15

 広場にはかがり火が焚かれはじめた。小皿に油と芯をつけた灯明を持つものも増えはじめている。辺りは暗くなりはじめていた。

 かがり火で頭の欠けた銅像が闇に浮かび上がって見える。

 奈津と喬志はその足元に座っていた。大きな銅像だった。十メートルほどの高さがある。かなり頑丈そうだ。頭のない銅像は、ガネスや忍や、顔も思い出せないような死体の数々を思い起こさせる。それは炎に照らされ、悪夢への案内人のように見えた。

 坂井がサモサとミネラルウォーターを持って歩いてくる。

 揚げたてのサモサを食べた。小麦粉で作った皮にじゃがいもを詰めて揚げたスナックだ。スパイスが効いて、いい味をだしていた。

 仕事をしていたものたちも、他のものに合流したようだった。

 シヴァ神の扮装をしていた男が顔の化粧を落としていた。汗で流れてしまったのだろう。

 あちこちが破れてしまった段ボールを子供が引きずっている。

 ほかのどの衣装も汗と埃で汚れていた。黒のドレスも、豪華なサリーも、女装した男のミニスカートも、ハマヌーンやガネーシュの面も、インドラもアグニもヴィシュヌも、それがどんな高貴な神の衣装であっても、それがどれほど高価なドレスであっても、流れた汗でぐっしょり濡れ、土埃を吸いこみ、果物の汁や揚げ物の油が染みになり、ティカに用いる赤い絵具が飛び散り、どれもこれもたった一日でそうとうにくたびれて見えた。

 けれど幸いなことに辺りは暗くなっていた。薄汚れた衣服も、かがり火の明かりに照らされると、その陰影が不思議なほど魅力的に見えた。そして、外見とは裏腹に、歓声と音楽とはますます大きなものになっていた。男も女も、まるで夜に鼓動は激しくなり、本能がむき出しになり、本来、人間は夜行性の動物であるかのように血をたかぶらせているようだった。

 涼しい風が吹きはじめる。

 少し長めの芝がそよぎ、波のようだった。

 空がどんどん透明になっていき、星が瞬きはじめた。

 広場の中央で太鼓の音が響いた。澄んだ笛の音が、滑るように夜気に流れる。かがり火を集めた即席のステージで演芸が始まったのだ。大勢の見物客が輪になっている。

 太鼓と笛は単純なメロディーを執拗に繰り返した。周囲の見物人が音楽にあわせ手拍子を叩きはじめた。その場にいたほとんどの人間が手拍子を打つと、音楽はほんのわずかに速度をあげた。手b奉仕もそれにつれ、早く、大きくなってゆく。

「ハアッ」

 太鼓の男が声をあげた。

「ハッ」

「ハッ」

「ハッ」

 かけ声もまた、早く、強くなる。

 音楽が沸騰する直前に、一人の女が座の中央に躍り出た。優雅に手を一閃させると音がやんだ。

「こないですね」

 音楽が消えるのを知っていたかのようなタイミングで、ぽつりと坂井がつぶやいた。

「ああ」

 ステージでは音のない鋭い緊張感に満ちた場所で、女が首を真っすぐに伸ばし、足裏で大地をつかみ、見事な姿勢で立っていた。周りの人間が一人も目に入っていないように、表情ひとつ変えない。実際周囲の人間はいないも同然だった。女に気おされたように、音ひとつたてず、誰も動かなかった。

 ぴゅううぃ

 一人の少年が耐えかねたように指笛を吹いた。その音がした途端に、女がゆっくりと動き出した。再び笛と太鼓が低く小さな音を立てた。

 緊張感の抜けた人々の声や物音がするたびに、女と笛と太鼓は鋭さを増した。

 やがて手拍子とかけ声が戻ってきた。

 そのテンポが上がると踊りと音はすぐさま追いつき、追い越した。手拍子とかけ声のテンポもそれにあわせて早くなる。踊りと音はさらに加速する。

 ゆるやかな曲線を描くように、観客と芸人との掛け合いは、速度の頂点で完全に一致した。

 女の手が凄い早さで宙を切る。伸びあがり、肩を入れ、首を伸ばす。腰がぴんと伸び、指先に緊張が漲る。

 太鼓が腹を底から揺さぶり、笛が喉を絞めつけた。

 音が胸の奥に入ってくるようだった。

 喬志は目をきつく閉じた。

 広場に忠海はいなかった。

 時間をかけて探したが見つからなかった。

 どれほどの時間が過ぎたのだろうか。銅像の前に座りこみ、ずっと忠海を待っていた。

 待ち続けても忠海は姿を見せなかった。ウシャス祭は順調に進行している。

 忠海はここに来なければいいんだと喬志は思った。

 来てもいいことなんてありはしない。何も良いことは起きない。逃げればいい。話ならあとで聞いてやる。だから来ないでくれ。来るな。

 来るな。

 音が心をかき乱す。

 死はいつも喬志の近くにいた。常にそばにあった。使い慣れたライターみたいに、血の気の失せた、白と紫の斑になった死体の皮膚は、喬志が長い間なじんでいたものだった。

 昨日までは。

 あれから死のヴェールは剥ぎ取られ、どこかへ消えていた。自分は変わってしまったのだ。死は遠くなってしまった。

 だから、だろうか。

 だから、こんなに胸が騒ぐのか。

 だから、手が震えるのか。

(また、月の明るい夜が来たら)

 音が心に沁みるのか。考えがまとまらないのか。見届けようと決めたのに、来ないで欲しい、来るなと思うのだろうか。

(あんたの話を聞かせてくれ)

 できることなどないのに、力にはなれないのに、重荷を取り除けはしないのに、なんとかしたいと思うのだろうか。

「ここにいたのか」

 後ろで声がした。

「忠海さん」

 喬志は前を見ていた。女はトランス状態に陥ったように踊り続けている。客も疲れをみせず、手を叩いていた。

「待たせたかな」

「待ってたんじゃない。音を聞いてたんだ」

 喬志は振り向いた。

 忠海の顔は晴々としていた。奈津がその胸に飛びこんだ。

 ひときわ大きな歓声が遠くであがった。銅像からかなり離れた小さな池のある方向に、山車が見えてきた。屈強な男たちがロープを肩にかけ、身体中の筋肉を瘤のように膨らませ、山車を引いている。

 踊りと、音楽と、手拍子とが山車を迎えた。喧騒に満ちた広場をゆっくりと、少しずつ山車が進む。周りを囲むように町中の人間が歩いてくる。

「来たか」

 忠海が言った。胸に迫るような感慨深い声だった。

 空は、少しずつ明るくなりはじめていた。

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