3章2話:エースの貫禄
翌日、野島は朝八時半に起きた。今日は練習が休みなので多少の朝寝坊は許される。
「あ〜……、眠い……」
一階にある台所に下りていくと、テーブルの上に紙が置いてあった。
「えっと、豆腐は使い切っていいのネ。了解ですっと」
親からの連絡事項が書き付けてある紙を見てから、野島はそのまま続き部屋になっている板の間に足を向ける。
開け放たれた窓から湿気を含んだ風が入って来て、まだ寝癖のついている髪を撫でた。板の間に据えられている黒塗りの古めかしい仏壇。そこには、曽祖父母と祖母の位牌がある。仏壇に向かって手を合わせることから野島の一日はスタートする。
仏壇の前に正座をして手を合わせる。本当は線香やら何やらやったほうが良いのだが、朝くらいは多めに見てくれるだろうということにしている。
(えっと、昨日の試合は無事に勝てました。今日はその反省会をやる予定です。今日も一日お願いします)
野島の左手の小指は曲がらない。中学に上がる前の春休みに、祖母の断ち切り鋏でうっかり腱を切ってしまったからだ。
野島は、実は両利きだ。元々左利きだったのを厳格な祖父母によって矯正された。結果的にはあまりの厳しさに見かねた両親が止めさせたのだが。そうして、野島は左手の小指が曲がらないというセッターとしては大きなハンデを背負うことになった。
「昨日はツーアタック、結局使わないで済んだな……」
ツーアタックとは、相手からのボールをレシーブした後にセッターがそれをスパイカーに上げずに自分で相手コートに打ち込む攻撃方法だ。相手が警戒していない場合が多いので得点源となることもあれば、逆に勘の良いブロッカーに気がつかれて弾かれることもある。いわば諸刃の剣である。
両利きであることで、ライトにいてもレフトにいても、右手でも左手でも精度も威力もほぼ変わらない。両利きであることを生かしたツーアタックが野島尊の大きな武器であり、正セッターとしてコートに立てる所以だと本人は考えている。
「ご飯食べよ」
小さい頃、うっかり左手を使おうものならひどく叱られた。食事の時間は、いつだって憂鬱だった。そのときは辛くて、祖父母が怖かったことをよく覚えている。未だに祖父は怖い。だが、そのときが無ければ今の自分にツーアタックは無かっただろう。まだ二十年も生きていないが、人生とはそうした偶然の積み重なりなのではないかと野島は思っていた。
午後一時くらいになって鳴ったインターホンの音に野島が玄関に向かうと、そこには川村と鈴懸兄弟、箸山が揃っていた。
「いらっしゃい。入ってすぐのところに洗面所あるからそこで手洗ってネ。朱ちゃん、部屋まで案内よろしく」
「はいはい。任されましたよっと」
「おわ!広い!」
「廊下長いっすね〜!」
ふざけたように返事をした川村とはしゃぐ後輩を見送った野島は、板敷の廊下を歩いて一階の一番突き当たりにある部屋に向かう。襖を開けると広い和室が広がっていた。
(テレビのコード繋がないと……)
今日は野島の家で前日の試合の振り返りをする予定だ。この部屋の広さなら十三人くらい入るだろうと思い提案したのである。
ごそごそとやっている間に一年生が揃い、それから少し遅れて二年生数人が滑り込んで来た。今日は休みなのでみんな私服である。
「凉の私服って……、なんか……アレだな」
火野の言葉に凉は首を傾げる。
「何?文句?」
「いや、すげえ爽やか……」
「清潔感だよ。大事でしょ」
凉は薄い色合いの服を綺麗に着こなしている。いわゆる膨張色とも言われる白のパンツを汚れないまま着ている辺り、凉の細かい性格が出ている。
「火野は小学生みたいだね」
「え……⁈そう⁈」
火野のフード付きのパーカーから出ている紐を凉と高尾が両サイドからグイグイと引っ張り出す。
「ちょ、やめろよ!首絞まるだろ!」
「うるせえ、絞められてろ」
「オレの人権!」
そこ三人がギャアギャア騒いでいると、三角形になって座っている中心の部分にダン!と足が叩きつけられる。
「これから反省会だから。黙って」
こんなことをするのはこの空間には一人しかいない。何を隠そう海堂聖だ。
「分かった……」
「ごめん……」
「謝るけど今の怖いから止めて……。もうしないで……。許して……」
すっかり怯えてしまった三人の様子を見た能登は気の毒に思った。
「海堂ってアレよくやるけど何で?」
素直な疑問を川村がぶつけると、海堂は何食わぬ顔で返した。
「弟たちにアレやると絶対言うこと聞くんです。だから男子には有効なんだなって分かったので……」
「……アレ男からするとめちゃ怖いから、なるべく止めてあげろよ」
「だから大人しくなるんですか?」
「分からないでやってたの⁈」
えぐいって……、と呟いた川村に不思議そうな顔を見せた海堂は、スタスタとテレビの方に歩いて行く。
「やべえぞ、神嶋。アイツに逆らうと潰されるかも……」
「止めろ。すごく怖いから。相手が海堂だとシャレにならないから」
珍しく神嶋までもが顔をこわばらせている。
「大人しそうな顔しといて、意外と怖いんだよな……」
その言葉に川村と能登は驚いて、二人は思わず神嶋を見た。
「今、何て言った?」
「え?いや、大人しそうな顔しといて」
「大人しそう⁈どこが⁈ゴリゴリの三白眼じゃん!」
「いや、まあそうだけど、言うこととやること以外は怖くはないだろ」
そんな話をされている張本人は試合動画を焼いてきたらしいDVDをプレーヤーに入れている。畳に膝立ちをしている後ろ姿はどこにいでもいる高校生だ。
しばらくして映像の再生が始まる。さっきまでの騒がしさが嘘のように、みんな映像を見ていた。
「……はい。とりあえずこれでお終いです。私の感想なんですが、昨日は比較的上手くいったと言ってもいいと思います」
その言葉にみんな一瞬呆然とした。海堂がここまでちゃんと褒めるのは初めてだったからだ。
「理由としては、想像以上に一年生二人の成長が見られたこと。あともう一つは、コンビミスが一つも無かったからです。これはもう野島さんの手柄としか言えません。コートを広さを正確に把握することが出来ているから、トスワークにミスがない。試合前に調整しているところは見ませんでしたが、どうしたんですか?」
その質問に野島は首を傾げた。
「調整?どういうこと?」
「普段使っている体育館より天井が高かったので、コートの広さの認識とかも若干変わるはずなんです。セッターの感覚が変わることでトスのミスが起こることもあります。なのでそれを未然に防ぐために、試合前に調整する人がいるんです」
野島は少し考えてからさらに首を捻る。
「少なくともおれは試合前にそんなことはしてないヨ。中学のときからそうだ。広さの違う体育館でも、おれはそんなことをしたことない」
海堂は一瞬呆けてから「え」と低い声を出した。その様子に周りも普通ではないものを感じる。海堂がこんな反応を示したのは入部して初めてだ。
「川村さん、それ、本当ですか?」
呆けた次には焦ったような様子で川村を見る。その言葉に川村は頷いた。
「ミコトは、基本的にどこでやってもトスのミスはしない。連携ミスがあったとしたら、それはスパイカーのミスだな」
川村の野島を信頼しきった一言に海堂は口元を手で覆って考え込む。
「……野島さん、それは天賦の才ですよ」
ようやっと出したような声にみんながそちらを見た。
「え?」
「空間認識能力って言葉を聞いたことはありますか?」
「いや、無いけど……」
「空間認識能力とは、物体の位置・方向・大きさ・形状・間隔など、物体が三次元空間に占めている状態や関係を、素早く正確に把握、認識する能力です。球技においては大変重要なスキルだと言われています。ですが、どこの体育館でも狂わない絶対的な空間認識能力。そこまで来ると、最早才能の域に入っていると言ってもいいでしょう」
その言葉に、野島は一瞬呆けた。こんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
「え、そんなにすごいノ?」
「すごいです。めちゃくちゃすごいです」
真面目な顔をした海堂にそう頷かれ、野島は「へえ〜……」と他人事のように返事をする。すると、横から何かが飛びついて来てそのまま床に倒される。
「やっぱお前、すごいヤツじゃん!」
聞こえた声は川村のものだった。
「朱ちゃん……、重いです……。七十三キロあるの自覚してる……?」
川村の体重に潰されながらそう言った声は、多分届いていない。それを咎める声と野島を称賛する声が聞こえる。バレーを始めなければ、知らなかったかもしれない。
(やっぱり、大人数で騒ぐの好きだな)
野島は、一人で喉を鳴らして笑った。
それから一週間後、二回戦に進出した北雷高校男子バレー部の面々は再び平山学園にやって来ていた。会場提供校の平山学園の体育館を使っての二回戦である。
今回の相手は市立倉橋第一高校。昨年のインターハイ予選では県ベスト八入りを果たした強豪校だ。相手も気合いバッチリと言った様子で、前回の平山学園とは比べ物にならない覇気を発している。
「この手の強豪校で怖いのは選手層の厚さです。一つのポジションにつき、一人は交代の選手がいてもおかしくない」
試合前、ベンチに集まったスターティングメンバーを前に海堂は淡々と語った。
「前回と同じくフルセットは避けましょう。こちらが消耗しきっても相手は替え玉を持っている。この短期決戦を片付けるためのマストアイテムは」
海堂はつ、と目線を野島と川村に向ける。
「——エースコンビの、必殺速攻」
二人は分かっていると言わんばかりに頷いて見せた。
「相手ブロッカーの目が慣れる前にバカスカ打ってください。それでも必ず対策はされるでしょうから、セッターには他のスパイカーとの使い分けをしっかりお願いします」
野島は静かに頷く。
「私からは以上です。神嶋さん、お願いします」
海堂にそう言われた神嶋は迷わずに
「とりあえず円陣組むぞ。掛け声、ガラ悪くなるなよ」
と釘を刺しつつ肩を組む。
「二回戦、相手は市立倉橋第一だ。シードで一回戦には出ていない。もちろんこっちはあっちのデータは無い。だから、ウチのアナリストの言うことをただ信じて戦おう。一点一点に貪欲に。北雷、勝つぞ!」
腹の底に響くような声を神嶋が張り、それに(主に二年生の)ガラの悪い掛け声が応えた。
「うあ〜〜〜い!」
「おえ〜〜〜い!」
「ッシャアァア〜!来いや!」
「だらっしゃぁぁあ!」
「おい、お前ら!人の話聞いてたのか⁈」
相変わらずの様子に海堂は苦笑いしつつベンチに戻った。今回の北雷高校のスターティングメンバーも
一番 神嶋直志 ポジションMB
二番 能登朝陽 ポジションMB
三番 川村朱臣 ポジションWS
四番 野島尊 ポジションS
五番 久我山則人 ポジションLi
九番 鈴懸凉 ポジションWS
の六名である。
両校の選手がエンドラインに整列し、主審の合図で一礼した。
「お願いします!」
コートに響いたその声からも、倉橋第一の本気具合が伝わって来る。初期配置に移動しながら、野島は川村に声をかけた。
「朱ちゃん、初っ端から強襲ブチかますからスタンバイよろしくネ?」
「やっぱそうだよな!そう来ないとな!」
顔を見合わせてニッと笑う。
(そう、この笑顔)
「さくっと勝って、上行こうぜ!」
突き出された拳に拳を当て返し、野島も笑う。
対横須賀市立倉橋第一高校戦の勝利のカギは、北雷エースコンビ。新たな自分の力を知った野島と、北雷のエース川村朱臣。
「もちろん。さっさと勝つヨ〜!」
肩を並べてコートに立つ。幾度となく繰り返したはずの行動に、野島の薄っぺらな胸の奥の心臓が脈打つ。
運命の二回戦、開幕——!
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