5章3話:それぞれの

 月曜の朝、能登はベッドの上に呻きながら身体を起こした。それと言うのも、

「ちょっと朝陽!早く起きろってママがキレてる!アタシまで怒られたじゃん!意味分かんないんだけど⁈」

 と朝っぱらから姉の金切り声に鼓膜を突き刺されたからだ。腹が立ってタオルケットに包まったまま

「わかってるし……」

 と返すと姉はズカズカと部屋に入って来て

「ホント可愛くない!わざわざ起こしてあげたのに何その態度!身体ばっかりデカくなってマジでムカつくわ〜!」

 なんて言いながら、突然部屋のエアコンを切ったのだ。

 能登にしてみれば、姉の行動は信じられない。おかげで、能登の機嫌は墜落事故も真っ青なレベルで急降下だ。

(自分は部屋に入っただけでキレてくるくせに、俺の部屋には入んのかよ)

 ベッドから下りてリビングに行くと、母は仕事着に着替えてテーブルで化粧の真っ最中である。洗面所は姉が占領していた。

「おはよ〜ございます……」

「おはよう、朝陽。朝ご飯は冷蔵庫にあるからあっためて。お弁当の中身は出来てるから自分で詰めてね」

「ん、分かってる」

 能登家の男は能登一人だ。十年前に両親が離婚したため世間一般で言う母子家庭というやつで、稼ぎ手は理学療法士の母一人。姉は看護専門学校の学生で、今年卒業予定だ。そんな訳で、かしましい女二人に囲まれて過ごしている。

「試合、残念だったね」

 母の言葉に冷蔵庫を開けながら頷いた。

 昨日家に帰ってから、能登はすぐに風呂に入った。家族は誰もいなかったけれど、誰にも邪魔されない場所で一人になりたかったからだ。

 海堂の言葉と神嶋の言葉が、ずっと頭の中をグルグルと回っている。心配になるくらいに敵意をむき出しにした神嶋の初めて見る凶暴さに、怖さを覚えるよりも不安に思った。

(もしかしたら、神嶋は、俺が思うほど安定した人間じゃないのかも)

 頼れる主将で、信頼出来る仲間。サーブとブロックは北雷で一番。まとめ上手で人に教えるのも上手い。行動力があって真面目で頑固。けれど、誰よりもバレーに一生懸命な神嶋は、いつだって北雷の大黒柱だと信じていた。何があっても部を支えてくれる、揺るがない丈夫な柱だと。実際に、今まではそうだった。

 しかし一昨日のアレを見てからというもの、能登は神嶋と話したいことがたくさん溜まっていて悶々としている。

 一昨日の夕方、神嶋に電話をかけるべきか迷った。

 神嶋とは仲が悪いわけではない。むしろ良い方だ。副主将としてサポートすることも、ときには対立することもあるけれど、その分正直に腹を割って話せる相手である。だが、能登にとって神嶋の目は強すぎた。躊躇いなくこちらを射抜く目線を真っ向から受け止めるのにときどき怖くなる。真面目な話をするときは大体そうだ。

 だから迷った。怖い思いをしたくないから電話で話すか、それともメッセージを送るか。しかし、能登の中の何かがそれを止めさせた。

 あの真っ直ぐな男にそんな態度を取るのは良くない、と。だから、今日の昼休みに神嶋を捕まえることにしている。

(ちゃんと話そう。じゃないと、ダメだ)

 麦茶の入ったケースを出しながら、決意を固めた。


 一方同じ頃、川村家の玄関では。

「ごめんね、尊君。朱臣、今ご飯食べてるからちょっと待っててくれる?」

「全然待ちますヨ。普段はおれが待たせちゃってますし」

 川村の母と話した野島は腕時計を見る。それからしばらくするとバタバタと川村が走り出て来た。

「ごめん、ごめん。昨日夜更かしした!」

 玄関でローファーを履き、廊下に置いたスポーツバッグを肩にかけて家を出る。

「何時まで?」

「二時半!」

「半分オールジャン。珍しい」

「ミコトは?二時半でも部屋の電気ついてなかった?」

 川村がガレージから自分の自転車を出して来るので、野島は自分の自転車に寄りかかりながらケラケラ笑った。

「おれ?三時。ネトゲしてた」

「寝ろよ!」

「今日はさすがに朱ちゃんも人のこと言えないデショ」

「寝れなかったんです〜」

「まあ、そういう日もあるよネ」

「今日一時間目現代文だから寝るわ」

「推薦狙いの朱臣クンは授業で寝ちゃうんですか〜?良くないですネ〜」

「テストで取りゃいいの!」

 そう言ってから、川村はふと黙る。

「……どうしたノ」

「オレさ」

「うん」

「ブロック、そこそこ出来る方だと思ってたんだわ」

 人通りの少ない狭い道を自転車を押して歩く。この狭い道では自転車に乗るのは危ないのでいつも大通りに出てから、と言うのが決まりだった。

「……そう」

「でもさ、タイミング合わせらんなくてさ、そんで結局、顔になったわけよ」

 さっきまで笑っていたはずの川村はぐっと眉を寄せる。

「強くならないと。ブロックも、もっと上手くならないと。また抜けるなんてダメだ。もう同じことは出来ねえよ。だから、今日部活の後に海堂捕まえる」

 それを聞いた野島は口を開いた。

「おれもネ、一個やりたいことがあるんだ」

「やりたいこと?」

「そう。……向こうのセッターめちゃ上手かったジャン?センスもあった」

「まあ、そうだな。国体選抜メンバーだし、下手なわけねえよ」

「それがサ、おれはサ」

 一呼吸置いて、野島は深く息を吸う。

「超〜〜〜〜〜〜悔しい!」

 とんでもない大声に川村は思わずビクリとする。普段声を張らない分、余計に驚く。

「バカ!まだ朝だぞ⁈」

「めちゃくちゃ!死ぬほど!バカみたいに悔しいんだヨ!」

「分かった!分かったから!静かに!」

「でもおれは国体選抜メンバーに入るほどのセンスなんて無い!神嶋の兄さんみたいにユースに選ばれる力も無い!」

 突然の独白はとんでもない声量を伴って川村の耳に入って来た。

「努力してもすぐには追いつけない。だからおれは、こうなったら一人一人に合わせたトスを上げられるセッターになる」

「……どういうこと?」

「一人一人が一番打ちやすいトスをいつでも上げるんだ。例えば朱ちゃんの打ちやすいネットに近い高めの速いやつ。アレを、いつでもどこからでも上げる」

「いつでもどこからでも、って簡単に言うけどよ」

 思わず声を上げた川村に、野島は鋭く返した。

「分かってるよ。全員分覚えて、必ずその通りに上げるなんて簡単じゃない。だけどおれはやる。例えばエースが抜けたとしても、確実に他のスパイカーが得点出来るようにするんだ。そうしたら他のスパイカー達は自分が役に立ててると分かる。エースだってそればかりを考えなくても済む」

 自転車のハンドルを、手入れの行き届いたセッターの手が強く掴む。

「全員が、心から信頼出来るトスを。全員が、コイツのセットアップなら絶対勝てると思えるようなセッターに、おれはなりたい。いや、なるヨ」

 見慣れた優しい目に浮かぶ、硬い硬い決意の色。

「だから朱ちゃん、協力して」

 相棒がこういう目をすると、もうテコでも動かないことを川村は知っている。

「分かった。手伝うよ。今までたくさんオレのこと助けてもらってるしな」

 頷いた相棒に、野島は笑った。

 

 登校して来た海堂はとにかく不機嫌だった。

「……どいてよ」

「嫌だね」

 海堂の机の前に火野が陣取って動かないからである。

「じゃあせめて荷物置かせて」

「嫌で〜す」

「は?」

 腹を立てているらしい火野だが、海堂も負けじと額に青筋を立てる。

「オレはお前がこの間の試合についてちゃんと説明しない限りここから動きませ〜ん」

「……は?」

「言葉通りで〜す。もう言いません〜」

 ご丁寧に海堂の机と椅子を押さえている。イラッとした海堂は無理やり手を引きはがそうとするが、火野の手ははがれない。

「ちょっ……、邪魔……」

 ガタガタと机が音をさせる。

「い、や、だ!」

「意味分かんない……!」

 ギリギリと足を踏みつけても火野は動かなかった。

 クラス中の視線が集まっている。何せ二人とも背が高いのだ。火野はクラスの男子の中で一番背が高く、海堂はクラスの女子の中で最も背が高い。普通にしていても目立つのに、さらに物音をさせればなおさらだ。

 それを自覚していない二人ではないが、いかんせん相手に腹が立って譲れない。

「手離せよ。怪我すんぞ」

「しないし」

「するし」

「どけ」

「やだ」

「邪魔」

「邪魔じゃない」

 ポスポスと言葉がやり取りされる。ちなみに、凉は静かに自分の席から高みの見物を決め込んでいた。

「だ〜か〜ら!ちゃんと説明しろって言ってんじゃん!土曜の試合のこと!」

 ついに我慢が出来ないと言わんばかりに火野が叫ぶ。

「今ここでしても仕方ない。全員いないと意味が無い」

「うるせえ〜〜〜!オレは知りたいの!聞きたいの!」

 子どものように叫ぶが海堂の言葉は無慈悲である。

「二回やるなんて労力が無駄。絶対やだ」

「はぁ〜〜〜〜⁈納得いかなさすぎてハゲそうなんだけど⁈」

「無意味なやりとりに時間取られるの不快なんだけど。どいてよ。そこ、私の席だから」

 頑固な二人は一歩も譲らない。バチバチ火花を散らしていると、チャイムが鳴る。

「早く席に着いたら?今月で、もう六回も遅刻してる火野和樹君」

 ぐうの音も出ずに結局火野は引き下がる。だが、諦めるつもりはなかった。一日中ストーカーの如く付きまとってやるつもりだ。

 この後付きまといすぎた火野は怒った海堂によってひどい目に遭わされるのだが、それはまた別の話である。


 その日の昼休み、神嶋は困惑していた。

(……呼び出したわりには何も言わないんだな)

 四時間目が終わって教室まで移動していると能登が来て呼び出され、旧体育館まで連れて来られた。

 それはいいのだが、呼び出した当の本人が何も言わないのだ。黙々と昼食を摂っているだけで何も話そうとしない。一体能登が何をしたいのか、今の神嶋には分からない。

「神嶋さ」

 能登は弁当箱を片付けながら、ようやく口を開いた。

「何だ」

「……土曜にお前の兄貴に会ったじゃん」

「会ったな」

「そんときにお前、辛くても苦しくても耐える。今までもそうだったって言ってたじゃんか」

 ああ、その話か、と神嶋は思った。

「そうだな」

「もしかしてさ、ずっと辛かった?」

 そう問う能登の声が震えていて、神嶋は眉を寄せる。

「どう言うことだ?」

「ずっと一人で抱えてて、辛かったのかって聞いてるんだよ」

 向けられた目には悲しそうな色が浮かんでいる。神嶋は、内心首を傾げた。

「……抱えてたと言うか、言いたくなかっただけだ」

「そうなんだ」

「アイツが兄貴だと知られると、大体ろくなことが無かった」

 水筒の中身を喉に流し込み体育館の床に置いた教科書をぱらぱらとめくって答えると、能登はさらに言葉を繋ぐ。

「言いたくないことは誰にでもある。そのくらい分かってるよ。だけど神嶋、俺は話してほしかった」

 落としていた目線を上げ、能登を見る。

「お前にも色々あるんだろ。俺だって色々あるよ。でもさ、辛いこと我慢してたって良いこと無いじゃん。俺はお前が一人で耐えてるほうが辛い。全部話せとは言わねえし、そんなこと俺には言えねえけど、それでも話してほしかった」

 つらつらと並ぶ言葉に思わずハッとして目を見開く。能登の目には悲しそうな色が浮かび、ゆらゆらと揺れていた。

「お前はすごいよ、ホントにすごい。行動力もあって計画的だし、いつも一手先を考えて行動してる。チームをまとめるのも上手くて、後輩たちにはビビられてるけど教えるのだって上手い。頼れる主将で助かってるよ。でも俺は副主将だから、お前のこと助ける立場じゃんか。だから辛いんだったら、出来る範囲で協力したい」

 そこまで言った能登は、一度足を組み直してからまた神嶋を見た。

「これは俺のエゴ。このこと忘れてくれたっていい。だけど俺たちのことを助けてくれてるお前が一人で延々と苦しむのは話が違う気がする。俺が助けられることなんてたかが知れてるかもしれない。俺の出来ることなんて限られてるかもしれない。でも、お前が一人で耐え抜くより、少しは楽になるかもしれない」

 言われた神嶋は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。

「俺、教室に帰るわ。時間取ってごめん」

 立ち去ろうとする背中を見て神嶋は口を開いた。

「中学のとき」

 能登が振り向いて立ち止まる。

「中学のとき、俺は部活で褒められたことが無かった」

「……?」

「何が出来ても、何をやっても、全部『堅志の弟だから』の一言で済まされる。神嶋堅志と血が繋がっているから同じようにバレーが出来ると思われていて、サーブもブロックもスパイクも、全部出来て当たり前だと思われていた。だから、バレーで褒められたことなんて一度も無かった」

 立ち止まった能登は神嶋のところに戻って来て、その正面に腰を下ろす。

「でも実際は『堅志の弟』だから出来たんじゃない。だけど周りはそんなことお構いなしだ。『堅志の弟だから』ってフレーズは便利で、俺にスタメンを取られた先輩は言い訳に使った。俺にフォームの乱れを指摘された同級生もそう言った。アイツの弟ってレッテルを三年間ずっと貼られ続けた。周りは『神嶋直志』じゃなくて『神嶋堅志の弟』としか見てなかった」

 神嶋は曇った表情のまま軽く目を伏せる。しかし次の瞬間、荒れて血の滲んでいる唇は緩い弧を描いた。

「だけど、北雷に来てバレー部を作ってからは違った。俺は『堅志の弟』とは見られなくなった。お前たちは俺のサーブもブロックも、俺の積み重ねがあったからだと言ってくれた。ここに来て、やっと俺は俺でいられるようになった」

「……そう、なのか」

 晴れやかな響きを持つ言葉に能登の肩の力が抜ける。

「能登も川村も野島も瑞貴も久我山も箸山も、一年生も、自覚が無いだけで俺を支えてくれてる。ここでバレーが出来る間は、多分大丈夫だ」

 体育館の近くの木でセミが鳴く声が神嶋の声が途切れた瞬間にうるさくなった。

「なら、良かった……」

 能登は長く息を吐いて床に寝っ転がる。それから、ふと気がついたように勢い良く起き上がった。

「あ、なあ、推薦の話は?」

「本当だ。秦野中央と緋欧から来た。どっちもそこそこ遠いし、緋欧は堅志がいる。秦野中央なんて行ったら、堅志のことを知ってる人も多いだろ。そしたらまた『堅志の弟』扱いされるかもしれないと思って、嫌だったから断った」

「マジか。ホントに来たの⁈」

 秦野中央学院は、昨年度の春高出場校である。春高ではベスト十六で敗退したものの、昨年度のインターハイではベスト八に入る成績を残している。緋欧には及ばないが、それでも県内では屈指の強豪だ。

「でも断って正解だったよ」

 神嶋は珍しく肩を揺らして笑う。

「今のバレーは、楽しいことのほうが多いからな」

 主将のその一言に、能登も笑った。

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