桜咲く丘の上の家

西川笑里

雨の日に

「よくわからないので、どこか有名な異人館までお願いできますか」

 私がそう告げると、そのタクシーは右にウインカーを出して静かに走り出した。

 さっきから降り出した雨でスカートの裾が濡れ、脚にまとわりついて気持ち悪かった。

「この時間からだともうすぐ異人館も閉まるから、近くて車が入りやすいところでええですかね」

 走り出してからタクシーのドライバーがやわらかい関西弁でいう。たぶん神戸と大阪はちがう言葉なのかも知れないけど、私には区別はつかない。ただ、「関西弁」としか言えない。

「どこでもいいです。おまかせします」

「わかりました」とだけ運転手は返事をしてしばらくは黙っていたが、大きな通りから一本中に入ったあたりで再びしゃべり出した。

「お姉さん、一人旅?」

「ええ、まあ……」

「どちらから?」

「関東です」

 私は曖昧に返事をする。

 運転手は一呼吸おいて言葉を続けた。

「正直に言うとね、私ら地元の人間からすると、他所から来る人たちって何を好き好んで外人さんが住んでた家を見て回るのか、不思議なんですわ」

 「異人館を見たい」と言う私の行動を否定しているわけだから怒るところかもしれないが、けっして嫌味なしゃべり方ではないので、私は黙って聞いていた。

「まあ、私ら神戸の人間からすると外人さんは普通に街に溶け込んでるし、その人たちが住んでいた家だから、特に珍しいわけでもないってことなんですがね」

「私も別に外国の方が珍しいわけじゃないけど、洋風の家ってちょっと興味はありますよ」

 私がつい返事をしてしまうと、ここぞとばかりに運転手のマシンガントークが始まった。

「NHKの朝ドラでやるまでは、異人館を見て回る人ってそこまではいなかったんですわ。それがやっぱりテレビの力ってすごいもんです」

 運転手は朝ドラの主演女優の名前を挙げながら、いくつかの異人館について説明を始め、私はその朝ドラは見たことがなかったが、適当に相槌を打ちながらその話を聞いていた。なぜ運転手の人たちっておしゃべり好きな人が多いんだろう。私はそんなことを思っていた。

 車は狭く急な坂道を登ってゆき、小さなスペースに入って止まる。

「時間はどうでっしゃろ。まだ開いているとは思いますがね」

 思ったよりすぐに着いたので、近くて申し訳ありませんとお礼とお詫びを言い車から降りると、ちょうど桜の木の下に私は立っていた。雨はいつの間にか止んでいて、見上げると風見鶏がある素敵な洋館がそこに佇んでいた。

 不思議なものだ。外国風の建物を見に来たのに、いかにも日本らしい桜との取り合わせがなんとも美しい。傷心の一人旅を優しく桜が慰めてくれるようで、つと頬を流れた涙を拭うことも忘れて、私はその場所でしばらく茫然と立ち尽くしていた。

 気がつくと案内板に書かれている閉館の時間が迫っていた。だけどこの綺麗な桜を見られただけで、私はもう建物の中まで見なくてもいい気がしていた。

 大きく息を吸い、踵を返すと先ほどのタクシーが私を下ろした場所に止まっていて、ふと運転手さんと目が合った。

「運転手さんがあんなこと言うから、行くのを止めようかってまで思ったんですよ。神戸の人って、こんな綺麗な風景に興味がないなんてもったいないですね」

 私が皮肉を込めて言うと運転手はすました顔で、

「でも、嫌いだとまでは言わなかったでしょう」

とウインクをする。

「どうして待っててくれたんですか」

「悲しい思い出を捨てた後は、次は美味しいチーズケーキの店に連れて行くタクシーを探すと思ってね」

 にやりと笑う運転手に「はい、お願いします」といいながら、カチャリとひらいた後ろのドアから私は乗り込んだ。



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