1章3話:こだわりにサヨナラを告げて


「凉、お前さっさと海堂に仕掛けろよ。化学の実験班被ってんじゃん。今日の六時間目はちょうど実験だし?」

「分かってるよ!」

 翌日の朝練の後、涼と火野が教室に向かう途中の会話である。四月も後半に入れば春は姿を消し、代わりに初夏が顔を覗かせる。丘の麓から正門まで続く道の脇に咲いていた桜の花は散り、青々とした若葉が力強く芽吹いていた。それに従い、徐々に気温が上がってくる。この時期になると大半の生徒が校内ではブレザーを脱いで過ごしていた。

「あ〜!もしかして〜、鈴懸クンは女の子に話しかけられないチキンなんですか〜?」

 にやにやと笑った火野の言葉に、色白な凉の端正な顔が歪む。

「は?バカにしてんの?」

「だってお前の兄弟って瑞貴さんしかいねぇんだろ?学校以外の場所で女子と話す機会なんてほぼないじゃん?」

「だからって話せない訳じゃないし。機会を狙ってるんだよ。実験班が同じだからって変なタイミングで話しかけたら失敗するだろ」

 頭使えよ、脳筋。凉の唇の片端を上げた笑顔を伴うセリフに火野は噛みつく。

「脳筋てなんですか、ボクのことバカにしてるんですか〜!」

「脳筋の意味も分からないの?低スペックな頭脳だね。一回修理に出してみたら?修理する意味もないかもしれないけど!」

「テメェ〜〜!」

 いつものふざけたやりとりの最中に伸びてきた二本の腕が、二人を引き離した。

「火野、神嶋さんにチクるよ?そしたら、お前は神嶋さんのミサイルサーブのレシーブ練習五百本くらいやらされるんじゃない?もちろん久我山さんつきで」

「だって竜也!コイツ超ムカつく!」

「まあまあ、落ち着けって」

 二人と同じバレー部の一年生、長谷川竜也である。温厚で冷静な彼はいつも周りを気にせずに罵り合う火野と凉のストッパー役を務めていた。

「凉も一回落ち着けば?怒るのってさ、時間の無駄じゃね?」

「……ヌマヌマが言うなら……」

「ヌマヌマって呼ぶな!俺は水沼!」

 同じく水沼潔。水沼水産という魚屋の息子で、大体弁当に魚料理が入っている。ストッパー役の一人だが、どちらかと言えばいじられる側だ。ヌマヌマという愛称を付けたのはセッターの野島である。

『水沼って名字なんだ。だったら、あだ名はヌマヌマにしよう』

 という訳の分からない一言で決まり、一年生にはヌマヌマと呼ばれてしまっている。

 火野和樹、鈴懸凉、長谷川竜也、水沼潔、ここにあともう一人の高尾一静を足した五人が北雷高校男子バレーボール部の一年生だ。二年生は全員で七人。新入部員がたった五人でも二年生は人が増えたと喜んだ。部員数の少なさゆえに縦の繋がりが強い。上級生にこの二週間ほどさんざん可愛がられた一年生たちは、すっかり手懐けられてしまっていた。

「それにほら、めちゃくちゃ目立ってるから止めようぜ。俺は目立つの嫌いだから大騒ぎしてる奴らとつるむの恥ずかしい」

 高尾の大変冷静な一言に、火野と凉は「しまった」と言わんばかりの顔をした。この五人はいずれも百八十センチ近い長身を誇る。火野に至っては一八六センチという身長で、その場にいるだけで目立つというのに声を張り上げれば尚更目立つ。あまり気にはしていないが、少し恥ずかしいのが本音だ。廊下で大騒ぎした決まり悪さも相まって、彼らはそそくさとそれぞれの教室に散った。


 高校生は思っていたよりも暇だ。原因は部活に入っていないことだと分かっているが、海堂はその事実から目を背けるように毎日を浪費していた。

(浪費、はしてないか……)

 浪費という表現を自分の中で訂正し、海堂はボンヤリと窓の外を眺める。教師の解説とともにチョークが黒板に擦り付けられる乾いた音が耳に入ってきた。高台にある校舎からの眺めは良い。加えて一年生の教室は最上階の四階にあるので、それは尚更だった。

 中学生の自分が今の自分の姿を見たならば怒り狂っただろう。だが、自分のこの身体はもう大抵のスポーツが出来なくなってしまったのだ。いくら自分に運動したいという意思があったところでこのボロボロの身体は応えてくれない。それでも、もう一度コートに立ちたいと思ってしまう。現実を見ていないことは自分が一番分かっているのに。

「それでは資料集三十八ページを開いて!」

 教師の指示とともにページをめくる音が教室のあちこちから聞こえる。

「この内容に関して、隣の人と話し合ってください」

 隣の人……、と思って見てみると、そこには無表情な凉がいた。

(……鈴懸凉)

 体育のときのバレーの動きを見た限りでは下手ではない。普段誰かと一緒に騒ぐ姿はあまり見かけないが、最近は火野と一緒にいることが多い気がする。

「ねえ、めんどくさくない?」

 いきなり話しかけられて海堂はビクっとした。

「……そうだね」

「っていうわけで違う話をしようよ。高床倉庫が高床になっている意味くらい、中学生でも分かるでしょ」

 違う話ってなんだよ、そう思った海堂だがそれを顔には出さない。

「あ、そうだ、この間はプリント届けてくれてありがとう。助かったよ」

「別に、頼まれただけだから」

「それとボール拾ってくれてありがとう。ボール一個でも大事だから」

「……あの背の高い人、コントロール下手すぎない?」

 ふと思ったことを聞いてみると、凉は軽く笑った。笑うと普段の冷たい雰囲気が無くなって印象が変わる。

「あのときはわざと。普段はアウトぎりぎりのコースを狙ってくるくらいのテクニックはあるよ、神嶋さんは」

「けっこう身長が高いよね、その人」

「確か一九六センチくらいじゃなかったかな。ウチで一番身長が高い」

 近くのペアも話し終わったらしく、雑談が混ざって聞こえる。どこも出身中学や部活の話をしているが、ここほどテンションは低くない。

「打点が高いのはうらやましいな」

 思わず自分の本音がもれて、海堂はハッとする。

「へえ、そうなの?」

「……どうせ、私のことは火野から聞いてるんでしょ?火野は声がデカいから鈴懸が小さく普通の声で話してても、会話の内容は全部聞こえる」

「……あの脳筋」

 小さく悪口を言ってから、今日の部活の紅白戦でサーブとスパイクで徹底的に狙ってやると決めた。

「ついでに言うと、先輩も海堂のこと知ってた。幼馴染みが走水中学の女子バレー部にいたんだって。めちゃくちゃ詳しかったよ」

「……近くの中学に通ってた人ならいてもおかしくない。ただ女バレが無いからここにしたってだけだし。ここらのバレーやってた女子にはきっと、名前くらい知られてる。女バレのあるとこになんて行ったら、何かやらされるに決まってると思って」

 それを聞いて凉は内心舌打ちする。

(警戒心無さそうに見せかけて、バッチリ警戒してるじゃん……)

「でもさ、暇そうだよね」

 鎌をかけてみる。中学の頃に毎日死ぬほど部活をやっていたならば、今の生活は退屈だろう。少なくともそう思っているはずだ。

「中学の生活に比べたらすごく暇なんじゃない?部活入らないの?」

「結局、スポーツは出来ないから」

「……ねえ、関節の変形は突き指のせい?」

 海堂の細く長い指は関節が変形している。繰り返す突き指で変形するのは珍しい話ではない。凉の指も変形している部分がある。神嶋もいくつかそういう状態になっている指があったはずだ。

「……で、本題は?」

 いきなり別人かと思うような冷たい声が教室のタイルの床に落ちた。海堂の白目がちな目は凉をがっちり捉えて逃がさない。

「何のこと?」

「だから火野との会話は聞こえやすいんだってば。朝に廊下で大騒ぎしてたよね。私にそれが聞こえないと思ってた?廊下で百八十センチオーバーの奴らが集まってギャーギャー喚いて目立って仕方ない」

 さっきまでの大人しそうな様子はどこへやら、凉の首筋に刃物を這わせるような冷たさと静かな炎のような激情を含んだ声に変わっている。

「本題に入らずグルグルと似たようなことばっかり繰り返し言いやがって」

 口調も荒々しいものに変わり、触れたら怪我をするガラスの破片ような尖り具合に凉は思わず怯む。

「で?言いたいことは?説明を今すぐに、簡潔に済ませろ」

 まるで自分のほうが優位なのだと言わんばかりの高圧的な態度。いつの間にか脚を組んでいて、余計に高圧的に見える。長い指の先は苛立ちを表すように忙しなく机を叩いていた。

「……ウチのアナリストやってもらえないかって話をしたかった」

 その苛立ちの気配に屈してそう言えば、海堂の眉は歪み眉間にシワが刻まれる。

「は?アナリスト?」

 何も答えずに海堂はしばらく黙ったあとに酷薄な笑みを浮かべた。

「私のこと何だと思ってんだ。今更アナリスト?外で見てろってか?冗談じゃないな」

 切れ長の目に宿った怒りは狂気にすら見える。それがつうっと凉の背中を撫でたような気がして、思わずぞっとした。

「鬼才はコートにいるから鬼才だった。それに他のことやらせようとか、バカにしてるにもほどがあるんじゃないの?」

 海堂は黒板に向かって向き直る。声をかけるなと言わんばかりのその姿に凉は何も出来ず、火野のほうを向いて静かに首を横に振って見せた。


 昼休み開始のチャイムが鳴ってから、凉は弁当箱を掴んで火野の席に行った。

「火野、川村さんのとこ行くぞ。海堂を引き込むのに失敗したからその報告をしに行く。暇だろ?ついてこいよ」

「お、おお、分かった」

 教室から出て二年生のフロアである三階に向かう。

「……あいつやばい。怖すぎる。無理だ」

「え?」

 階段を降りていく凉の顔は恐怖に強張っていた。

「バレーの話は逆鱗だったみたいだ。攻撃的なのが剥き出しでびっくりした」

「オレが話したときは平気だったのに?」

「多分だけど、アナリストっていうのがダメだったのかも。見てるだけとか意味分からんて言われた」

 足早に二年四組に向かう。川村を探していると後ろから背中を叩かれた。副主将の能登が二人の真後ろにいた。それぞれ挨拶をすると能登も笑ってそれに返す。

「川村さんて今日来てます?」

「おお、来てるよ。あ、でも六組かな。昼休みは大体野島と一緒にいるから」

「六組ですか。ありがとうございます」

「どうしたの?朱臣に用とか珍しいじゃん」

「海堂の件について報告しに来ました」

「あ、その話?なら他の一年も呼んで来い。二年はおれが呼ぶから、その後に食堂集合」

「うす!」

 能登の指示を受けて二人はもう一度階段まで戻り、一段飛ばしで階段を上がった。


「で?ダメだったってこと?」

 昼休みの騒がしい食堂に部員全員が集まると、ほとんど全員百八十センチを越えているので目立って仕方がない。

「どんな具合にダメだった?」

「キレられました」

「おお……」

 凉の言葉に川村はそんな返事をして箸を下ろした。

「なんでキレられた?」

「私にアナリストやらせるとは良い度胸してんなテメエこの野郎。みたいな……」

「あ〜……、なるほど」

「プライド高くて面倒ですね」

 それを聞いた火野が否定するように割って入る。

「それ、多分違う」

「どうしてそう思う?」

 火野の斜め前にいる神嶋がその断言するような口調に疑問を覚えてそう質問した。

「アイツ、いつも辛そうな顔してるんですよ。凉と話してたときもそんな顔してて、ふと思ったんです。コイツはもしかしたら、自分がもうプレイヤーにはなれないって事実を受け止めきれてないのかなって。それって、プライドとかじゃなくて単にプレイヤーそのものへの執着じゃないですか?」

 一瞬その場が静まり返る。火野は不思議そうに周りを見た。

「……火野が、頭良さそうなこと言ってる」

「大丈夫?具合悪い?」

 それに大声で抗議する火野を苦笑いしながら川村が黙らせる。

「ごめんって。で?どうしてそう思った?」

「アナリストになるってことが、多分自分が出来なくなったことを認めることになるからだと思うんです。海堂は、怖いのかも」

「……よく周りが見えてんな、火野は」

 感心したような能登の言葉に火野はへらへら笑う。

「それで言うと、ハッシーもそうだよネ」

 それまで黙っていた野島がそう言って繋げたテーブルの一番端に座っている人物に目線を向ける。

「……お前らみたいに騒いでないと、周りが見えるだけだ」

「はいはい、ごめんネ!」

 うるさい、とだけ言って弁当箱を片付ける箸山に野島は軽く笑ってから火野を見た。

「こっちの要求はバレたからサ、小賢しいことは止めてストレートに行こう。こっちの要求と理由を説明して、それで納得してくれないかな」

「ええ⁈マジで言ってんの⁈」

「だって火野の言うことがマジなら、本人が認めたら入ってくれるかもヨ?」

「どこからその自信は来るんだよ……」

 半ば呆れたような川村の言葉に野島はケタケタ笑った。

「スポーツって楽しいことばっかじゃない。でも、それを知ってて海堂は努力した。苦しさも辛さも味わった上で。てことはサ、絶対バレー大好きなバレー馬鹿じゃん。前とは違う形でもバレーが出来るって理解したら、入ってくれるかも」

 テーピングの施された指を絡ませて遊びながら野島がそう言うと、諦めたように川村は首を振る。

「神嶋、ミコトがこの顔で言い出すと絶対止めねえぞ。こう見えて、意外と頑固だから」

 それを聞いて神嶋は少し考え込んでから火野を見た。

「火野、何とか出来るか?お前が言ってたこと、言ってみてくれ」

「じゃあ頑張ります。部活に遅れてもいいっすか?」

「かまわん」

「火野和樹は頑張ります」

 なんだそりゃ、と笑った能登に続いて野島と川村が笑い出して、彼らのいるスペースはひとしきり食堂の中でも一番騒がしくなったのであった。

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