5章10話:顔合わせ

 その後、海堂はみっちり教師陣に叱られた。勝手にプールの鍵を開け、シャワーの栓を開けたことが主な罪状である。あちこち走らされていたにも関わらず、珍しく殊勝な海堂を見て二年生は面白がっていた。

 みっちり二十分間叱られて帰って来た海堂はすっかりしおらしくなっていた。そして一言

「練習時間取ってすいませんでした」

 と言った。

「反省しているなら、追加のメニュー考案を頼もうか」

 神嶋は穏やかにそう言い、その言葉に海堂は無言で小さく首を傾げる。

「全体練習じゃなく、俺個人用ので頼む。最近、前のだと負荷が足りなくなって来た」

「わ、分かりました」

「それから、自主練でサーブ練やるからレシーブに入ってくれ。最近久我山はレシーブ講座で忙しいし、他は速攻やら何やらで手が空いてないからな」

「はい」

 そう言ってぽんぽんと色々な仕事を海堂に任せると言ってから、神嶋は海堂に問うた。

「満足か?」

 その問いの意味に気がついた海堂は思わず目を見開く。

「……はい」

 静かに、力強く答えた海堂の目を見た神嶋は自分の両手を打ち合わせる。

「部活再開だ!段取り良くやるぞ!」

 その声に、全員が返事をした。

 その日の練習はこころなしかいつもよりハイペースだった。開始時間が普段より大幅に遅れたのが主な理由である。それでも六時半には普段の練習が終わり、それ以降の四十五分間はいつも通り自主練タイムになった。

 旧体育館はオンボロだが男子バレー部以外は使わないため、時間を気にせず練習できるのが大きなメリットになっている。最終下校時刻は八時なので、七時半までに鍵を返しておけば怒られない。

 そんな訳で、部員の多くが毎日七時半まで残っているのだ。最近は久我山と能登によるレシーブ講座や神嶋によるサーブ講座が行われていて、人数のわりに活気がある。ただ神嶋のサーブ講座はスパルタなので早々に音を上げる部員が多い。そのため本人はつまらないと言っている。結果として速攻やブロックの練習をしないときの神嶋は一人でひたすらサーブ練習をしているのだが、今日はそれに海堂がレシーバーとして付き合わされていた。

「うわ……、まだやってるよ……」

 呆れたように高尾がそう言い、隣の長谷川に問いかける。

「何本目?」

「確か八十五本目くらい」

「神嶋さんバケモンじゃん……」

 高尾はため息混じりの声を上げて天を仰いだ。

 強烈なジャンプサーブを何回も打ち込む神嶋に対し、海堂が延々と拾いボールを神嶋に返す。海堂のレシーブは完璧なので、今のところボールは一つしか使っていない。

「ジャンプサーブ連続八十五本ってどんな体力してんだよって思う」

「スタミナとパワーとコントロールのバランスが全く偏ってないし、レシーブもブロックも上手い。まさに変態」

 うんうん、と頷き合っていた高尾の肩をガシッと火野が掴んで振り向かせる。

「高尾!速攻だ!速攻やろう!」

「ええ⁈レシーブ講座の後だけど平気⁈」

「今すぐやる。野島さんはもう帰っちゃったから、お前しかいねえんだわ」

「わ、分かった。そこまで言うならやろう」

「ありがと。めっちゃ助かる。あ!ヌマヌマ!長谷川!ブロック跳んでよ!」

 火野は水分補給をしていた二人に声をかける。それに二人は快く応じる。

「お〜、いいぞ!」

「バカスカ落としてやる!」

「凉!レシーブしてくれ!」

「OK。全部拾う」

 怪我が治り全面復帰した凉がそう言うと、火野が吠えた。

「ぜってえ拾わせねえかんな!」

「パワー頼りの脳筋が偉そうに」

「ひどくね⁈」

 ギャアギャアやっている彼らを横目に、海堂はひたすら神嶋のサーブを拾っている。すると、レシーブした海堂がボールを神嶋に返さずに手でキャッチした。神嶋はいきなりの行動に驚いて首を傾げる。

「球威が落ちてます。今日は終わりにしませんか?」

「いや、まだやる」

 神嶋の言葉に海堂は納得いかなさそうに眉を寄せた。

「……球威が落ちてるってことは腕が疲れてるってことですよね?」

「サーブ練なんだから疲れるに決まってる」

「やりすぎは怪我の元です」

「本数を決めてるんだ。時間内には終わらせる」

「時間内にって話じゃないです。無理は良くないって話をしてるんですけど」

「無理はしてない」

 二人の目線の間にバチバチと火花が散り始める。それを見た久我山は苦笑いをするが、止めには入らない。

「止める?」

 と瑞貴が能登に話しかけるが、能登はニヤニヤ笑いながら返す。

「いいじゃん。頑固者同士でやりあってるの面白いし?」

 瑞貴の隣に能登が腰を下ろす。

「うわ、性格悪い」

 緑のスクイズボトルを手に持った瑞貴は、空いている方の手で背中をどつく。

「神嶋のあの顔、久々に見たわ〜」

「能登とやり合ってるときもあの顔してるけどね」

「それは言わないお約束〜」

 二人は、顔を見合わせて笑った。

 

 その翌週の水曜日の午後、設楽は北雷高校の最寄駅にいた。

(これ履いて歩くの久々だなぁ)

 普段のジャージ姿とは打って変わったスーツ姿である。黒の夏用スラックスと、白地に青でストライプの入ったシャツを合わせているが、こんな改まった格好をするのは一年ぶりだった。

 プロ引退後、すっかり放置していたスーツを、北雷高校側とコーチの件について話し合うのにだらしない格好ではまずいと思って慌てて引きずり出して来たのだ。

 学校側とは、すでに数回話し合いを重ねている。契約内容は全て決まっているので、今日契約書にサインをすれば完了だった。夏用の薄手のジャケットとネクタイを入れた鞄の中には、印鑑と筆箱も入れている。

 契約は年度ごとに更新することになっており、今回契約すると三月末にまた更新が待っている。

(プロやってたときみたいだ)

 プロの選手だった頃は、契約書に決まったタイミングで毎回サインと捺印をしていたのだ。ほんの一年前までのことだが、途方もなく昔のことのようにも思える。

 最寄駅を出て、緩やかな勾配の続く坂を登る。その道の両脇には、見事な青い葉を茂らせた桜の木がいくつも並んでいた。ふと、母校の近くにあった銀杏並木を思い出す。

 設楽の出身校である鹿門寺工業高校は平地にあった。自動車科や土木建築科の実習のために、広大な土地が必要だったのだ。必然的に敷地も広く、体育館も校庭も広かった。ところが、これから設楽が教えようとしている相手たちの体育館は相当オンボロらしい。

 ろくな環境も設備も無い創部一年目の無名校。あるのは熱意とみなぎる力だけ。まさか「日本の孔明」と謳われた自分がそんなところでコーチを務めることになるだなんて、全く夢にも思わなかった。

 校舎に到着すると来客玄関から校舎内に入る。指定されている部屋に向かうと、すでに顧問の間宮が待っていた。

「お待ちしていました、設楽さん」

「間宮先生⁈授業は?」

 まだ校舎内は静まり返っている。時間的にも授業中のはずなのだ。なのに、なぜだか間宮は会議室で設楽を待っていたらしい。

「今日は物理を英語と時間割変更してもらったんです。大事な話ですから、僕もちゃんとしたかったので」

 メガネの奥の目が愛想よく笑う。

「ああ……、そうだったんですか。お忙しいところ申し訳ないです」

「いえいえ」

 どうぞ、と椅子を示され、恐縮しながら椅子に座る。

「僕から、一つだけお願いしたいことがあるんです」

 間宮はそう言って、設楽に笑いかけた。

「僕にはバレーボールの競技経験がありません。中高も大学も、文化系の部活でした。運動部の熾烈なレギュラー争いとも、熱意あふれる雰囲気とも縁がありません」

 淡々と語られる言葉に設楽は耳を傾ける。間宮の言葉はすんなりと馴染んでくる気がして、授業を受けている生徒の気分だった。

「なので僕には、彼らの挑戦がとても難しくて大変で、辛い道のりになるということしか想像がつきません。毎日たくさん走って跳んで、全力で駆けずり回る彼らの姿を見たところで、ああ、大変そうだなあとしか思えないんです。試合のときも、あんなに声を出して暑い中で汗を流しながらよくやるなあとしか思えませんでした。……心底、申し訳ないと思っています」

 間宮の目に浮かぶほの暗い光に、設楽は驚いて目を瞬かせる。

「バレーボールは僕には難しい競技にしか見えません。けれど彼らはあるとき全国に行きたいと言いました。でも僕は、それを真剣に受け止めていなかったんです。全力で応援しますよ、と言いましたけど、本気だとは思っていませんでした。この間今回の話を主将と副主将が持って来たとき、僕はようやく彼らの思いの強さを知ったんです」

 細い指を絡ませた間宮は暗い表情ねまま言葉を繋ぐ。

「彼らの思いを子どもによくあることだと軽く受け流し、本気で向かい合いませんでした。今まで僕は彼らに何もしていなかった。言葉では応援しつつも、実際は何とも思っていなかったんです。彼らが知れば、きっと傷つく」

 ですから、と言った間宮と目線がかち合う。それから彼は設楽に向かって腰を折った。

「どうか、彼らに教えられるだけのモノを教えてあげてください。僕には出来ないことです。設楽さんの指導を本当に楽しみにしています。教えていただいた分だけ結果にすると息巻いています。北雷の男子バレー部に、どうか勝ちへの道を示してあげてください」

 設楽は思わず呆然としてしまった。それから我に返って、軽く唇を綻ばせる。

「もちろん。この役割をいただいた以上は」

 このやりとりは、誰も知らない。


「旧体育館はグラウンドの先にあります。あの階段を登って、その先にある古い体育館がそれです」

 間宮の説明を受けながら設楽はグラウンド脇の道を歩いていた。時折ジャージ姿の生徒たちが

「こんにちは!」

 と言いながら走り去って行く。グラウンドではサッカー部が石灰でコートのラインを描いたり、パス練習をしていた。

「いやぁ〜、なんて言うか、学校ですね」

「騒がしいでしょう?でも少ない方なんですよ。この辺りだと九クラスの学校は珍しくないんですが、ウチは各学年六クラスなので」

「高校なんて十三年ぶりです。自分が高校出てからは一度も縁が無かったので」

「僕も母校には全く。まあ茨城なのというのもあるからなんですけれどね」

 階段を登ってすぐのところに、どう見てもオンボロとしか形容しようのない体育館が建っていた。

「これですか」

「これです」

 中からバタバタと人が騒ついている気配がする。

「行かれますか?」

 間宮の問いに、設楽は黙って頷く。間宮が旧体育館の玄関を通って、さらに中のドアの奥へ入って行った。それを追って設楽も中に入る。飴色に変色している下駄箱の近くで靴を履き替えていると、後ろ側から声が聞こえた。

 中のドアの開き加減は絶妙らしく、設楽の姿は向こうからは見えていないらしい。

「あ!間宮っち!じゃなくて先生!こんちは!」

 バカみたいな声量の挨拶が聞こえ、設楽は笑い声を堪える。

「こんにちは、火野君」

「先生、こんちは!」

 また別の元気な挨拶に、どいつもこいつも騒がしいと思いつつ革靴をしまう。

「はい、こんにちは。川村君は今日も元気そうですね」

「間宮先生、こんにちは」

「こんにちは。神嶋君、物理の課題、一番乗りでしたね」

 靴を履き替え、さあどうすべきか、と設楽が思っていると間宮がドアをガラリと全開にした。

「あ!設楽さん!」

 火野のバカでかい声に軽く笑って手を振って見せると、他のメンバーがバタバタとドアの付近に寄って来る。

「うぅわ!本物の設楽泰典だ!」

「ぎえ〜〜!」

「こんにちは!」

「よろしくお願いします!」

 口々に言いたいことを言っている彼らを間宮が抑えて奥に押しやって行く。そのとき、背後から冷ややかな声がした。

「全く、何の騒ぎですか」

 振り向くと、Tシャツにゲーパン姿の女子生徒がいる。おかしい、ここは男子バレー部のはずだ、と設楽は思った。

「海堂!コーチ!コーチ!」

 興奮しきった火野の声に海堂と呼ばれた生徒は設楽を凝視し、それから口をぱくぱくと金魚のように開閉した。

「あ、あの……」

 蚊の鳴くような声に、設楽は首を傾げて見せる。

「あの、えと、設楽泰典選手、元選手?ですよね?」

「おう」

「わ、あ、え」

 部員たちがすっかり黙っていることに気がついた設楽がそちらを見ると、彼らは楽しそうに悪い顔で笑っていた。

「あの海堂がたじたじしてる〜」

「やば、ウケる」

「あの顔写真撮りたい」

「傑作だな」

 すると、それが聞こえたらしい海堂は、手に持っていたタオルをそちらへ投げつけた。

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