…………」
ない。
俺は巫女だ。エイブリー姫の言う通り、エクセレイが失ってはいけないカードだ。誰かが行くにせよ、それは決して俺である必要はない。
それだけじゃない。
俺が行けば、瑠璃もトウツもフェリもファナもついてくるだろう。危険に身をさらすのは俺だけじゃないんだ。
拳を強く握りしめる。
「先ほども言いましたが、この件については私に一任してほしいわ」
「……何とか出来るんですね?」
「してみせるわ。一人でも多く、救ってみせる」
「分かりました」
「どこへ行くの?」
背を向けた俺に、エイブリー姫が声をかける。
「クエストに行きます。レギアの国境近くの魔物を減らす。それくらいなら、いいでしょう?」
「……いいわ。ただし、行くならパーティーメンバー全員を連れて行きなさい」
「分かりました」
静かに、王宮を後にする。
「ねぇ、フィルは知っているの?」
王宮を出るとすぐに話しかけられた。
イリスだ。
「どうした? クレアは元気だったか?」
「泣いていたわ」
どうしてイリスがここに?
クレアのお見舞いの後、すぐにこっちへ来たのか?
アルは? 先に帰ったのか?
「そうか。早く良くなるといいな」
「フィルは、クレアが何で泣いているか知っているの?」
「……知らないよ」
心臓が跳ね上がる。
この
「嘘。フィルは何か隠してる。姉さまも一緒よ。クレアも、何で泣いているのか教えてくれなかった。ねぇ、フィル、知ってる? クレアはよく、寝ているときに泣くの。いつも、ごめんなさいとうなされながら寝ているの。あの子は、誰に謝っているの?」
「…………」
「いつか教えると、クレアは言っていたわ。でも、今じゃないって。あたしは、いつ教えてもらえるの? いつクレアの味方になってあげられるの? 嫌よ。絶対、嫌。あたしは待つだけだなんて、もううんざりなの。ねぇ、フィル。何か知っているなら、教えてくれない?」
「…………」
「お姉さまも何かと戦ってる。でも、あたしは一緒に戦えない。パルレも、イアンも、メイラも、みんなお姉さまの為に戦ってる。あたしがそこに入れないのは何で? 何であたしだけずっと蚊帳の外なの? あたしが、子どもだから?」
桜色の瞳に、涙がにじむ。
あぁ、この子はそうだった。人一倍面倒見が良くて、人一倍責任感が強い。王族として社交界に顔を出しつつも、一切擦れずに綺麗な心を持ち続けた子なのだ。
「……これだけは言っておく」
「何?」
イリスが目元をぬぐう。
「イヴ姫にとって、イリスは誰よりも守りたいものなんだ。でも、イリスが今よりも強くなったら、きっとあの人は、イリスを隣に置いて一緒に戦うと思う」
「…………」
「クレアもそうだ。今は言わないんじゃない。言えないんだ。それは俺も同じ。でも」
「でも?」
「いつか君が大人になった時、一緒に戦ってほしいと俺は言うと思う。そこにはきっとクレアもいるし、アルもいるし、ロスもいる。それじゃあ駄目か?」
「……今日はそれで納得してあげる」
「約束しよう」
「何それ?」
俺が差し出した小指を見て、イリスが怪訝な顔をする。
「指切りだよ。約束を破ったら、針を千本飲まないといけないおまじないだ」
「何それ、意味わかんない」
イリスが小さく笑う。
二人で小指を絡めて、約束する。
周囲の魔素が赤く泡立つ。
ルビーが反応しているのだ。
『ごめんよ。そういえば指切りは、君としかしてなかったね、ルビー』
俺は見えない親友に謝る。
「……すっきりした。ねぇ、フィル。あたしはいつ、貴方と一緒に戦える?」
少し霧が晴れたような表情で、イリスが言う。
「……俺と君が、冒険者に登録できる頃には」
「成人してからね。わかったわ。ねぇ、あたしを見ていて、フィル。その時には、貴方よりも、うんと強くなっているんだから」
「はは、それは楽しみだな」
「その顔は信じてないわねっ」
俺とイリスは一緒になって笑った。
でも、一緒に笑い合えるのはこれで最後になった。
数日後、俺とイリスは地獄を見ることになる。
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