12
暑かった。
気がつくと喬志はカーリーの身体にもたれかかっていた。意識が少しずつはっきりしてくる。
死ななかった。そう思った。
カーリーの顔を見た。酷いありさまだった。
唇は割れ、額も裂けている。耳がちぎれかかっていた。顔が原形を留めていない。
喬志は顔に触れ、自分も同じような顔になっているのを確認した。新しい教訓が頭に浮かんだ。PCPをキメて殴り合いなんかするもんじゃない。
何度も起き上がろうとしたことを思い出した。部屋には日がさしている。どれほどの時間が過ぎたのか、喬志には判らない。
立ち上がると目眩がした。
足元で、カーリーが低くうめく。
一歩、前へ踏み出した。
ドアを見た。地平線よりも遠くにあるようだ。
視線を下げて、爪先を見た。一歩踏み出す。そのことに全力をふりしぼる。
それを続ける。
「今日は何日だ」
カーリーの声だった。
「知らねえよ」
「どこへ行く気だ」
「帰るんだ」
ドアに近づいた。息が荒くなっていた。
ノブに手をかけ、何か言い忘れていたのに気づいた。
「おれは……」
おれは、何だ。何を言いたいんだ、おれは。
喬志は立ち尽くし、言葉を探した。長い時間が過ぎた。
「おれは忍に惚れていた。世界の何より、忍が大切だった」
深く、息をつく。
「ただ、それだけだ」
「ありふれた話だな。どこにでも転がっているような話だ。……そうだな、殴りあうほどの話じゃない」
カーリーの声は低く、小さかった。
「そうだな」
「二度とあんたに会わないことを祈るよ」
「同感だ」
喬志は部屋を後にした。
相変わらず太陽はモテる力をフルに稼働させ、気温の上昇に努めていた。濃く、短い自分の影を眺めながら、前に進む。
また目眩がした。喬志は立ち止まり、周囲を見回した。動いているのは赤と黒のサリーを着た子供たちだけだ。新品の服を着て外に出る子供の数は増えていた。待ちきれないような、膨らみ続ける期待につき動かされるように元気に走り回っている。
喬志は消えようとする気力をかきたてて足を動かす。
身体が重く、わずかな距離しか進めない。痛みはなかった。ただ開いた瞳孔に昼間の世界は明るすぎた。
最低の気分で、身体はぼろぼろで、世界は明るすぎ、カーリーも苦しんでいて、忠海は別れの挨拶もせずに消え、坂井も奈津も図書館に行っていて、忍には二度と会えない。
何もかも、本当に面白いほど思うようにいかない。
なぜ、死ななかったのか。
歩きながら考え続けた。
ドラッグを摂って、憎んでいた男と争ったのだ。おまけに意識はなかった。生きているのが不思議なのだ。
何より、死はいつでも喬志には馴染み深いものだった。多くの死体を処理するうちに、それは喬志に染みこんだ。顔も覚えてない、無数の死体を処理した。目玉をくり抜き、腕を切り落とした。死者の温度と皮膚の手触りの記憶は決して消えない。
そして、あの静けさ。
死者の言葉は、生きている者には判らない。死は生きている者の言葉では表すことができない。言葉などには決してできない、あの静けさ。
それを喬志は体験的に感じてきた。
死は喬志の皮膚にまとわりつき、薄いベールのように覆い、いつも身近にいた。生と死を分かつ境界線は絶えず喬志の手に触れてきた。
生きるよりも向こう側に倒れこむほうが簡単だったはずだ。そしてそれが似合ってもいた。
忍がカーリーの写真しか持ってなかったように、喬志も忍と死しか持っていなかったのだ。忍は詩へと旅立ち、手の中にあるのは、だから残っているのは、死だけだったはずだ。
約束は果たした。死者との約束は守った。
後に、何があるというのだろうか。
なぜ、生きているのか。
なぜ、足を前に踏み出すのか。
かちかち、かちかち、と音がした。歯がぶつかる音だ。喬志は歯の根も合わないくらい激しく震えていた。寒かった。太陽が照りつけ、陽炎さえ見えるのに、喬志は寒かった。冷たい汗が流れた。身体の奥底の方から震えが起こった。
それでも震えながら歩いた。曲がり角から走ってきた賢そうな感じの男の子が、不思議そうな目で喬志を見た。
その視線を振り払うように、傷だらけで震えながら、不器用に足を前に踏み出す。
不意に、自分の腹がなる音がした。
喬志は笑みを浮かべた。
笑わずにはいられなかった。
生きる本能とでも呼ぶべきものに驚いていた。
どれほど頭で、心で、絶望に浸っていても足は前に動く。悲しみの底にいても腹は減る。精神は限りなく死に近づいていても、身体は生きているのだ。
生きたいと願わなくても、生きている。消えたいと思っても、肉体は存在し続ける。
生きていられるのは、エンジェルダストのせいかもしれない。そう思った。ゾンビもどきの殴り合いになったのは、PCPのせいだった。しかし、今、こうして生きているのはPCPが喬志の頭を空っぽにしてくれたからかもしれない。頭がはっきりしていたら、死ぬことのほうがたやすかったはずだ。カーリーに会って殺されること、それが望みだったのかもしれなかった。今ではそれが判る。けれど結果は逆の目が出た。
喬志は死ななかった。
生きたい、そう望む自分もいるのを知った。
何かが変わろうとしていた。だったら、もう少し歩いてみてもいいだろう。
一歩、一歩、ホテルに近づく。そう思った瞬間、前から歩いてきた男にぶつかり喬志は転んだ。力がみるみる抜けた。まるで水の入った大きな瓶をひっくり返したような気分だった。
辺りが急速に暗くなってゆく。
「だめだな、こりゃ」
声がした。
顔をあげた。
丸太みたいな腕を組んだ体格のよい男が喬志を見下ろしていた。肉の壁が突然、姿を現したようだった。真っ黒に日焼けした身体に黄色い袈裟を纏っている。
肩に、ピンク色の傷痕があった。
頭には一本の毛もない。
忠海が面白がるような、後悔しているような、複雑な表情を浮かべてそこに立っている。
「起きろ」
引き起こしてもらい立ち上がると、血が足元に落ちていくような気がした。
「貧血起こしてるな。しょうがねえ」
喬志の腹と腰に手を当てると、一気に肩の上に持ち上げた。喬志は腹を支点にして担がれた。
「ちっと辛抱しな」
忠海が歩き出した。
「なあ、もしかして今日がウシャス祭なのか」
「そりゃ明日だよ。余計なことをしゃべるな、この馬鹿」
忠海は怒っているようだった。
坂井は喬志の顔と忠海を見て、目を丸くした。
喬志は床に降ろされるとそのまま倒れた。
忠海が医者を呼んできた。その間、坂井が傷口を拭いてくれた。医者は右手にギプスをはめ、額と頭の傷を手早く縫った。医者が怪我の原因について訊ねたが、しゃべらなかった。
「気にしなくても」
忠海が言った。
「この先生は怪我の理由を気にしない」
丸顔の太った医者は真っ白い歯を見せて笑い、部屋を出ていった。
「あの先生、昔からの知り合いでな。肩の手術もあの人にやってもらった」
「麻酔、使わなかったな、あの先生」
「いらなかったんだろう」
「ああ」
「おれが言ったんだよ。麻酔はいらないってな。その様子じゃ天然物のドラッグじゃないな。ケミカルだろう」
「PCP、エンジェルダスト」
忠海はでかい手で顔を覆った。
「馬鹿だなあ。相も変わらず」
「治療費はどうした」
「いい。いいから、とにかく寝ろ」
喬志がベッドに横たわり落ち着くのを待て、坂井が口火を切った。
「忠海さん、今までどこにいたんですか」
忠海は頭をかいた。その目に無数の細い血管が浮いている。わずか数日で頬の肉が落ちていた。
「すまん。急に用事ができてね」
「用事はすんだのか」
「お前はまだ寝てろ。口きくな。――用事はまだ終わっちゃいない」
「じゃあ、なんでまた会いに来たんだ」
「口をきくなと言ったろうが。それに会いに来たんじゃない。お前があんまり無様に転がっていたから放っておけなかった」
「余計なことをしやがる」
「しゃべるな。――まだ用事が残ってる。おれは帰るよ。あとは坂井、頼むな」
「娘さんが亡くなられたんですね」
忠海の言葉を無視して坂井が言った。
「六年前に爆弾で」
「娘。子供がいたのか」
喬志は身体を起こした。あまりに驚いたので、とても間の抜けた声になっていた。
忠海は硬い表情をしていた。
「なぜ――」
「すみません、調べたんです。図書館で六年前の新聞を見ました」
「そうか」
束の間、忠海は目を閉じた。ドアにもたれ、天井を見上げる。
「そうか……」
そのまま忠海は黙りこんだ。身体のどこかが痛むように顔をしかめる。
「何があったんですか。無理に聞きたくはないんです。けど、なんか変な予感がするんですよ。悪い予感が。だから……」
そう話す坂井の横を奈津が歩いた。忠海のそばまで行く。そして、忠海の手を握った。
すると忠海は泣きだした。声もあげず、目を見開いたまま、涙だけを流し続けた。奈津は不思議そうに忠海を見ていた。
坂井の顔に困惑が浮かんでいる。
「今年のウシャスに会ったよ、おれ」
どう声をかけたらよいのか判らず、目についた表紙を見て喬志が言った。
「サミアに会ったんだ」
「どこでですか?」
気の抜けたような声で坂井が聞いた。
「マナーフの屋敷の前だ。犬と遊んでた」
忠海が喬志を見た。目が丸くなっている。涙は流れ続けていた。
「それは黒い犬か」
「よく知ってるな」
「彼女はフィーって呼んでなかったか。その犬のことを」
「何?」
「フィー。犬の名前だ。彼女はそう呼んでなかったか、黒い犬を」
真剣な目だった。喬志は目を閉じて、あの時のことを思い浮かべた。
犬が喬志に向かって吠えた。少女はごめんなさいというような笑みを浮かべて頭を下げた。いや、その前だ。その前に彼女は叫んだ。
「――フィー。そう言ってた。あれ名前だったのか。何か、別の意味かと思ってたよ」
「あの娘はフィーが大好きなんだ。どこに行くときもフィーと一緒だった。六年前からずっと」
「なんでそんなに犬が気になるんだ」
忠海は身体をドアにそって滑らせ、座りこんだ。
喬志の声は忠海の耳に入っていないようだった。呆然とした表情のまま忠海は口を開いた。
「あの犬の右目は義眼なんだ」
「何だって」
「密閉された青酸ガスと小型の爆弾が仕込んである」
忠海の声は震えていた。
「明日のウシャス祭りの夜明けに爆発する」
奈津が忠海の肩をなでていた。まるで奈津は忠海を励まそうとしているように、喬志には思えた。
「何の、何を言ってるんですか。ぼくにはよく判りません」
坂井は混乱した声で言った。
「爆弾って、どういうことなんですか」
「新聞を読んだんだよな、坂井。――娘は、スーニーは十六歳で死んだんだ。おれの目の前で。駅に迎えに行ったんだ。妻のサンディと一緒に。同じ列車にマナーフが載っていた。そのせいか、人が大勢いた。今でもよく憶えてるよ。スーニーはカルカッタの学校に行ってた。頭が良かったんだ。会うのは二年ぶりだった。スーニーを見て思ったよ。今日はなんて良い日なんだろうなって。しばらく見ないうちにとてもきれいになってた。おれを見てとびきりの笑顔を浮かべた」
忠海の外見は、いつもと変わらないように見えた。淡々と話を続けている。ただ涙は流れていて、それは止まらず、絶え間なく忠海の頬を濡らし続けていた。
「……スーニーに近づこうとした。そして爆発だ。信じられるか。爆弾はサッカーボールに仕込まれていたんだ。それを足元に転がしてスイッチを入れた。あんな小さいもんが五人の人間を殺した。爆弾はマナーフを狙ったものだった。アラブ人のマナーフが力を持つことが、どうしても納得のいかないやつらの仕業だった。奴はドラッグの販売も一手に引き受けていたから、その怨みもがな。――駅は黒い煙がたちこめ、血の匂いがした。悲鳴があふれていた。そしておれは見ちまった。マナーフの手が、スーニーの身体に食いこんでいるのを。スーニーの身体が遮蔽物になってマナーフは生き延びた。偶然だ。あんなに短い時間に誰かを引き寄せて盾にできる人間はいない。単なる偶然にすぎない。それは判る。判ってる」
忠海の身体が一瞬、膨らんだように見えた。
「けど、おれはマナーフの手を見た。それは決して忘れることができなかった。爆弾を作った人間も許せなかった。だが、それよりも、おれにはマナーフの手がスーニーを殺したという誤った考えを捨てられなかった。サンディは娘の死に耐え切れなかったように衰弱して死んだ。おれにはどうしてもマナーフの手がおれのすべてをもぎ取ったように思えてしょうがなかった。サンディが死んで、おれはあの日の爆弾を作った人間を探し出した。ドゥルガーという名のテログループだった。おれはドゥルガーと一緒に行動しはじめた」
「どうしてそんなことを」
坂井の声は掠れていた。
「テログループもマナーフも殺してやりたかった。マナーフを殺す爆弾を作らせて、それからドゥルガーの連中を殺すつもりだった。けど、マナーフはなかなか殺せなかった。爆弾テロが起きて、マナーフは用心深くなっていた。マナーフは簡単に外に出てこなくなっていた。よっぽど懲りたんだろうな。だから直接狙うのは困難になっていた。……五年前のある日、爆弾を作った男――シャンティって男だ――が犬を連れてきた。真っ黒い、かわいらしい子犬だった。シャンティはおれへのプレゼントだと言った。『よく見てみろよ』ってシャンティは言った。『こいつはマナーフの娘のお気に入りだ。散歩の途中を狙ったんだ』と言った。おれにはなぜそれがプレゼントなのか判らなかった。だからそう訊ねた。『こいつの右目は義眼と入れ替えた。外見は普通の眼球に見えるが中身は爆弾だ。小さいからあまり火薬は仕込めなかったが、青酸ガスを発生するようになってる。水溶液を加熱して気化させ、それから爆発するんだ。大量の人間を殺すことはできない。けど、一人なら確実に殺せる。こいつはおれの趣味で作ったもんだ。あんたへのプレゼントのために。この義眼はけっこう繊細な動きをするし、耐久性も抜群なんだ。苦労したよ』。そう言ってシャンティは笑った。『それから、これが一番大事なんだが、こいつはタイマーで時刻をセットしてある。五年後のウシャス祭の明け方。それが爆破の時間だ』。なぜ、そんな長い時間をかけるのか判らなかった。シャンティはおれを見て言った。『十六歳の娘が死ぬのと、十一の娘が死ぬのでは、悲しみが違うからだ。マナーフにお前と同じ苦しみを与えてやるんだ。あいつの娘は十六歳になったらウシャスをやるだろう。だから五年後なんだよ』。おれはきっとよく判ってない顔をしていたんだろう。シャンティが言ったよ。『これでスーニーの復讐を果たせ。お前が味わった思いを奴にも舐めさせろ』。おれは驚いていた。誰にもスーニーの話をしたことはなかったからだ。『知ってた』とシャンティは言った。『前からずっと知っていた。楽にしてやるよ、おれが。――あとはおれを殺して、犬を屋敷の近くで放してやれ。いいか、五年後のウシャス祭の明け方だ。詩う者がその役目を果たして沈黙したとき、広場が最初の光に照らされ、光に満ちるころ、全てのことが滞りなくすんだ祭りの終わりに、黒い犬の右目は膨れあがり、破裂し、青酸ガスが刹那の時で十六歳の少女を黄泉路への旅立ちに誘う。そしてお前はもう一度、生まれ変わるんだ。それまでの間、五年の猶予期間で、少し休んだほうがいい』。そう言ってシャンティはおれに背中を向けた」
「殺したのかシャンティを」
「いや」
忠海は頭を抱えた。
「できなかった。奴はそれを望んでいたけどな。あいつも疲れていたんだろう。――結局、シャンティは三年前に事故で死んだよ」
「五年も前の話ですよね」
おずおずと坂井が口を挟む。
「そんなに正確にタイマーが働くものなんですかね」
「シャンティは同じタイマーをつけた爆弾をマナーフの銅像の頭に埋め込んでいた。奴は言ってた。もし銅像の頭が爆発したら、その七日後にフィーの目玉が爆発するってね。おれはシャンティに背中を向けて、フィーを連れて外に出た。そこへは二度と戻らなかった。フィーを屋敷のそばで放した。それから待ったよ。五年は長かった。眠れない夜が増えた。夜は、長かった。いつも頭の中には犬の目玉が見えていた。おれはいつか、そのことを忘れようとしていた。仏門に入り、荒行に耐え、爆弾のことを考えないように身体を酷使した。けど、無駄だったんだ。……ブッダガヤで銅像の爆破があったという記事を読んだとき、おれは久しぶりにマナーフの手をはっきりと思い出していた。長かった五年間が消えいた」
「犬に爆弾なんか使っても――」
小さな声で坂井がつぶやいた。
「シャンティの話じゃ、六十年代にアメリカでプレゼントの犬に爆弾が仕掛けられたことがあったそうだ。ただ、それは失敗したらしい」
「だったら」
「小さいからだ。犬を生かした状態で爆弾を仕込むと、どうしても火薬の量を減らさなければならない。だが青酸ガスなら完璧だ。それにシャンティは爆発物の天才だった。あいつがあれほど自信を持っていたのは、あれが初めてだった。……サミアは必ず死ぬよ」
いつか忠海の涙は止まっていた。
「忠海さんには似合いませんよ、そんなこと」
「似合うさ、おれに」
「だからどう言って欲しいんだ」
喬志が言った。
「止めて欲しいのか。その顔は後悔してる顔なんじゃないか」
「そんな言いかた」
立ち上がった坂井を忠海が手で制した。
「いいんだ。ありがとう坂井。――後悔はしてる。こんなことをしても意味はないと思う。けどな、おれは見届ける義務がある。いまさらやめるわけにはいかないんだ。……ただ、このことを誰かに聞いて欲しいとは思っていた」
「なぜ」
「判らんけどな。とにかく……」
忠海はそのまま口ごもった。頭を振った。自分の想いを断ち切るような仕草に見えた。
「このことは、おれの好きにやらせてくれ。これはおれの地獄だ」
そのまま立ち上がり、忠海は外に出た。
坂井と奈津が、忠海を追って行く。
喬志はベッドの上から動かなかった。
とにかく。後に続く言葉はなんだったのだろうか。とにかく、自分の身に起こったことを話して、気持ちを整理したかった。それとも、とにかく、誰かに判って欲しかった、のか。
部屋には、忠海の口に出せなかった言葉が漂っているような気がした。
しばらくして坂井が奈津を抱えて戻ってきた。
「どうした」
「追いついたんですけど、僕にはなんて言ったらいいのか判りませんでした」
「そうだな」
「明日、中央の広場で会おうと言ってました」
喬志は天井のファンを見つめた。
「そうか――」
隣のベッドに坂井と奈津が入る音がした。
喬志は眠れなかった。
身体が熱い。
少しずつ痛みの火が点りはじめていた。
ブッダガヤの夜を思い出していた。月の下で、忠海とハシシを吸ったあの夜だ。
自己嫌悪を感じている人間は、痛みを感じることでバランスを取ろうとする。身体を傷つけて、償いをする気分になる。そういう話を忠海としたのだ。
だから、今、喬志の心が軽くなっているのかもしれない。
喬志は救われた気がしていた。
罪を四六時中、つねに忘れず、意識する。そして己の無力さに唇を噛み、静かに苦しむ。それが罪を犯した人間が支払わねばならぬ正当な対価なのだ。
そう思っていた。
そう、思いこんでいた。
けれど、それは間違っていたのかもしれない。
なぜなら、罪を犯したからその義務として、喬志は苦しんでいたのではないからだ。そうではない。
罪の意識から苦しんでいたのではなく、忍の死が、とても悲しかったから。
どうにもならないくらい、心が痛かったから。
だからその痛みを、身体の痛みで紛らわせようとしていた。
けれど、それもまた逃避に過ぎない。
カーリーのおかげかもしれなかった。自分を変えたのは、カーリーと、そして忍の言葉だ。二人が気づかせてくれた。
背負っていたのは、罪ではないのだと。巨大な重い十字架ではないのだと。
罪ではないなら、それを何と呼ぶのか、喬志は知らなかった。だが必要以上に苦しまなくていいのだ。
その当たり前を知った。
(忍。お前はずるいよ)
今はもういない人間に、喬志は素直に語りかけた。
(せっかちすぎたよ、お前は。もう少し待ってくれさえすれば、何とかなったかもしれないのに。――お前があんまり急に死んじまったもんだから、見ろよ、おれなんか、今のいままで、恨みごとさえ言えなかったんだ。……馬鹿野郎が)
(おれも馬鹿野郎だったからいけなかったのかな。――そしておれは臆病だった)
(悲しみを恐れていたんだ。涙を流すのを怖がっていた。だから、こんなに辛かったのかもな)
(お前がいなくて寂しいよ。忍。もう一度だけ声が聞きたいよ)
頬が濡れていた。
忍が死んで初めて流す涙だった。
胸のつかえが流されていくようだった。
声を殺して、喬志は泣き続けた。
「――泣いているんですか」
坂井が言った。
「ああ」
涙声で言うと、喬志は泣き続けた。
坂井は黙って待っていた。ひとしきり喬志が泣いたあと、もう一度遠慮がちに声をかけてきた。
「どこか痛むんですか」
「違う。……ありがとう」
「いえ」
「忠海も泣いてたな」
「そうですね」
忠海は五年もこんな想いを、一人で抱えてきたのだ。
苦しんで、苦しんで、苦しんできたのだ。
このままでは忠海は救われない。どこまで行こうとも、目的地につくことはなく、永遠に迷い続けるだろう。
罪の意識と復讐の業火に永遠の責め苦を受ける。
あのブッダガヤでの自分の言葉を喬志は思い出した。
(話せば楽になるのは判る。けど、楽になるのはいけないことなんだ。それが、馬鹿なおれに与えられた、罰だと思うから。他人の気持ちの判らない、そんなおれが一人だけ救われるわけにはいかない、そんな事情があるんだ。おれは、罪を背負って歩いていかなくてはならない。おれは、救われてはいけない。――おれは、不幸でなければならない)
本当に救われてはならないのか。
あれほど苦しんで、本当に、生きてゆくことが贖罪に繋がるのか。
忠海はどんな思いで、あの言葉を聞いたのだろうか。
結局、たまったものを吐き出したところで、忠海の決意は変わらなかった。
「なんとかできないですかね。きっと、忠海さんは苦しむだけですよ」
「そうだな」
だが、忠海は五年も待っていたのだ。
喬志には、忠海の生きた五年間をひっくり返す言葉を持ってない。
何も、できはしない。
忠海がそうであるように、喬志も坂井も奈津も、ただ、時が過ぎるのを待つほかに何も手だてのない、大きな川に翻弄される、流れる一本の藁なのだ。
溺れる者にしがみつかれれば、一緒に沈むような藁だ。凍えるものが燃やしたとして、数秒で燃つきる藁だ。
おれたちは、と喬志は思う、他人にかける言葉など持っていない。言えることなど何もない。
「けど、おれには何も言えない」
喬志は言った。
「坂井、お前は何か言えるか」
「―――――」
「忠海が自分で考え直すしかない」
「冷たいんですね」
「そうかな」
「そうですよ。なんでそんなに冷静でいられるんですか」
「そうだな、それは」
喬志の中で、何かが膨れ上がっていた。
「――おれは今日までずっと死にたいと思ってた。誰かが殺してくれるなら、それもいい、そう思って生きてきた。けど苦しんで当然だから、それがおれに与えられた罰だから、甘んじてそれを受け入れていた。ただ早くすべてが終わればいい、そう思ってた」
坂井が静かに喬志を見ていた。
「下らん打ち明け話だ。退屈しのぎだと思って、我慢して聞いてくれ。そんな顔しないでさ。――けど、本当にささいなきっかけで、おれはまた立ち上がる気力が出てきたんだ。もう一度、ちゃんと歩いてみたくなった。本当に不思議なんだけどな。だから涙なんか流したのも久しぶりなんだ。そんな人間らしい気持ちになるのが信じられないくらい久しぶりなんだ。人間だから涙を流すんだと思ったよ。そう感じた。忠海も泣いてた。だから……だから、忠海は自分で何とかするとおもう。あいつは自分から修羅道に落ちるようなやつじゃない。そう思いたい」
喬志は静かに言った。
「その身体の傷はそういう意味のある怪我なんですか」
「そうだな」
「本当に――待つほかにできることないんですか」
「人が手出しをしちゃいけないこともあるよ。忠海のけじめつかないんだ。きちんとケリをつけさせてやりたい」
「―――――」
「その人間が本当に大切なら待つんだ。辛いけどな、おれも」
「ぼくもです」
「そうだな」
夜は、長かった。
いつまでも夜は続くかのようだった。けれど時間は止まることなく、運命の一日に向けて、その歩みを少しずつ進めていた。
後になって思えば、ここが分岐点だった。
なぜ、おそろしく重要なポイントほど見過ごされるのか。なぜたった一つの選択がすべてを変えてしまうほどの影響力を持つのか。
この日、どうしようもなく致命的なミスが生じた。しかし、それに気づく者はいなかった。
この日を境に喬志は性に向かって手を伸ばし始めた。
この日を境に忠海は詩に向かう道へその足を進めた。
それはウシャス祭の前夜だった。
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