4章17話:帰還

 再び古湊のサーブで試合が始まる。

 レシーブした久我山がそのまま野島に返球し、トスが上がる。能登がスパイクを打ったが、小平が拾い東堂に返された。真田と柳原が跳ぶ。サンショーでも特にパワーのあるスパイカー二人の動きに、北雷に緊張が走った。

「ブロック二枚!」

 高階が声を張り上げる。

 上がったトスは真田の右手に押し出されるようにして、瑞貴と神嶋のブロックを突き破った。火野がボールを追って走るが、間に合わずにボールは床に突き刺さる。

 審判の笛が、鋭利に鳴った。ぱらりと得点板がめくられる。三浦商業高校は、ついに二十点目を記録した。

「さ、三点差……!」

 上擦った声と迫る負けの雰囲気に、北雷は完全に沈黙する。サンショー側の応援が耳に痛い。

「はいはいはい!みんな!切り替えろ!」

 能登が声を上げた。

「まだ三点差!取り返しはつく!神嶋の言ったように下手に焦るな!」

「そうそう。まだ負けとは決まってないんだから」

 野島と能登の一言に残りの二年生は頷くが、火野の動揺は消えていなかった。

「ダメだ。火野が完全に焦ってる」

 長谷川が諦めたようにそう言い、それに水沼は小さく唸る。

「さすがにキツくなってきたか」

「さっきから一点も取れてないからな。得点出来たのは一番初めと十七点目。焦らない方がおかしいだろ」

「むしろ焦るのが普通。先輩たちがすごいだけだわ」

 そして二人の心配通り、火野は頭の中が真っ白だった。

(……二十点目、ってことは、二十引く十七で三?三点差?負けてる?)

 周囲の音が異様に遠くなる。耳だけ水で覆われているような感覚で、火野は呆然と立っていた。

(負ける、ってことは、ここでお終い?インターハイは、ブロック決勝で敗退?)

 敗退、の二文字が焼き印のように頭にこびりついた。

(……ていうか、オレさっきから点取れてなくない?スパイク拾われるかドシャットされるかされてる。まずい……、よな?)

 さっきまでの失敗が脳裏にチラつく。得体の知れない何かがグルグルと纏わりついてきて、モヤモヤする。

(役に立ってねえ。全然、話になってねえんだ。ここにいるだけ。何してもダメだ。ここにいるだけでも何も出来ない)

 すうう、と体温が引いた。そして、ハッとする。

(バレー、怖い)

 一度言葉になった感覚はすんなりと馴染んで、火野はそれを小さく声に出した。

「バレー、が、怖い」

 誰にも聞こえなかった言葉は、体育館の床に落ちてぐちゃりと潰れる。

(落ち着け、落ち着け、落ち着け。試合中だろ、今は。オレの役目は、川村さんが来るまでの繋ぎ)

 そこまで考えて、それまでの失点の流れがまた頭に蘇った。固く目を閉じる。

(考えるな……、思い出すな。今、ここでちゃんとやることがオレの仕事なんだから)

 試合中にこんな思いをするのは、火野にとっては初めてだった。


 小学校でクラブ活動に参加するときに、偶然バスケットボールクラブに入った。その頃から周りより頭一つ背が高かったのもあり、周りから勧められたのだ。

 元々、スポーツは得意だった。徒競走もリレーも、水泳もドッヂボールも、サッカーも野球も負け知らず。運動神経が良く身体の物覚えも良いおかげで、体育の時間がつまらないということは無かった。当然バスケットボールもすぐに覚えた。

 中学校に入ったときも当然のようにバスケットボール部を選んだ。経験した競技の中で一番楽しかったと言うことと、小学校からの顔見知りの上級生がいるということが決め手だった。初めは走り込みがしんどかったが、次第に身体が慣れると更に楽しくなった。

 バスケットボールの楽しさは、火野にとってはシンプルで分かりやすかった。ただ長くやりすぎて、高校に上がる頃にどことなく飽きているように感じている自分がいることに気がついた。

「バスケやる気無いなら、バレー部来たら?」

 四月にあった体育の初回の授業で体格の近い凉とペアを組んだとき、そう言われた。

「でも、バレーなんて体育でしかやったことねえよ」

「いいじゃん、別に。人が少ないから逆に面倒見てもらえるよ」

 後にこれが瑞貴に「デカいヤツには片っ端から声かけろ」と言い含められていた凉の作戦だったと知るのだが、そう言われて始めたバレーは難しかった。

 しかも神嶋と久我山のレシーブ練はやたらと厳しい。スパイクもなかなか上手くいかない。慣れない動きに、全身が筋肉痛になった。ジャンプするにしたって今までとは勝手が違う。床に滑り込むレシーブのせいで、膝や肘の皮がむける。アザが残る。バスケットボールよりも突き指の頻度が高く、面白さなんて何一つ見出せなかった。

 海堂が入って来てからもそうだった。海堂は二年生よりも厳しいから、やる気を削がれることも多い。相変わらず上手くいかないことのほうが多くて、辛い日もある。

 そんな日々の中で、火野が初めてバレーの面白さの端っこを掴んだ日があった。

 あれは練習の最後の紅白戦。高尾が上げたトスに食らいついて右腕を振り抜いたら、火野のスパイクは目の前に跳んだ三枚ブロックを割った。

 その紅白戦が終わった後、呆然としていた火野の肩を凉が叩く。

「まあまあ良かったんじゃないの、さっきのスパイク」

 ふとコートの外を見たが、海堂はいつもと変わらない。何だよ、と火野は思った。

 次の日の朝、教室で火野の顔を見た海堂は思い出したように言った。

「昨日のスパイク、コースが甘かった」

「お、おお……」

 朝からやる気を削ぎに来たな、この野郎。内心でそう思ったが、次の瞬間

「でも、悪くなかった。上手くなったとは思うよ。まだまだだけどね」

 と初めてお褒めの言葉をいただいたのである。そこを境に、コツを掴んだのか前よりも上手くスパイクを打てるようになった。そうしてようやく、面白さを見つけることが出来たのだ。

 少しずつ少しずつ手探りで進み、長い道を走るのは大変だ。けれど最近は、道端に楽しさのカケラがコロコロと落ちている。それを拾ってポケットに入れ、拾ったカケラを大事に抱え込んで走っている。

 長い道はいつも先が晴れていて、行き先が見えていた。ところが、今は怖さのせいで霞がかって何も見えない。

(無理だ、無理だ無理だ無理だ)

 立ちたかったはずの場所は、思っていたよりずっと怖かった。

(何で神嶋さんも野島さんも普通でいられんだよ。川村さんは、どうしてブロックに行けたんだよ。オレには、何も分かんねえよ)

 怖いと自覚した瞬間に堤防が決壊する。

(嫌だ、怖い。こんなのオレの好きなバレーじゃない。違う、これじゃない!)

 膝が震え、崩れ落ちそうになった瞬間。

「嘘⁈劣勢じゃん⁈」

 聞き慣れている声が、聞こえた。

「まあいいや!喜べ!お前ら!」

 目線をそちらにやる。

「エース川村朱臣の帰還だぞ!コラァ!」

 ベンチのところで腕を組んでニンマリ笑う、川村がいた。

 川村の帰還に、北雷の熱量が上がる。それを見逃さずに能登が声を上げた。

「川村が帰って来た!アップ終わるまで繋ぐぞ!」

 ちょうどそのタイミングでボールがサンショーに返され、古湊の手に渡った。だが、ついさっきまで落ちかけていた北雷の士気がグンと上がるのを古湊は感じ取る。

 体育館に戻って来た川村は、充電は満タンで体力もすっかり回復している。アップゾーンに入りそこでアップを始めた。

「川村さん」

「海堂、もう大丈夫だ。アップが終わったらいつでも入れてくれ」

 海堂に声をかけられそう返した川村は、その目を見て問う。

「どうした?」

「点差は三点。向こうは二十点でこっちは十七点です。火野はほとんど得点出来ておらず、ドシャットを食らったりしています。北雷の状態、どう思います?」

 その言葉に川村は少し考えてから話し出した。

「……全体的に疲労が目立ってる。特に久我山と神嶋、能登の三人。あの疲れ具合を見るに火野のカバー中心に行ったな?」

「さすがです」

「見りゃ分かるさ。明らかに動きが鈍い。この異常な暑さもあるとは思うけど、それだけであの疲れ具合は妙だろ」

 川村はそう言い、自分で名前を上げた三人の後ろ姿を見る。背中からでも分かる彼らの疲労の度合いに、顔をしかめた。

(くそ、オレがコートから出なかったら、多分こんなことには……)

 あのときの自分は、間違った判断をしたとは全く思っていなかった。だがこうしてチームにマイナスの影響を与えた以上、間違った判断だったのかもしれない。

(この後に必ず取り返そう。自分のミスは、自分で始末をつけねえと)

 軽く目を伏せてそう意志を固め、コートの中を見る。古湊のサーブを、能登が弾き上げたところだった。そのまま野島に返球され、トスが上がる。瑞貴がスパイクを打つが、ドシャットされた。

 三浦商業高校は二十一点目を獲得し、点差はついに四点となる。

 そのタイミングで海堂が審判に選手交代を申告した。フラフラと火野がベンチに戻って来る。そのときの火野の様子に、川村は思わずギョッとした。北雷の元気印はすっかり覇気を失っている。

「川村さん……」

 声が震え、光の無い目が川村を見た。

「すいません、オレ、ほんとに」

 たったそれだけの言葉だったが、海堂からの説明を思い返してその肩を片手で強く抱く。火野の身長は一八六センチ。川村よりも三センチ大きい後輩は、ここまで異様な成長速度を見せてきたとは言え、それでもバレー初心者の一年生だった。

「よく頑張ったな」

 火野と入れ替わりにコートに入る。

「後は任せろ!」

 背後で、火野が崩れる気配がした。

「向こう、エースが帰って来た」

 東堂の言葉に真田は頷く。

「ヤナさんに比べたら大したことねえけど、やっぱエースがいるのといないのとだと空気が違う。向こうも、盛り返して来るかも」

「どのみち潰す……!」

「人殺せそうな顔してる」

 そう言った東堂を真田は軽く叩いた。

「うるせえ、ボケ」

「俺がボケならお前は頭スッカラカンだろ。酒で溶けたか?」

「飲んでねえよ、バーカ」

「バカじゃないし、アーホ」

「あ?」

「ん?」

 一瞬小さく火花が散るが、二人は顔を見合わせて軽く笑う。

「第二セットも大詰めだ。気引き締めてブチ当たンぞ。今年が最後だかんな」

「分かってるっての!」

 二年生二人のやり取りを聞いた古湊は一人で唇を緩めた。

(色々気負わせて悪いとは思ってた。でも、アイツらはアイツらで楽しんでんだな。なら良かったよ。心配しすぎた)

 自分たちの世代が苦しむ姿を、何度も何度も見せてしまった。情けないところも、たくさん見せてしまった。バカにされても下に見られても文句は言えない。実際に一部ではそうされていたことを知っている。けれどこの二人は、信じてついて来てくれた。

 このチームを引っ張っているのは高階を初めとした三年生だが、それを支えてくれるのが二年生だった。

 サンショーには圧倒的な天才はいない。誰か一人が先頭に立って引っ張って行くチームではない。しかし、だからこそ今がある。サンショーのスタメンは、全員それを知っている。誇張ではなく信頼だけで成り立ち、ともに辛酸を舐めて来た。そんな自分たちが、ポッと出のダークホースに負けるわけにはいかないのだ。

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