1章3話:枷を外して歩いて行こう
「ボールは友達」。その言葉は、海堂聖にとって紛れもない事実であった。
短気で好戦的な性格を持って生まれた海堂は、手の付けようが無い暴れん坊だったのである。すぐに喧嘩になりすぐに手が出た。ケンカの度に相手を執拗なまでに追い詰め、ときには怪我をさせた。そんな海堂に、ついに両親は匙を投げる。
困りあぐねた二人は、当時小学二年生の海堂にスポーツをやらせることにした。近所のバレーボールクラブ。バレーボール選手としての海堂聖の誕生である。
そこは男女混成の緩いチームだった。しかし、海堂の好戦的な性格を生かすには十分過ぎる環境であった。持ち前の性格と、体力、運動神経と遺伝による体格——小学生二年生の秋で既に一四〇センチ近かった——を武器に、六年生にも引けを取らない活躍を見せるようになる。そしてこのチームに入ったことで、ケンカをする回数が圧倒的に減った。
その理由は「殴ると手を怪我するから」。他者への思いやりや精神的な成長ではないが、自分の手を守るという意識は、バレーによって培われたものだった。
やがて海堂の実力は他の追随を許さないレベルにまで上り詰めるのだが、その影には自分を追いこむ徹底した自主練があったのだ。
海堂は家に帰ると脇目も振らずにボールを触った。バレーボールは、唯一ボールを掴めない球技。それ故、ボールを身体の一部のように扱えるようになることが重要だ。そして海堂はそれを本能で察知していた。学校にもこっそりとボールを持ち込み、休み時間は校舎裏の人気のない場所でひたすら壁あてやレシーブ練習に費やした。故に、本当に「ボールは友達」だったのである。
両親が多忙な海堂家では、あまり親にかまってもらえない。休みでも相手をしてもらえることは少ないが、試合で勝てば二人は無条件に海堂を褒めた。「頑張ったね」という言葉とともに頭を撫でられた。部活から帰って来た兄に戦勝報告をすれば、「さすが俺の妹だ」という言葉とともにその逞しい胸に抱きしめられる。試合に勝った日の夕飯は、必ず好物の醤油ラーメン。夕飯時のテーブルの話題の中心は海堂の試合の話。親と兄が無条件にかまってくれて、自分の話を聞いてくれて、夕飯は自分の好物。それだけが嬉しくて、たったそれだけのために自分を追い詰めた。
何度突き指をしても、何度擦り傷を作っても。歪んだ指と傷だらけの腕や脚をからかわれても。
自分の得たいもののためには、どんな犠牲も厭わない。痛みも苦しみも、それを感じるものはバレーボール選手である海堂聖には不要。それが本人の導き出した答えであり、唯一無二の最適解。これらの積み重ねが、やがて束の間のコートの女帝、海堂聖を生んだのである。
「海堂、ちょっといいか」
帰り際に背後から投げかけられた声に海堂は黙って振り向く。そこには、火野がいた。
「……何」
ざわつく放課後の廊下の隅に、僅かな緊張が走る。
「いや、涼が話してたことについてなんだけど」
時間ある?と問いかけられて、一瞬迷ってから頷いた。
連れて行かれたのは、一年生のフロアである四階の奥まった階段だった。特別教室棟の階段を使う生徒はまずいない。放課後は吹奏楽部が特別教室棟の音楽室を陣取っているが、奴らがいるのは三階だ。
「あのさ、アナリストやってくれないかって話なんだけど」
「断る。メリットが無い」
「人の話は最後まで聞けよ。お母さんに習わなかったか?」
海堂は片頬をピクピクと痙攣させるが大きく呼吸して火野に続きを促す。
「で?何なの?」
「お前、すごかったんだろ?全国大会に出場したんだろ?だから、ここでまた同じことを手伝ってほしい」
開きっぱなしにされた窓から入って来る五月の風に海堂の髪が揺れた。
「……もう出来ないから、例えアナリストでもバレーはやりたくない」
「嘘だろ。やりたくないってのは」
海堂は何も言わない。火野は言葉を繋ぐ。
「大きなブランクがあって、あんなに綺麗なレシーブが出来るわけがない」
「それだけでそうとは言えないだろ」
「じゃあ何だよ、その辛そうな顔は。……当ててやろうか。お前がアナリストをやりたくないのは、プレーヤーの自分に執着してるからだ。そうでない自分に価値は無いと思ってるから、二度とプレーヤーになれない自分を認めるのが怖い。認めたら、そこで人生は全部終わるんじゃないかくらいのこと思ってる」
まるで冷水を浴びせかけられたように海堂の頭が冷えた。すうっと指先から体温がきえていく。
「出来なくなったら……、プレーヤーとして使えなくなったら全部終わり?お前、何でそんな悲しいこと考えてんの……?」
遠くに放課後のざわめきが聞こえる。四時のチャイムが鳴って吹奏楽部の合奏が始まった。
「……飛べないスパイカーはいらない」
蘇る記憶。
「……分からないでしょ、飛べないことを知った瞬間の絶望なんて」
その言葉とともに歯を食いしばる。
セッターの上げたトスに合わせられなくなったあの絶望。
「分からないでしょ、知らないでしょ!あの絶望も、苦しさも!チームにとって使えない人間になったと分かった瞬間の絶望も!悔しさも!諦めも!」
すっかり筋肉の落ちた身体に、かつての仲間から向けられる憐みの目線。
「……お前がバレーをどう思ってるかなんて知らない。中学のときどんな人にどうやって鍛えられたかも知らない」
そう言った火野の顎の線がグッと盛り上がる。海堂を捉えた目には、明らかな怒りが浮かんでいた。
「でもさ、何で自分のことをそんな道具みたいに言うんだよ。お前、道具じゃねえだろ。お前は、チームが勝つための道具じゃねえ!チームが勝つために必要な人材だったんだろ⁈何でそんなことも分かんねえの⁈」
言葉を紡ぐ声は歯痒そうな響きを持っていた。
「認めたらそこで全部終わり。そんなこと考えてる!だからアナリストを否定した!本当はもう何でもいいからまたバレーをやりたいはずなのに!」
その言葉を、否定出来なかった。
「……もったいねえよ!今まで頑張って積み上げて来たモノ全部、得たモノ全部、今ここで投げ捨てんのかよ!
火野の声が埃っぽい階段に響く。吹奏楽部の楽器の音を背景に、火野はさらに言葉を繋いだ。
「だってお前、知識があるんだろ?経験だってある!しかも頭いいじゃん!バレーの知識と経験があって、頭がいい。情報分析には最高の人材だよ!」
これは本心だ、オレは本気だ、そう言った火野は必死だった。まくられたシャツから剥き出しになった腕にはアザがある。指には不器用なテーピングが施されている。
(火野は……、プレーヤーなんだ)
自分がもう二度なれないプレーヤーの証とも言えるものを持つ火野を見て、なぜだか自然と諦めが生まれた。
そしていつの間にか、逆鱗に触れられた怒りも煽られた怒りもすっかり収まっていたのである。
(あのアザ、多分レシーブ練習で出来たやつだ。あのテーピングは指の保護用)
多分、足にもアザがあるだろう。
「怪我が辛いのなんて当たり前だ!オレは中学のときバスケやってたんだけど、怪我して出来なかった時期がある。……コートの外から出来ることが無くてみんなを見てるだけってすごく辛い。やりたいけど身体は応えてくれない。しかもオレは試合中シュートを決めるしか能が無かった。みんなを外から助けてやるなんて出来なかった」
悔しそうに言った火野は次の瞬間、でも!と一際大きく声を張り上げた。
「お前には、そのための力も経験もあるんだろ?……だからさ、それ全部使ってもう一回コートに立ってみればいいじゃん。コートの外から試合を編み上げてさ」
海堂を捉えた火野は、ニッと笑う。
「コートの外で、もう一回。鬼才再びここにありって、日本中のバレー関係者に教えてやれよ。アナリストになってコートに帰ったらきっと、お前のこと知ってる奴ら全員ビビるぜ?」
心を覆っていた鈍色の濃い霧が晴れた。そんな気がした。考える暇もなく、身体が勝手に頷いた。
「……やってもいい。全国に行く手伝い」
「おう」
「でも、プレーヤーの努力があることが前提だ。ガンガン行くよ」
「おう。頼むわ」
「……全国は甘くない」
「知ってる」
重りが取れて、身軽になった気がした。
「練習場所って旧体育館だっけ」
「あ、今から行く?」
「うん。先輩と同級生の顔を見ておきたい。挨拶もいるでしょ」
「何だ、その辺ちゃんと出来るんじゃん」
「一応、体育会系の波に揉まれた経験はあるから」
教室に荷物取りに行こうぜ、と言った火野の横に並んで歩く。
灰色のプリーツスカートが歩調に合わせて揺れて、そこから醜い傷痕が覗いた。今はもうその傷痕は気にならない。重い枷だったはずのそれは、たった今、その役割を終えたのだ。これからは軽やかに歩いて行ける。
——こだわりに、サヨナラを告げたから。
その日の夜、海堂は両親が揃うのを待って一枚の紙を見せた。
「お父さん、お母さん。部活やりたいです。サインください」
リビングのテーブルに置かれた入部届には「男子バレーボール部」と書いてある。それを見た両親は驚いた。
「別にいいけど、……大丈夫なのかい?」
父のメガネの奥の目が心配そうに海堂を見た。これまでのことを考えればそれは当たり前だろう。
「うん。やっと全部吹っ切れたよ。長い間心配させてごめん」
それでもためらう父の横から母の腕が伸びてあっという間にサインした。
「これでいいのね?」
「……ありがとう。じゃあもう寝る。明日も学校あるから」
「はい、おやすみ。ああ、お母さんは明日帰りが遅いから、いつも通り吟介の言うことちゃんと聞きなさいよ」
「分かった」
「父さんは明日からアマゾンだけど、何か見たい虫があったら連絡してね。そしたら動画撮って送るよ!あっ、そう!綺麗な蝶がいるんだ!ああ〜!捕って帰って来られたらいいのに!」
「虫はいいって……」
若干呆れ気味に返事をして階段を下りる。一回にある和室が海堂の部屋だ。布団を敷いて、入部届を鞄に入れる。学校指定のリュックの口を閉じて寝ようとしたとき、玄関の扉が開く音がする。
廊下に顔を出すと、ネクタイを緩めよとしている兄がいた。
「お帰り、兄さん」
「おう、ただいま。まだ寝てないのか?もう十一時半だぞ」
腕時計を見て渋い顔をした兄に軽く頷く。
「もう寝るよ。……ねえ、兄さん、やっぱり部活やることにした。男子バレー部で、アナリストやる」
靴を脱いでいた兄の動きが止まって海堂をじっと見た。
「今の私でも、それならコートに立てるから」
遠くに救急車のサイレンが聞こえる。
「……そうか」
「うん。お父さんとお母さんには話した」
「……お前が立ち直れたなら、兄さんは何だって応援する。自分の価値を自分で作ることはお前の得意技だ。そうだろう?」
そう言って雑に頭を撫でた兄は静かに階段を上って行く。その後ろ姿を見届けて部屋に戻り布団に潜る。目を閉じると、穏やかな眠気が全身を包んだ。
吟介が二階に上がると、両親がソファーに座っていた。
「ただいま」
吟介を見た父は軽く笑って言葉を繋ぐ。
「吟介、聖がね、またバレーやるってさ」
「うん、さっき聞いたよ」
良い顔してた。そう言うと、父のメガネの奥の目が満足そうに笑っている。
「やっと素の顔になったねって話を、二人でしてたんだ」
「……良かった、本当に」
あの日——もうバレーは出来ないと宣告された日——から、一年と少し。その間十歳離れた妹が苦しむ姿を見てきた。
もう、あの子が素の顔で笑える日は二度と来ないのかもしれない。そう思っていた。
だから。
「前の聖に戻れて、良かった……!」
我知らず、声が滲んだ。
この一年と少しの間、十歳離れた妹がずっと苦しんでいるのは知っていたのだ。それでも何もしてやれない自分が、何も教えてやれない自分が情けなくて仕方なかった。
どんな形でも誰でもいいから、あの自分に似て不器用な妹を救ってやって欲しかった。他力本願な願いだが、自分には何も出来なかったから。
(あの子は、きっとバレーに愛されてる。それだけは間違いない)
両親が寝室に姿を消した後、吟介は口元を手で覆って一人で大きく息を吸う。
よく日に焼けたその肌には、一筋の銀糸が伝っていた。
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