5章2話:邂逅

 三浦海岸駅から横須賀中央駅まで行く間のバレー部の雰囲気は、恐らく史上最悪だった。

 まだ険悪な雰囲気を残す神嶋に、その隣で暗い顔をしている能登。対照的にいつもと変わらないエースコンビと箸山。そして、いつもとは正反対の深刻そうな表情の久我山。瑞貴は病院で凉を回収するため別行動だ。

 そしてその二年生のほうをチラチラと伺う高尾に居心地の悪そうな長谷川、顔色は暗いものの我関せずな水沼。そして、心ここに在らずといった様子の火野に、壁に寄りかかって一言も発しない海堂。

 元から電車の中なので大して話さないが、それにしたってあまりに空気が悪い。久里浜線で三浦海岸駅から横須賀中央駅までの二十分間は、まさに地獄のようだった。

 横須賀中央駅で降り、そこのプラットフォームで流れ解散となる。立ち去ろうとした海堂を、神嶋が呼び止めた。

「海堂」

 海堂は振り向いて神嶋の目を見る。

「さっきの話に出て来た、わざと指示を出さなかったっていうのはどういうことだ。説明しろ」

 すると海堂は首を傾げて言い放った。

「興奮状態の人に話しても意味が無い。明日一日かけて、頭を冷やしてきてください。それに、全員いないとこの話をする意味が無いんですよ」

 その一言に神嶋の眉が寄る。

「……今の俺には話せないと?」

「そうですよ。ちゃんと分かってるじゃないですか」

 軽く鼻で笑った海堂はそのまま歩いて行こうとして思い出しように振り向いた。

「十分の一、でした」

 誰に向けられたか分からない言葉に全員が首を傾げる。

「今回の試合の勝率は、約十分の一。サンショーは、十回試合をやったら九回は負ける相手でした。……それじゃ、失礼します」

 雑踏に、細長い後ろ姿が消えた。

 

 火野が最寄駅を出て自宅に向かって歩いていると、いつも通る家の庭から子どもの声がした。

「できない〜〜〜!」

 生垣よりも目が高い位置にある火野は、イヤホンを突き破ったその声の方に目線だけ寄越す。

 叫んだと思われる少女が地面に座り込んでバタバタと足を動かす。その前に屈み込んだ男が笑いを含んだ声で宥めるように

「お〜お〜、そうか」

 と言った。

「むずかしいよ!バレーボール!」

 甲高い子どもの声に火野は内心頷く。

(分かる、分かる。難しいよなあ、バレーボールって)

 小さくため息を吐いて唇をへの字にし、腕を組んだ。イヤホンから聞こえるドラムの音が鼓膜を叩く。

「ボールの位置高すぎ!そんな高いの打てない!」

「もうちょっと跳んだらいけるって。お前さっき全然跳んでなかったろ」

「ヤス兄だから言えるんだよ〜!」

 ヤス兄、と呼ばれた男は緑のジャージに身を包んでいる。火野と同じくらいの背丈だ。

「もっかいやってみようぜ、ハルカ」

 あの女の子はハルカ、と言うらしい。

「な?ほら、もっかいもっかい」

 男はそう言って再び立つよう促す。しかし

「いやだ〜〜〜〜!」

 ハルカ、と呼ばれていた少女は手に持っていた赤と緑と白のバレーボールを、両手で力一杯放り投げた。

「あっ!ハルカ!」

 叱るような声が上がった直後、火野の頭に衝撃が走る。

「うおっ⁈」

 叫んだ次の瞬間、視界の端にバレーボールが映る。

(まずい、道路に……!)

 とっさに身体が動く。三歩助走のテンポをきっちりと踏んでから、身体が宙を舞った。目の前のボールを打つのではなく、空いている両手でしっかりと捉える。そのまま、膝の関節を柔らかく使って着地する。

「あ〜、びっくりした〜……」

 心臓がバクバク鳴っている。あと少しで交通量の多い道路にボールが落ちるところだった。下手をすれば大事故の原因になるかもしれない。

「いや〜!申し訳ない!」

 浅く息をしていた火野に、民家の庭から出て来た男が声をかける。

「助かった!ありがとう!」

「や、何とも無くて良かったッス」

 男は火野とほぼ変わらない背丈で、後ろで結んだ癖毛が特徴的だ。顎には無精髭が生えているが、不潔な印象は与えない。むしろそれが似合っている。

「ほら、ハルカ。このお兄ちゃんにありがとうございますだろ〜が」

 男の後ろに着いて来ていた二つ結びの少女が顔を見せた。

「お兄ちゃんすご〜い!さっきすっごいぴょ〜んってしてた!何で⁈何でできるの⁈」

 目をキラキラさせて火野を見つめる。

「おい!ハルカ!」

 男は鋭く叱るがハルカはそれを気にしない。

「ハルカもできる?ぴょ〜んって!」

「た、多分……?」

 と返すとハルカは男の筋張った手をグイグイと引いた。

「ヤス兄!ハルカもやる!またやる!だからトス?トシュ?」

「トス!」

「トスちょうだい!」

「分かったけど、まずはお兄ちゃんにありがとうございますって言ってから!」

「ボール取ってくれてありがとう!お兄ちゃん!」

「ありがとうございます、だろ!」

「ヤス兄!トス!トス!」

「だぁぁあ!人の話聞けよ!」

 二人がギャアギャア騒ぐ様子を見て、火野は首を傾げる。

(……何なんだ?この二人)

 男は困った様子の火野の顔をしげしげと眺める。

「さっきボールぶつかってたけど、大丈夫か?」

「大したことないです。オレ、バレー部なんで普段からわりとレシーブ事故ったりして顔に当てたりとかしてるんで」

「お兄ちゃんバレー部なの⁈」

 ハルカがそう言って火野を見て、今度は手を引っ張った。

「お兄ちゃん!さっきのジャンプまたやって!すごかった!ぴょ〜んって!ハルカできないからもっと見たい!」

「ハルカ、困らせたらダメだろ」

 男は諌めるようにそう言うが、ハルカは意に介さない。

「え〜!」

「代わりに俺が跳んでやるから。な?」

「ん〜……」

 ハルカは細い眉をキュッと寄せてから首を横に振った。

「ダメ!」

「はぁ⁈」

「だってヤス兄は足首にケガしたんでしょ?だからジャンプさせちゃダメって母ちゃんが言ってたもん」

 幼いまん丸の目に固い決意を見せながらハルカは腕を組む。まだ幼さを残す細い腕だったが、何やら頼もしい。

「あ〜……、もう、姉貴め……」

 男は額に手を当てて唸り、がっくりとうなだれた。

「またケガしたら歩けなくなっちゃうって」

「大丈夫だよ、一回くらい」

「ダメだよ!お医者さんにダメって言われてるって母ちゃんが言ってたもん。ヤス兄のケガはひどかったから、まだちゃんと治ってないって」

「治ってるよ。この間お前のこと追いかけただろ」

「ダメダメ!ヤス兄はジャンプはしちゃダメなの!」

 ダメ、と言って譲らないハルカに男は困ったように首を傾げる。火野はそっと目線を足首に動かした。

(……サポーターしてる)

 捻挫をしたときにするようなサポーターがスニーカーとジャージの間から覗いている。足首に重い怪我をしたというのは本当のようだ。重怪我、という部分がちょっと海堂に重なってしまって、ブンブンと頭を振る。

(海堂のこと、絶対考えないようにしてたのに……)

 まだ、堅志と海堂が交わしていたあの会話が頭から消えていない。わざと指示を出さなかった理由が、全く理解出来ないのだ。

 プライドの高い海堂が、わざわざ試合に負けるような真似をしたのはどうしてなのか。

 どうして、わざと実力不足だと分かっている火野を、瑞貴を投入したのか。

 頭がグルグルとして来て、またそれを振り払う。それから言い争っている二人に向かって、火野は言った。

「オレ、跳びましょうか?」

「いやいや!そんなことさせる訳には」

「大丈夫っすよ。体力には自信があります。それに、こんなに言われたら跳びたくなりますし」

 男はまた唸って、それから火野に軽く頭を下げた。

「それじゃ、お願いします」

 火野は二人に続いて民家の庭に入った。

(完全に砂だな。これは滑るかも。着地に気をつけないと)

 スニーカーの下でザリザリ音をさせる茶色い砂を見てから火野はスポーツバッグを下ろす。するとそれを男の手が受け取った。

「そこじゃ汚れるだろ。こっちに置くよ」

 そう言って縁側を示す。

「あ、じゃあ、お願いします」

 見慣れたオレンジ色のスポーツバッグが見知らぬ家の縁側に置かれるのは、何となく面白い。

 それから屈伸と伸脚を済ませ、その場で何度か跳ねる。ハルカがそれを隣で真似するが、さすがに同じようにはいかない。びょこぴょこと跳ねる様子が可愛くて少し笑ってしまった。

(しっかしまあ、古い家だな……)

 見上げた屋根の紺色の瓦は夏の陽射しにてらてらと光り、色あせた外壁には蔦が張っている。生垣の近くに朝顔のプランターが並び、縁側には蚊取り線香が漂っている。その奥では扇風機が気怠げに風を送りつつ首を回し、更に奥にはテレビが鎮座していた。まるで、絵に描いたような日本の夏を体現している家だ。

「古いだろ、この家。ここさあ、実は俺の姉貴の家なんだわ。俺は転がり込んで居候してんの。あ、そうだ、名乗ってなかったよな」

 縁側に腰掛けた男はそう言って笑う。

「設楽泰典ってモンだ。ちょ〜っとバレーの心得がある三十二才の怪しげなオッサンってとこかな。んで、あの元気なちびっ子は姉貴の娘の林田ハルカ。今年で小学校一年生」

「北雷高校男子バレー部一年生の火野和樹です」

 応えるように名乗ると、設楽は眉を寄せる。

「北雷?って確かアレだよな。三駅行ったとこにある山の上の?」

「はい。山の上のチャリ部が強い北雷です」

「へえ〜!男バレあったんだ」

 驚いたようにそう言って数回頷く。

「去年出来ました。一個上の先輩らが作って、絶賛活動中です」

「ポジションは?」

「ウイングスパイカーやってます」

「ウイングスパイカー。なるほど、どうりでデカい訳だわ。高一だろ?いや〜、最近の若者ってマジでデカいのな」

「主将は一九六あります」

「一九六⁈ソイツはすげえ!」

 設楽は感心したように言い、縁側から立ち上がった。

「そんじゃ、自己紹介が済んだとこで早速やりますか」

「はい」

「ホントに悪いねえ。帰りがけのとこ捕まえちゃって。俺の脚が使えれば良かったんだけど。というかボールのケース持ってるってことは、もしかして試合の後?この時期だからインターハイ予選か?」

 その単語に火野の歩みが止まる。

「負けましたけどね」

「……おっと、そりゃ悪かった」

「ブロック決勝で、サンショーに」

「サンショーか。最近成績が落ち気味だったな。でも良い選手が十分揃ってるし、波に乗れれば大分良いとこまで行けるだろ。問題は、才能という暴力で殴る緋欧と総合力の秦野中央、堅守と名高いニシハコを突き崩せるかだ。良いリベロが手に入ったみたいで、速攻の畳み掛けにも磨きがかかってる。上手く行くといいなあ。今の三年生、これまでずっと良いところまで来て負けたり、エースの不調があったりでチャンス逃してたから、報われて欲しいと思ってる」

 ぶつぶつと早口でそこまで言ってから、設楽はハッとした顔で火野を見た。

「あ〜、いや、その、すまん」

「大丈夫です」

 それに力無く笑って返す。負けたことは負けたのだ。今さら取り繕っても意味は無い。

「高校バレーが好きでな〜。去年は東京の春高も観に行ったし、インターハイも会場が関東なら観に行きたい」

「バレーやってたんですか?」

「中学から大学まで。大学出てからもやってた。今、土日の午後に小学生のチームの監督兼コーチをやってるんだけど、本当は高校生の監督やりたいんだよなあ」

 その言葉に火野は問い返す。

「何で高校生なんですか?」

「自分が一番バレーが楽しかったのが、高校生だから。あ〜、またやりてえなあ、高校バレー。そうそう、これでも春高もインターハイも出たんだぜ?」

 設楽はそう言いながら頭の上でボールをぽんぽん跳ねさせる。手首を上手く使って受け止めているらしく、音がしない。

(この人上手い……、かも?)

 どうやら、火野にもトスを上げてくれるつもりらしい。

「そんじゃハルカが待ちきれないみたいだからやるか。でも試合の後ならオーバーワークも怖いし、スパイク二本くらいでいいか?」

「はい!よろしくお願いします!」

 この家の庭は、案外広かった。火野の使い慣れたコートに比べると遥かに狭いが、それでもそこそこの広さがある。

「あ、ボールそっちから投げて」

 渡されたボールはハルカに合わせたモノを使っているのか、普段のモノよりずいぶん小さい。

(つ〜かホントにトス上げられんのか?合わせもしてねえのに……)

 内心そう思いながらボール軽く上に放り上げ、腕で受け止めてから設楽に送る。それから助走に入る。砂で滑りつつジャンプして跳んだ火野のタイミングに、ボールが完璧に合わされた。

(ん……⁈)

 正確なタイミングに驚きつつ右腕を振り抜き、手のひらに痛みを感じる。

(あ、レシーブどうすんだろ)

 着地した火野の視界に素早く動く影が見えた。

「はい!」

 聞き慣れたボールが肌を弾く音がして、同時にハルカの声が聞こえる。どうやら驚いたことに、レシーブまで仕込まれているようだ。

「ヤス兄!レシーブしたよ!」

 きれいに上がったとは言いにくいが、それでも見事なレシーブを披露した。そのまま設楽の足元をボールを持ってクルクルと走り回る。

「よし!よくやった!」

「お兄ちゃん、すごいね!すご〜く高くとぶんだね!」

 ハルカにそう言われながら火野は自分の右手を二度見した。

(あ、あのトス、やべえぞ……)

 チラリと目線を上げると、設楽はハルカからボールを受け取って頭を撫でている。

(すげえピッタリでめっちゃ打ちやすい。あの人、上手すぎるだろ!て言うか一番の問題は、オレが全力で跳ばなくてもいい位置に上げてきたこと)

 衝撃的な事実に、乾いた唇を思わず舌で舐めた。

(一回も合わせてない。これが初めだ。野島さんと高尾と合わせるのだってすごい時間がかかったのに、この人は何ともなさそうにやっちまった。……もしかして、只者じゃねえのかも)

 背筋にぞわりとしたモノが走る。設楽は、黙り込んでいる火野を見てニヤリと笑う。

「いいね〜、そのツラ。ビックリしてる?俺なあ、俺と合わせたスパイカーのその顔がだぁ〜い好きなんだよ。あっはっは!」

 腰に手を当てカラカラと笑い、それからふと真面目な顔になった。

「ま、でも、昔取った杵柄ってやつだからよ。これでも、ずいぶん鈍った」

「そ、そうなんすか……」

「そうそう。あ、も一本やる?俺は全然OKよ?」

 海堂と言い設楽と言い、何だか今年は只者ではない人間たちと妙に縁があるらしい。火野はそう思ってからわずかに迷い、頷いた。


 数分後、設楽の家を出て、今度こそ帰路を辿る。

(……怖くなかったな)

 試合の間はあれほど怖かったはずのバレーが、何ともなかった。トスの恐ろしい精度に圧倒されて、その怖さが掻き消されてしまったのだ。

 結局、あれからもう一本トスを上げてもらった。二回目はさらに凄まじい精度を見せ、怖いほど打ちやすいトスが上がったのだ。

 設楽は「さすがに鈍ってるな。すまん」と言って笑っていたが、これで鈍っているのなら以前の実力はどれほどだったのだろう。

「てかあの人、元プロだったりするのかな」

 あの腕前でアマチュアでやっていたのだとは思えない。春高もインターハイも出場経験があると言っていた。それならば名門校出身の可能性もあるだろう。

 加えて、実際に高校バレーの指導には関わってもいないのにあの情報量。趣味で続けているとしたら諸々相当だ。

「ま、いいか」

 バレーが怖くないと感じられただけで良かった。週明けの練習もこれならきっと大丈夫だろう。家に帰ったら何をしようかと考えながら、火野はイヤホンを着けた。

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