21
喬志たちはスーリニに残り続けた。
あれから十日が過ぎていた。
その間、どれほど待ち望み、願い、必死で新聞記事を探しても、『マナーフの館で犬の目玉が爆発』というニュースは何を見ても、誰に聞いても見つからなかった。
喬志はジョイントをふかしながら、壁を睨んでいた。
坂井は部屋で洗濯物を干していた。
「パスポートとか飛行機のチケットとか、身の回りのものを焼いてたそうですよ」
坂井が話しかけてきた。
「ふうん」
「一人であの人、ここに来たじゃないですか。ここではほとんど一緒に行動しなかったのも全部、ぼくらのためだったんでしょうね。騒ぎに巻きこまれないための、その、なんて言うか……」
洗ったTシャツを手に持ったまま、坂井は言葉に詰まり考えこんだ。
「――思いやり」
「そうそう、それですよ。気配りっていうか、そういうことだったんじゃないですかね」
「ふーん」
「なんか、気のない返事ですね。どうかしたんですか」
坂井は洗濯物を干す作業を続けている。
喬志はジョイントをふかしながら、坂井を見つめた。
「どうもしなかったから、何も起こらなかったから、納得いってないんだよ。さっきから聞いていれば、何が思いやりだ、何が気配りだ、くそくらえ」
「そんなにすねても仕方ないですよ」
坂井は作業の手を止めない。
「それに話はまだ終わってないんです」
「何の」
「さっきの話はまだ続くんですよ」
「だから何の話だ」
「忠海さんの話です」
洗った洗濯物を干し終え、喬志のベッドに腰掛ける。古いスプリングが悲鳴をあげた。
「聞きたいでしょう?」
坂井は喬志の顔をのぞきこんだ。
「奈津は?」
「隣のイギリス人の夫婦に遊んでもらってますよ。それより話を聞きたくないんですか」
「………………」
「昨日の新聞に載っていたんです。本当は昨夜話すつもりだったんですが、昨日は一日中浸ってたじゃないですか」
「良いスピードが手に入ったから試していただけだ」
「――身体壊しますよ」
「どうでもいい。続けろよ」
坂井は尻のポケットから切り抜きを取り出した。
「十日前の午後、共同墓地の管理人が倒れていたのが発見されました。運良く通りかかった人に発見されて、すぐに救急車で病院に運ばれ命はとりとめました。面会もできない状況が続いていたんですが、一昨日、意識が戻ったそうです。管理人は騒がしいことが苦手で祭りには行かず、墓地の近くの小屋で寝ていた。そうしたら朝方、墓地から何か物音が聞こえてきたんだそうです。気になって外に出たところ、苦しくなって意識が薄れ、気がついたらベッドの上にいた、そういう記事が載っていました」
坂井が記事を握りしめた。
「ペットの墓地だったそうです。西洋の風習を真似る金持ちの道楽だと非難されているらしいんですが、とにかくそこを警察が調べたところ、非常に精巧な時限式の爆弾の部品が見つかり、青酸ガスの痕跡が残っていたそうです。この町の金持ち連中はこぞってそこにペットを葬っていて、先代のフィーの亡骸も埋葬されていました」
「――先代?」
「ええ。今のフィーは二代目だそうです。フィーの
喬志は墓の中で膨れ上がる目玉を想像した。眼球は溶け、爆弾がむき出しになっていたのだろうか。
忠海が義眼だと言っていたのを思い出す。
だとすれば、肉は溶けてしまい、地中の微生物に分解され、骨だけが残っている墓の底で、生きているような目玉がひとつ転がっていたのか。
そして、その目玉のために、忠海は死んでしまった。
「とんだ、どんでん返しってわけだ」
喬志は乾いた声で笑った。
「ぼくは今日からまた洗濯を毎朝することにしました。とりあえず気持ちに決着がついたような気もしますし」
「どうして」
「あれは幸せな結末だった。少なくとも忠海さんにとっては。……そう思いたいんです。忠海さんが行かなければ、奈津はしゃべらなかったでしょうし。とにかく無駄なんかじゃないと思うんですよ、ぼくは」
坂井が立ち上がる。
「忠海さんは死んでからも尻尾を離さなかったんです」
「尻尾ってなんだ」
「フィーの尻尾ですよ。医者がメスで指を切り裂いて、ようやく尻尾を外せたそうです。忠海さんは、だから、フィーを離したと思わずに死んだんです」
「――――――」
「奈津と食事に行ってきます」
少し照れたように笑い、坂井が部屋を出て行った。
初めてサミアに出会った日に、彼女が犬をジュニアと呼んでいたのを思い出した。だから、その後の言葉、フィーは名前ではないと思ったのだ。
そのことに気づいていれば、忠海は死ななかった。
いや、人はいつか死ぬものだ。だとしたら、あの死は坂井のいうように忠海にとっては幸せな死だったのか。
あのまま生き残れば、払えないツケを背負い続けただろう。忠海は抱えていたツケを清算するために生よりも死を選択した。
一人で部屋に残り、喬志は坂井の言葉を考えるともなく思い返す。ある意味ではそれが正しいのだと思えた。もっともそれで苦しみが消えてゆくものでもない。坂井のように前に進むのは不可能に思えた。
それまでの自分と違い、生きてみようという喬志の心変わりも、坂井の明るい生に比べればエネルギッシュなものがまるで欠けていたからかもしれない。坂井のように無駄ではないと言い切る力強さは、喬志にはないものだった。のろのろとタバコに手を伸ばした。昨日詰めた、葉っぱ入りのタバコだ。手に持って少し考え、真っ二つに折る。
もう忠海にタバコを抜き取られることもない。
忠海は満足して死んだかもしれない。それはそうだが、喬志はどうしても置いていかれた気がしてならない。
勝手すぎる。
忠海も、忍と一緒だ。
勝手に死んでいった。喬志はまた息残った。それが辛かった。
細い糸が絡まり、もつれ、二人はその方向に進んだ。どんなに小さなピースも全体を形作るひとつとなるジグソーパズルのように、ほんのささいな出来事も、大きな事実への動きを内包していた。
もしカーリーが手紙を書かなければ。もしフィーが死んでいるのに気づいていれば。そんな仮定の言葉が入りこむような隙間はどこにもない。どんな感傷も、どんな義憤も、受け入れない事実がそこにある。起きてしまった以上、喬志が何をしようと、どう叫ぼうと、それは変わらない。
事実を言葉にできない瞬間がある。安易に言葉にして安心するのが許しがたい逃げになる事実がある。そして、それは時間に風化せず、セピアに色あせずに、いつも喬志のそばにある。悲しみは胸に残り続ける。前向きにとらえることも、忘れ去ることもできない。
許すことも、肯定することもできない。
ただ痛みだけが残る。
太陽を直視したように、事実を見た瞬間に網膜は燃え上がり、焦げてしまう。苦痛と暗闇の世界に閉ざされ、光は永遠に失われる。
けれど、たとえ痛みしか残らなくても、それはすでに自分の一部なのだ。切り離すことなどできない大切な一部だ。
忠海の笑顔が浮かんだ。
忍の笑顔も浮かんできた。
二人の笑顔は喬志に力を与えてくれるようだった。置いて行かれても思い出は残る。だとしたら忘れられないのは、それほど悪くないのかもしれない。
いつの時代も、どんな場所でも、それがどれほど愛した相手であっても、出会った瞬間から別れのカウントダウンは始まる。
人は死ぬ。
いつか、どちらかが必ず別れを噛みしめることになる。
人は死に、別れは来る。それが自分とは違う人間であるかぎり。
それでも、だからこそ、人は誰かを求め、胸に残された思い出を忘れないのだ。
どれほど記憶に苦しめられようと、たとえ辛くても、共に過ごした時間を消すことなどできないのだ。
時に侵食されようとも、決して忘れない。
(じゃあな)
二人の死で味わった苦しみを。
(頼むからぼくの話を聞いて)
置いて行かれた寂しさを。
(忠海さんは、だから、フィーを離したとは思わずに死んだんです)
二人が喬志に与えてくれた喜びを。
(このままどこか別の土地に行って、その人と二人で暮らしたい)
それらの記憶は、喬志が生きている限り消えることはないのだ。
たとえ心を切り裂くものだったとしても、それなしでは生きることのかなわない、想いなのだ。
それが喬志にもはっきりと判った。
死んでいったものにかける言葉を、やはり喬志は思いつけない。
死者は何も語りはしない。死者は何も感じない。騒がしいのはいつだって、生きているものたちだ。
だから喬志にできるのは、忘れないことだけだ。それが死者に捧げられる唯一の花だった。
忘れないこと。目を逸らさないこと。
網膜を焦がしてしまった喬志にできるのは、それだけだ。
そして、たぶんそれだけが、喬志の生きる意味だった。
喬志が生き続ける限り、忍の、忠海の、悲しみと喜びは、想いは、残るのだ。
時が過ぎ、やがて喬志も死ぬだろう。けれど喬志の想いもまた、誰かの心に残るはずだ。忍や忠海の想いと共に留まり続けるのだ。決して途切れることなく続く、永遠の歌のように、連なり、繋がり、どこまでも、どこまでも、無限に続く。歌を人は忘れない。だからきっと人は歌になるのだ。歌となって誰かの心でいつまでもその声を響かせる。
そして、それが、それだけが、生に意味を与え、焦げた網膜に差す唯一の光であるのを、喬志は知った。
すべての闇を照らす圧倒的な光の中に、喬志は包まれていた。
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