5章9話:捜索
どういうことだろう、と海堂は思った。
(聞いてない。知らない。どうして?)
校舎の階段を駆け下り、昇降口で靴を履き替えて飛び出す。灼けつくような暑さに汗が吹き出すが、両手の指先はゾッとするほど冷えていた。
校庭を横切って外階段を上がり、野球部の使っている第二グラウンドを横目に旧体育館に駆け込んだ。入り口は使わず、体育館横のドアから飛び込んだので、体育館の中の視線が一斉に集中する。
「海堂?どうした?」
ゼェハァ言いながら、海堂は床に膝をついたまま頭上から降って来た瑞貴の声に答えた。
「どうして、ですか」
肩で息をしながら膝立ちになって目の前の瑞貴を見る。
「何で?どういうことなんですか?どうして?そんなの聞いてません!」
最後はほとんど絶叫に近い。その声に瑞貴が慌てて宥めるように声を上げた。
「おいおい!落ち着けよ!」
「神嶋さんは⁈どこです⁈」
瑞貴の練習着の裾を掴んで問う。いきなり頭を勢い良く動かしたので視界が揺れるが、そんなことはお構いなしだ。今の海堂には、もっと大事なことがある。
「神嶋!神嶋!海堂が呼んでるけど!」
更衣室の方に向かって瑞貴が叫ぶと、水筒を片手に持った神嶋がやって来る。
「何だ?というかその状況はどうした?」
「いや、俺も分かんない。何かすっごい勢いで横のドアから入って来て、いきなり膝ついてゼェゼェ言ったら掴んで来た」
「どうした?海堂。何かまずいことでも」
「聞いてません!」
突然の大声に神嶋は驚いて目を瞬かせる。それから瑞貴と目線を交し、もう一度海堂を見た。
「こんなの聞いてないです!説明してください!コーチってどういうことですか⁈」
悲鳴にも近い声音に神嶋は驚きつつ海堂に目線を合わせる。
「分かった、話すから落ち着いてくれ」
「そんなこと言ってる場合じゃない!説明してくれと言ってるんです!」
「お前が言いたいことは分かった。頼むから一度落ち着け」
いつになくおかしい海堂に困惑したが、一度その場に座らせる。
「お前が倒れて早退した日にその話を進めたんだ。一年生から聞いていると思っていたから特に伝えなかった。伝達が出来てなかったことを今知った。すまなかった」
「私がいなかった日に、全部進めたって、それ、どういうことですか?」
震える声に神嶋はいつも通りの声で答えた。
「言葉のままだ」
「それ、は」
あまりに不安そうに揺らぐそれに神嶋は内心首を傾げる。
「私が、いらないってことですか?」
その一言にその場の全員が硬直した。言われていることが全く理解出来なかったのだ。
「私のいないときに話を進め、その伝達がされていない。それは、私がいてもいなくても変わらないから、だから、伝達されなかったんじゃないですか」
うなだれた海堂はぽつぽつと言葉を落とす。
「元日本代表セッターがスカウティング出来ないわけない。指導者としては一級品の経歴です。普通なら実業団の監督や、それこそ日本代表の監督になったっておかしくない。私はせいぜいJOC。格の違いは海底とスカイツリーみたいなモンで、どう足掻いたって勝てません。……そりゃあ、今持ってるより良いモノが手の届く範囲にあったら、誰だって欲しいですよね」
「海堂、お前、何言って」
「それとも、……アレですか」
そう言って顔を上げた海堂は、まるで捨てられた子犬のように不安げで悲しそうなをしていた。その表情に神嶋は思わず絶句する。
「女が、男のバレーに口出すなとか、そういう」
「何言ってんだよ!」
海堂の言葉を、火野の怒声が突き破った。
ズカズカと歩いて来て、座りっぱなしだった海堂の腕を掴んで立たせる。
「お前何言ってんの⁈本気で先輩たちがそんなこと考えると思ってんのかよ!先輩たちお前のこと心配してそうしようって言ったんだ!お前の負担が大きいから、お前に頼りすぎてるから、少しでもそれを減らそうって!気ィ遣ってくれたんだよ!」
体育館に耳が割れそうな火野の声が響く。
「この部活にそんなこと言うヤツがいると思ってんのか!」
その言葉に神嶋と瑞貴も頷いて見せた。
「そんなことあるわけねえじゃん!」
普段まっすぐにぶつけられる海堂の視線は火野を捉えない。火野に言われてから海堂は何か言ったらしいが、聞き取れなかった火野は聞き返す。
「何?もっかい言えよ」
「どうせ、神嶋さんとかだって、言わないだけで生意気で気に食わない一年生とか、思ってるんだろ」
投げ捨てるような一言に、火野はカッとなって叫んだ。
「ふざっけんなよ!この野郎!」
制服の襟元を掴み、次の瞬間横に薙ぎ払うようにしたが、海堂は倒れることなく、その身体が揺れただけだった。
「テメエ自分が今どんなこと言ったか分かってんのか!頭冷やせ!そんでもって!その頭冷えるまで戻って来んじゃねえ!」
「火野!」
鋭く叱りつけるような神嶋の声にも、火野は怯まない。叫ばれた海堂のほうは、愕然とした表情で棒立ちになっている。
目の前の火野が海堂に向ける抉るような視線に、海堂は我に帰る。それから襟元を掴んだままの火野の手を振り払い、体育館のドアから飛び出して走り去ってしまった。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう)
回らない頭を無理やり回しながら、海堂は階段を駆け下りる。途中で水沼と高尾に声を掛けられたが気がつかなかった。
(どうすればいいんだろう。何すればいいんだろう。どうしたらいい?)
校庭で練習しているサッカー部のど真ん中をローファーと制服で駆け抜ける姿は異様に目立つが、それにも気が付いていなかった。
(どこか、誰もいないところ)
そのとき、海堂の目に第一体育館が映る。この体育館は三階建てに見えるが実際にはフロアは二つ半しかない。一階部分に体育館、一階部分のロフトのような形で卓球場があり、屋上にはプールが据えられている。
(そうだ、プール)
北雷高校には水泳部は無い。つまり、放課後は無人のはずなのだ。
ざり、という音をさせて方向転換し、海堂は体育館の外階段を目指して走り出した。
火野は後悔していた。
「探しに行って来ます!」
と言い残して旧体育館を出ようとしたところで能登に捕まり
「どこに行ったか分からないんだから手分けして探すぞ」
と言われた。素直にそれに従って校庭まで下りて来たところだが、行き先の見当がつかない。
高尾と水沼の目撃証言から校舎の方向へ向かっていたことは分かった。だが、校舎に行った久我山と箸山の話によれば一年生のフロアにはいなかったらしい。現在、他のフロアを二人が探し、野島と川村が特別教室棟を探し回っているそうだ。
火野は第二体育館のあたりまで来て、バスケ部の同級生に海堂を見なかったかと聞いたものの無駄足に終わったばかりである。
(オレのせいで練習時間が……!もっとちゃんと話しておけばよかった)
同じクラスなのだから、朝や昼にでも、あるいはそれよりも早く、連絡すれば良かったのだ。スマートフォンや携帯電話の無かった親世代と違って、どこにいても連絡が取り合える時代のはずなのに、とんでもないすれ違いを起こしてしまった。
サッカー部の練習しているメイングラウンドの近くを歩き回っていると、サッカー部顧問の香芝が火野を捕まえた。
「火野!」
「え、あ、はい⁈」
香芝は一、二年生の体育と生活指導を受け持つ教師だ。体育大学出身の三十代の教師で、大学までサッカーをやっていたらしいが、どちらかと言うとラグビー選手のような身体つきである。そのため、生徒たちには陰で「ゴリ芝」と呼ばれている。
「海堂を知らんか⁈」
「え?海堂?オレも今探してます」
「アイツめ、俺にぶつかって来たと思ったら鍵をスった!」
「……えええ⁈」
「体育準備室とプールの鍵なんだが、気がついたときにはもう遅くてな。見当たらないんだ。見つけたらここに連れて来い!」
怒鳴られて内心舌打ちしたが、火野はハッとして顔を上げた。
(まさか……、ホントに物理的に冷やそうとしてるんじゃ……!)
「先生!ありがとうございました!」
「ん?はぁ?」
混乱している香芝を残して火野は第一体育館へ足を向ける。
第一体育館の外階段前には、鍵付きのドアがある。だが、このドアを乗り越えることは火野の身体能力ならば簡単だ。
よじ登り、階段を登る。砂と水が混ざって微妙に泥の出来ている階段に靴跡があった。基本的にはここは裸足で通るため、靴跡があるのはおかしい。
(ホントに冷やしてたらどうしよ……)
外れていて欲しいような、そうでないような心持ちのまま階段を上がりきると、ザアザアと言う水音が耳に入る。
学校指定のローファーを脱いで手に持ち、プールの入り口の青い門を開いた。蝶番に油が足りていないのか、ギギギという嫌な音がする。引っ掛けて来たジャージのポケットの中でスマートフォンの通知がいくつも来ているが、今は無視した。
屋上の気温は焼け死にそうなくらい暑かった。水のまかれていない床を靴下で歩くが、それでも熱い。
「海堂〜……?」
門を開けてすぐのところにあるシャワーの腰洗い槽の方から水音がしていた。
ローファーと、脱いだ靴下と、それからジャージで包んだスマートフォンを乾いた台の上にまとめて置く。
腰洗い槽のところの仕切りのドアを開けると、予想通りそこに浸かっている海堂がいた。
「海堂!止めろ!出て来い!」
叫ぶが、聞こえていない。もしくは聞こうとしていないのだろう。
「ああ、くそッ!」
シャワーのハンドルは火野のいる反対側にある。構造上の問題でそこに行くには現状腰洗い槽を抜けるしか無い。
舌打ちをしてから、諦めて中にザブザブと入って行く。足の感覚が麻痺しそうな冷たさに息が詰まった。頭上から降り注ぐ冷水のせいで、ろくに息が出来ない。
うなだれて微動だにしない海堂の横を通り、シャワーを止めた。それからずぶ濡れの海堂を腰洗い槽から引っ張り出し、日の当たるところへ引きずって行く。
(コイツ、ローファーのままじゃねえか)
旧体育館を飛び出したときのままの格好で、学校指定のベストもスカートも水がしみていた。
「海堂、ごめん。オレが悪かった。連絡忘れてごめん。大事なことなのに、何も言わなくてごめん」
されるがままの海堂は、乾いた床に座り込んでしまう。普段とはかけ離れた姿に焦りが止まらない。
「でも先輩たちがお前のこと心配してるのはホントだ。オレたちもちょっと心配してた。お前ずっと頑張ってくれたから、負担多いよなって」
返事は無い。
「コーチは元日本代表の設楽さんて人。お前なら知ってるかもしれないけど。練習中の指導はこの人に頼むかって話をしてる。でもそれ以外は今まで通りだ。動画の分析も、練習メニューの原案も、海堂にやってもらう。お前がいらなくなることなんてない」
それでも返事は無かった。
「なあ、返事して?怖えよ」
目の前にかがみ込んでそう言うと、小さく声を発した。
「……かった」
「ん?」
あまりにか細い声に、火野は聞き返す。
「怖かった」
「怖い?」
「もう、ここしか無い。私は、ここでしかバレーが出来ない」
それから泣きそうな声になって、海堂はまた続ける。
「ここでいらないって言われたら、自分の価値を示せなかったら、本当に、全部失くなっちゃう。バレーが、私の手から、失くなっちゃう」
広げられた両手の指は、バレー選手らしく長くてゴツゴツしている。
火野よりもはるかに長く、火野よりもはるかに多く、どこまでもひたむきに努力を重ねてきた鬼才の手だった。
「こんなに、好きなのに。まだやりたかったのに。あんなに頑張ったのに、消えてった。失くなった。私以外にも、バレー選手なんて山ほどいるのに!」
切り揃えられた爪を持つ、傷一つ無い両手がそこにあった。
磨き続けた才能を振るうためだけにあったはずの両手は、その役割を終えてしまった。それも、本人が全く望まなかった形で。
「大丈夫。お前のことが必要な人、北雷にはいっぱいいるから」
その両手に触れようか迷って、火野は触れなかった。気安く触れて良い手ではない。
代わりに、笑って見せる。
「北雷にいる限り、お前は絶対に必要な人間だ。お前がいなかったらオレは三ヶ月でこんなに上手くなれなかった。試合になんて出られなかった。だから、安心しろよ」
おずおずと三白眼が上を見る。
「凉の持久力強化メニューも、野島さんの要望から出たワンテンポ速く動く練習も、川村さんの減量も、お前がいなくちゃ出来ねえもん。心配すんな」
目に力が戻り始めたことに気がついた火野は、ニンマリ笑って言い放った。
「そういうわけで、さっさといつものお前に戻れ。アナリスト様」
一瞬黙った海堂は、
「……様付けするなら、ちゃんとした敬語使いなよ」
と続ける。それに火野は肩を揺らして笑った。
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