16
「ここからはよく見えんな」
忠海が東を指さした。その方向に汚いホテルが見えた。
「あのホテルにいたんだ。屋上に登れる。行こう」
喬志たちに有無をいわさず歩き出した。
忠海の背中を追った。
ひしめいている人々の流れに逆らい十分ほど歩くと、広場の外に出た。
あちこちに揚げ物を包んでいた紙や、果物の皮が捨ててあった。ジュースを盛大にこぼした跡があり、仮想につかったらしい派手なカツラが転がっている。
牛たちはようやく静かになった町で、建物の陰に座りこんで眠りにつこうとしていた。
無人の道路を横切りホテルに向かう。忠海が表のドアを開け、誰もいないロビーに入り、狭く急な階段を登る。
屋上からは池の周囲がよく見えた。山車の周りを人が埋めつくし、広場に入れないものたちの長い列が伸びている。
広場は沈黙に包まれていた。
灰色の袈裟をつけた詩う者が山車から降り、浅い、人工的に作られた池に足を踏み入れた。サミアは犬を抱いたまま山車の頂上に座っている。そのそばには誰もいなかった。マナーフも下に降りているようだ。
東の山の端にウシャスはまだその姿を見せていなかった。
「広場からそんなに離れてはいないんですね」
喬志と同じように手すりにもたれ、広場を眺めながら坂井が言った。
歌が風に乗って流れてきた。坂井のいうように広場に近い場所にあり、周囲の音が消えているため、歌声が鮮明に聴こえる。詩う者たちは池に半円を描いて立ち、両手を広げている。ウシャスを讃える歌が始まっていた。
終わったなと喬志は思った。
忠海は結局、動かなかった。このままサミアは死ぬのだ。忠海はそれを望んだ。選んだのだ。
沈黙が落ちた。
「フィーを奪いに行く」
不意に、静かな声で忠海が言った。
振り向いた。
「だからここでさよならだ。黙って行こうとも思ったんだが」
「何で」
忠海の声をさえぎるように、坂井が叫んだ。
「何を言ってるんです」
「十六で死ぬのはかわいそうだからだ。色々心配してもらっておいて、すまんけどな。許してくれ」
そう言うと、忠海は背中を向け、ドアに向かおうとした。
「ちょっと待てよ」
喬志は怒鳴り、肩をつかむ。
「そんなの判ってただろう。なんで今さら」
忠海が喬志の目を見つめた。それから坂井に目を向け、奈津を見た。
「――判っているつもりだった。決着がつく、そう思おうとしていた。けどな」
ゆっくりと喬志の手を引きはがす。
「けど、あの娘が犬を抱いているのを見たときに思ったんだ。……違うことに気がついた。もっと早く判っていればよかったんだが」
「もう遅い」
「まだ間に合うさ」
忠海の声は静かだった。死のように。
「遅すぎはしない」
喬志は回り込み、ドアの前に立った。
「ふざけるなよ」
ナイフを出し、刃を引き出す。
「行かすわけねえだろ」
「怪我人はどいてろ」
冷たく笑い、無造作に忠海が一歩ふみこんだ。
その脛に蹴りをぶちこんだ。連続してナイフで突く。
蹴りは足裏で受け止められた。ナイフは届かなかった。忠海のリーチの長い太い腕が突き出され、喬志は吹っ飛んだ。倒れたところを蹴られ、息が詰まる。
喬志が起きようとしたとき、坂井が頭から突っ込んでいくのが見えた。後ろから組みついた。忠海は脇に坂井の頭を抱え込むと、巻きこむようにして投げた。鮮やかな首投げだった。忠海の体重をかけられて落ちた坂井は動かなくなった。
喬志は拳を地面につけ、膝をつき、立ち上がろうとした。顔に蹴りが飛んできた。肩で受けた。続けざまに胸に蹴りをぶちこまれ、まともに受けた。
「無理をするな」
また忠海の足音が遠ざかってゆく。
その時、高い声が聞こえた。
「行っちゃだめ」
声の方向に首をひねった。
奈津が顔を真っ赤にして、拳を握って震えていた。
叫んでいたのは奈津だった。
「行かないで」
奈津は泣いていた。
「行かないで。行かないで。お願い。行かないで」
奈津が忠海にかけよった。忠海の足にしがみつく。
忠海が奈津の頬を叩いた。
奈津が倒れた。手に持っていた笛が落ちて、乾いた音をたてる。
忠海が、数瞬、笛に目をやった。
「行かないでよ」
奈津は倒れたまま、泣きつづけた。
忠海は奈津を置き去りにして、ドアに向かっている。
くそ。
ドアの開く音がした。
動け。
身体に命じた。
動け。
くそ。くそ。
「くそったれが」
吠えた。一気に立ち上がった。
忠海の後ろ姿に向けて怒鳴った。
「待てよ。あんた、何様のつもりだよ」
腹に力をこめる。
「ふざけんな」
忠海が戻ってきた。
拳がもう一度うなりを上げる音がした。衝撃があった。また倒れた。
息が苦しい。
もう一度立ち上がった。
「――頼むよ。行かないでくれ」
忠海の目を見る。
すがるような思いだった。
そんなことを望んでいたのではない。
「死んで欲しくないんだ。頼むから行かないでくれ」
判って欲しかった。どうしても。
「マナーフを幸せにして、それであんたが死ぬのかよ」
夢中で叫んだ。
忠海が目を閉じた。大きく息を吸った。
拳でまた吹っ飛ばされた。
立ち上がった。
腕一本、動かせない。それでも立つことはできる。
「じゃあな」
忠海が囁いた。訣別の言葉だった。唇が笑みの形に曲げられた。それからまた殴られた。
ドアの閉じる音がした。
喬志には、もう立ち上がる力もなかった。
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