4章13話:只者じゃない

「川村!鼻血!」

「え、うお、あれ、やば」

 ボールのサイズの影響で、右頬だけでなく顔の右側ほとんどを当てたことになる。鼻にもぶつかっていたらしく、鼻血が出て来たらしい。

「すいません!タイム!」

 能登が審判に向かってそう言うと、試合が中断された。口の中の怪我もいきなり出血が酷くなり、口と鼻から出血するという事態に至った。海堂がベンチから飛び出して来て、保冷剤を一つ川村に押し付ける。

「鼻、これで冷やしてください。上向かないで。飲んだら気持ち悪いですよ」

 口の中を血を溢さないように川村は口を閉じていたが、余程の傷なのか端から血が溢れて来た。それを見た長谷川が川村のタオルを持って走り出て来る。

「川村さん、血出しちゃってください。桶とかバケツとか無いんで、とりあえずタオルですけど」

 両手の塞がっている川村の代わりに瑞貴がタオルを受け取った。一瞬ためらったが口を開くと、青いタオルが赤黒く染まる。

「一度ベンチに下がりましょう。何か詰めないとどうにもなりません。川村さん、歩けますか?」

 すると顎が僅かに動く。

「ベンチまで行く間も、上は向かないでください」

 指示を済ませてベンチに川村を座らせるが出血の勢いは一向に緩まない。この場の気温の影響が多いだろうと判断した海堂はティッシュを切らせるのを高尾に任せ、サンショーの監督である木島の下へ走った。

「木島先生、北雷高校マネージャーの海堂聖と申します。無理を承知でのお願いですが、どこかエアコンのついている部屋にうちの三番を連れて行かせていただきたいです。この気温だと出血が止まりません」

 それを聞いた木島はベンチから立ち上がり北雷のベンチへ向かう。川村の出血の様子を見て顔をしかめると

「これはひどいな。ちょっと待ってなさい」

 とだけ言い置いて校舎の方へ向かった。いくら相手が対戦校とは言え、木島も鬼ではない。元々子どもが好きで教員になったのだ。もう幼くはないとは言え、木島から見れば十六や十七の少年など子どもも同然。それにここは学校だ。しかも休日なのだから、部屋の一つや二つ余っているはずである。

「にしてもホントに出血ひどいぞ。これ大丈夫かあ?」

 瑞貴の言葉に野島が頷く。効果音をつけるならダバダバ、というのが似合いそうなくらいの出血量だ。前屈みの状態でベンチに座らせられて保冷剤で鼻の付け根を押さえているが、全く効果が無い。口の中の出血も止まらず、口呼吸もろくに出来ていなかった。

「朱ちゃん、もう血飲んじゃってもいいからちゃんと息しな。死ぬヨ」

 それからひゅっと音が鳴ったが、次の瞬間派手にむせる。野島が背中をさする間に海堂が川村の手から保冷剤を奪い取り、当てる場所を変えていく。すると、とある一点で不思議と出血の勢いが緩やかになった。

「あれ?何で?」

 能登の言葉に海堂は川村のほうを向いたまま答える。

「鼻血が出たときの対処法は、椅子に座らせて前屈みで口呼吸させ、鼻の付け根を押さえるの三つです。今回は保冷剤を使っていますが、出血した箇所に当てることで血を固めることが出来る。指で押さえるときも、出血箇所を探してから圧迫止血の要領でやるといいですよ」

「詳しいのな」

「保育園の頃、木に登っては落ちて怪我したりを繰り返していたので身体が覚えました」

「保育園生で木登り……」

 何か言いたげな能登を視線で黙らせる。

「川村さん、口開けてください」

 すると、あが、と大きく口が開く。血の滲んでいる右側を見てから海堂は少し安心したように続けた。

「こっちも落ち着いて来ましたね」

「はいろう、はいひゃひゃんみはい」

 口を開けたまま川村が何か言うが聞き取れない。一瞬困ったがまあいいかとスルーしようとすると

「海堂、歯医者さんみたい。って言ってる」

 野島が代わりにそう話した。

「通訳ありがとうございます。川村さん、とりあえず出血が落ち着くまでは試合には出せません。いいですね?」

 子どもを諭す母親のように言った海堂は川村の同意を確認すると、自分の後ろを見る。

「代わりに火野を投入します。他の皆さんも、いいですか?」

「お前の采配だ。文句は無い」

 腕を組んだ神嶋の言葉に全員が頷く。このチームにおいて神嶋の意志は全員の意志であり、鶴の一声になりうる。神嶋が諾と言えばゴーサインであり、否と言えばブレーキだ。

「ありがとうございます。……火野!アップしっかり!」

「OK!」

 火野に指示を飛ばした海堂の隣で替えのティッシュを高尾が川村に手渡した。

「いきなり出血が増えたのは、アドレナリンが減ったからだと思います」

「アドレナリン?」

「興奮してるとアドレナリンという物質が分泌されていて、痛みを感じにくくなったり出血が抑えられたりするんです。ですがベンチに向かって一度笑ったとき、緊張と興奮が緩んでこうなったんじゃないでしょうか。医者ではないので、詳しいことは分かりませんけど」

 そう話していたとき、木島が校舎から戻って来る。

「一階の会議室を使えるようにしたから、そこで身体を冷やしてくるといい。使い終わったら、部屋のエアコンのスイッチは切っておいてくれるかな。渡り廊下を渡ってすぐのところにあるから分かりやすいと思う」

「ありがとうございます」

 それを受けて海堂が川村を立たせる。

「私が会議室まで付き添います。戻って来るまで、ベンチメンバーはスコアを紙に書き留めておいてください」

「……川村、ちゃんと血止めてから戻って来いよ」

 神嶋の言葉に川村は頷いて海堂とともに渡り廊下へ向かう。

「……川村さん、大丈夫ですか」

 後輩の言葉にはただの「大丈夫」よりも多めの意味が含まれていることに気がつき、奥歯を噛み締めた。

「大丈夫……、じゃねえな。正直、耐えられない」

「ですよね。分かります」

 体育館を出ると外で練習していた野球部のノック音が聞こえる。

「分かるのか」

「怪我をした年の夏、走水は県大会決勝で敗退しました。……私がいれば、と思ったことは覚えています。出られなかったことも、私のいたチームが負けたことも、とにかく悔しかった」

 静かな声の奥にゆらゆらと何かが揺れている。揺れている何かはきっと、今の自分が持っているものと同じだろうと川村は思った。

「でも、あのブロックがあったから一点リードしました。それは本当に救いです。ありがとうございました」

「別に気遣って言わなくていいぜ。点取るのが当たり前なんだから。そこらへんは、お前が一番分かってんだろ」

 校舎内に入ると陽射しが遮られて少し涼しくなる。木島の言う通り、入ってすぐのところに会議室があった。ドアを開けると中から冷気が漏れてくる。

「まあ、あんまり心配しちゃいねえ。神嶋もミコトも、能登も瑞貴もいるし」

「それじゃあ、ちゃんと血止めてから来てください。体育館で待ってますので」

 そうとだけ言い置いた海堂は踵を返して立ち去って行く。残された川村は、足元に目線を落として何かを押し殺すようにため息をついた。

(ブロック強化は、必須だな)

 冷風が首筋に吹き付けた。

 

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