11

 喬志は小冊子を読み終え、閉じた。暇つぶしにと坂井に渡されたものだ。薄い、文庫本サイズの冊子で、表紙に紫色の長い髪の少女と六人の男たちが水彩で描いてある。日本語で記された、ウシャスと『うたう者』についての神話だ。

 木陰に涼しい風が吹いた。

 公園の木の根元で喬志は横になっていた。

 そばには誰もいない。久しぶりの一人だった。

 坂井は図書館で六年前の爆破事件について調べていた。マナーフがテロに遭っていれば、忠海の話に出てきた権力者がマナーフである可能性が高くなるからだ。

 奈津は坂井が連れている。

 喬志は直接、マナーフの屋敷に向かうこととなった。マナーフに会うことはできないだろうが、屋敷の周囲に忠海が姿を見せるかもしれなかったからだ。

 マナーフの館は巨大だった。

 ドーム型の屋根、敷き詰められた濃紺のタイルは、名前から察するとおりマナーフがアラビア人であるのを示していた。屋敷全体を白い巨大な壁が囲んでいる。高い壁だった。喬志は近づきかけ、扉の近くや死角になる場所に監視カメラが配置してあるのに気づいた。黒い制服を着た小銃を肩にかけた二人の男が巡回している。マナーフのガードマンなのだろう。

 セキュリティは完璧だった。喬志は屋敷を一周し、西側の公園へ向かった。そこで来ないかもしれない忠海をでみたような待つことにした。小冊子を読み終えても忠海が来る気配は全くなかった。

 喬志は小冊子を脇に置き、大きく伸びをした。

 すぐそばで声が聞こえた。背の大木の裏側から聞こえる。

「ジューニア」

 若い娘だけがもつ、溌溂とした、さわやかな声だった。

 ジーンズにシャツを着た女性が、真っ黒い犬を抱いて立っていた。

 インド人特有の切れ長の目。いかにも気の強そうな眉。小麦色の肌。流れるような見事な黒髪。初対面のはずの美しい少女のその顔は、つい最近、どこか見たような気がした。しかし、それがどこであったのか思い出せなかった。

 少女は喬志に気づいていないようだった。鼻に皺をよせ、犬に頬ずりしている。

 少女が手を離すと、黒い犬は放たれた矢のように一直線に走った。公演を半周し、するどいターンをした。芝の上を転がり、少女の足元で立ち止まる。喬志を見つけると、激しく吠えたてた。

「フィーッ!」

 慌てて少女は犬を抱いて、喬志に微笑む。悪気はないのよ、そう言っているような笑みだった。少女はそのまま流行り歌を口ずさみながら犬とともに、喬志から離れていった。

 そしてマナーフの館に近づき、ガードマンに手を振って門をくぐり、中に入った。

 少女が館に入るのを見た瞬間、喬志の頭に閃くものがあった。

 ザックの上に置いた神話の小冊子を見た。表紙には、今そばを通り過ぎていった少女と同じ顔が描かれていた。髪と瞳の色こそ違うが、同一人物だ。おそらくマナーフは自分の娘をモデルにウシャスの絵を描かせたのだろう。

(どうやら今年のウシャスに会ったらしいな、おれは)

 その偶然が喬志に笑みを浮かべさせた。

 その日の収穫はそれだけだった。


 ホテルに戻ると、坂井と奈津が待っていた。坂井は目頭をマッサージしている。

「早かったんだな」

「ええ。あまり進展はなかったんですけど閉館時間が来てしまったので。目が疲れました」

「こっちも進展はなしだ」

 ほら、と奈津に梨を投げてやる。奈津はうまく梨をつかみ、自分のナイフで皮をむきはじめた。

 喬志はベッドに腰をおろした。

「大月さん、マナーフを狙った爆弾テロは八件ありました。まだ被害者の情報を探しきれてなくて。明日になればきっと判ると思います」

「そうか。こっちは全然とっかかりもなくてね。すごく暇だった」

「どこにいるんですかねえ」

 坂井がため息をつくように言った。

「まあ、あきらめないで探し続けていれば、いつか会えるだろう」

 喬志の言葉に、坂井が目を輝かせた。

「大月さん」

「なんだ、でかい声を出して」

「そんなに忠海さんのことが大切だったんですね」

 とんでもないことを言いはじめた。

「はあ?」

「だってそうじゃないですか。正直言うとぼく大月さんは忠海さんを探すのに乗り気ではないのかなって思ってたんです。でもそうじゃない」

「お前は何を言ってるんだ」

「会って間もないですけど、ぼくも大月さんと同じように忠海さんが好きなんです。何の関係もないし、友達ではないんですけど、なんていうか、ぼくは、仲間だと思っているんです。かけがえのない」

 喬志は聞いていて恥ずかしくなった。けれど坂井は少しも照れていなかった。

「判った。判ったから、頼むからもうその話は終わりにしてくれ。頼むよ」

「頑張りましょうね」

 坂井は目に見えて元気になっていた。

「勝手に盛り上がってくれよ」

 喬志は立ち上がった。

「どこに行くんですか」

 喬志は坂井を睨んだ。

「シャワーを浴びるんだよ」

 バスルームに入り、ほっとしているのに喬志は気づいた。

 坂井があれほどとんでもない男だとは思っていなかった。だが考えてみれば、あてもないのに奈津を連れて日本を飛び出してしまった男だ。外見の繊細な感じに騙されてはいけない。けっこう熱くなりやすい、手に負えないほど行動オンリーの男なのだ。

(しょうもない奴だなあ)

 心底そう思った。

 シャワーは温かく、快適だった。黒い排気ガスと土埃を浴びた身体をゆっくりと清めた。身体を洗い終えるとシャワーの温度を下げた。

 冷たい水がすべての細胞を引き締めてくれるようだった。

 忠海が大切なのか?

 不意に、疑問がわいてきた。

 なぜ、こんな場所に来てまで、一生懸命探しているのか。

 忍との約束よりも優先させているのか。

 たぶん、と喬志は思った、自分は怒っているのだ。あれだけ長く旅をした相棒に一言も声をかけずに出て行った忠海に、腹を立てているのだ。

 あるいはそれは、忠海が大切だからなのかもしれない。

 もしかすると、坂井のいうように仲間だと思っていたからなのかもしれない。

 よく判らなかった。

 とりあえず忠海を見つけたら、一発殴ってやる。

 考えるのはそれからでいい。

 蛇口をひねって水を止めた。


 収穫のない日が三日続いた。忠海は姿を見せなかった。

 明日にあれば判ると断言した坂井もなかなか手がかりを得られなかった。名前からだけでは判断できなかったからだ。第一、忠海が勝手に惚れていただけの女なのかもしれないのだ。様々な可能性が考えられた。坂井は新聞の粒子の荒い写真を何度も調べ、直接忠海が写っているものを探す作業に入っていた。

 喬志は売人をひやかし、買い食いをし、マナーフの館を眺めて一日を過ごした。忠海は姿を見せなかった。

 その男がマナーフの館から出てきたのは、見張り始めてから四日目のことだった。

 日に焼けた顔を苦痛に歪めている日本人が、館の裏口から出てきた。

 その瞬間、音は消え、光は失われた。

 暑さは失せ、時間が止まった。

 その時が来たら自分はどうするのだろうと長い間考えていたのを思い出す。実際にそうなって、自分が恐ろしいくらい冷静に感情をコントロールしていることを知った。

 青ざめた顔いろの男をそっと尾行する。十分ほど歩くと男は頼りない足取りで高級そうなホテルに入っていった。そのまま部屋の前までついてゆく。

 男が部屋に入った直後、ドアをノックした。返事はなかった。

 そのまま根気よくノックを続けると、ドアが細く開き、そこから男が顔をのぞかせた。

「はい?」

 目に警戒した光が灯っている。

「忍から伝言と手紙を預かってきた」

 男の目が束の間大きくなり、ドアが開いた。

「入ってください。……ではあなたが大月喬志か」

「そうだ。あんたがカーリーだな」

 その名を呼ぶ自分の声が震えていた。

 カーリーは黙ってうなずいた。

 カーリーは長い髪を後ろで束ねていた。真っ黒に日焼けしている。白のクルタピジャマを身につけていた。

「話をする前に」

 カーリーがベッドに腰をおろした。

「ちょっとだけ待っててもらえないかな」

 低く、掠れた声でそう言うと、カーリーはなにかに耐えているかのように目を閉じ、唇を噛んだ。

 ベッドサイドのテーブルにアルコールランプと注射器、それにゴムのチューブが置いてあった。ビニールパッケージに包まれた白い粉がある。ガネスから奪ったPCPなのだろう。エンジェルダストがカーリーを蝕んでいるのだ。

 しばらく待つと、カーリーは大きく一度、震える息を吐き、喬志から手紙を受け取った。

「PCPを注射するなんて変わってるな」

「普通はタバコに仕込むらしいけど、ぼくはこれが好きでね。ポンピングの血を見ないとドラッグに手を出した気がしない。――ずいぶん、ぼくを探したらしいね」

 しゃべりながら、目は文字だけを追っている。

「なぜ、ここにいると判った」

「偶然だ。あんたこそどうしてここにいるんだ」

「偉大なるアッリー・マナーフに薬を売ろうと思ってね」

 確かに大量のPCPを捌くのにマナーフほどの適任者はいないのかもしれなかった。金持ちのパーティーにでも使われるのだろう。

「マナーフの知り合いなのか」

「昔、少し世話になったことがあってね。ところで君はこの手紙を読んだのか」

「人の手紙を盗み読むのは趣味じゃない」

「そうか」

 そのままカーリーは手紙を読み続けた。長い手紙だった。カーリーは途中で前の文章に戻り、何度も読み返しながら、言葉を味わうようにゆっくりと読み進めていた。

「いつもこの手紙を持ち歩いていたのか?」

「そうだ。――待っている間、おれも注射器で遊んでみてもいいかな」

「遠慮なく。注射するのが初めてなら一包みの四分の一でやめといたほうがいい」

「ご親切に」

 口と片手でチューブを上腕に巻きつけ、拳を握り、静脈に針を刺した。ゆっくりとポンピングする。注射器の中で血が出たり入ったりするのを見つめた。そこに珍しい妖精でも現れているかのように熱心に見つめた。手紙を読むカーリーを見たくなかった。

 潰れかけた心臓にPCPが安らぎを運んできた。全身のささくれた血管にライオンの発情を鎮める力を持つ、最強のアッパーが駆けめぐる。

 皮膚がぴりぴりするようだった。

「――くん。おい、大月くん」

 カーリーが喬志の顔を見つめていた。

「大丈夫か」

「ああ」

「ふん。まあいいか。それで、忍の伝言を聞こうか」

 カーリーの口調がくだけたものに変わっていた。瞳孔も開いている。PCPがカーリーの身体にも効力を発揮しているのだ。

「迎えに来るな、そう伝えてくれと」

「なぜ」

「忍は死んだ」

「何だと」

「だから迎えに来るだけ無駄だから、日本には帰るなって」

「そうじゃない。その前だ。何て言ったんだ」

「忍は死んだ」

「なぜだ」

 カーリーの声が大きくなる。

「事故だったのか」

「手首を深く切った」

 血だらけになっていた忍。

「カミソリで」

「まさか」

「あんた、忍宛ての手紙を新井って男に渡したろう」

「憶えてるよ。確か離れてしまってから、初めて書いた手紙だった」

「そうさ。そして忍があんたに電話した。あれから――」

 言葉にブレーキが効かなかった。身体が震えた。止まらなかった。震えも言葉も。

「――あれからだ。それまで、おれたちはうまくいってた。忍の身体も回復していた。痩せていた身体に少しずつ肉がついて、顔色も表情も明るくなって……。電話で話してからあいつはおかしくなった。また食べなくなった。眠らなくなった。――なんで迎えに行くなんて言ったんだ。……なんでだよ。くそ。一度手を離した人間が、なんで手紙なんて出しやがった」

「惚れていたからだ。そして、この手紙には」

 カーリーが忍の手紙を握りしめた。

「好きな人ができたと書いてあるよ。だから、恩知らずだと思うが忘れて欲しいと。できることなら、このままどこか別の土地に行って、その人と二人で暮らしたい。最初の電話と同じことが書いてある。ぼくはそれでも迎えに行く、そう言ったんだがね。さて、どういうことか、判るか」

 息が止まった。

 喬志は知らなかった。

 電話で、手紙で、好きな人がいると、忍がカーリーに伝えていたのを。

 いや、判っていたのか。

 知っていて、見ないふりをしていたのか。

 あふれるような嫉妬と、自分が人殺しである事実が目を見えなくした。

 だから勝手に身を引こうとしていた。

 どこかで自分と一緒では幸せになれないと、そう思っていた。

「頼むからぼくの話を聞いて」

 そう言った忍に、喬志は言ったのだ。

「知るか。勝手にしろ。おれも好きにする」

 そう言って外に出た。売り言葉に買い言葉だった。嫉妬でおかしくなっていた。けれど、そんなのは言い訳でしかない。部屋に戻ったとき、忍は手首を切っていたのだから。血の量と、顔色を見たとき、もう助からないことが判った。そんなの判りたくなかった。

 忍の死体は丁寧に処理した。解剖して、別々の場所に埋めた。頭蓋骨は海にまいた。肉親のいない忍にしてやれる、唯一の供養のつもりだった。

 そんなことで罪が消えるものではなかったのだが。

 判っていた。自分は本当に、本当に最低なのだ。

「……最低だ」

 忍を信じなかった。

 どこまでも一緒に行く勇気がなかった。いつか、忍も喬志を忘れるのだと思っていた。カーリーのもとに戻ってしまうのだと。

 あの手を一度は握りしめ、そして離したのは自分だったのか。

「ダブルバインドって聞いたことあるか。二重拘束、相反する欲望の板ばさみ状態のことだ。これはぼくの推測だが、おそらく本当に忍は身動きが取れなかったんだ。君が好きだが、君は背中を向けた。ぼくを慕っていたが、君を置いてはゆけなかった。あくまでも推測だけどな。けれど、忍にはそういうところがあったよ。つまり、そういうころなんだろうな」

 カーリーがゆっくりと立ち上がった。

「君はさっき、なぜ手紙を出したかと聞いたな。ぼくからも質問がある。――なぜ、忍を死なせた。君は忍の何を見ていた。君は、本当に、忍を愛していたのか」

 カーリーが喬志に歩みよる。

「君はなぜ――」

 もどかしそうに手を動かした。

「つまり、なぜ、忍だったんだ。なぜ手を出した。余計なことをしたな」

「余計なことだと」

「そうさ。本当に君には関係ない話だろう。売人の恋人なんてトラブルを抱えてるのが当然じゃないか。――それとも不幸だったから惚れたのか」

「違う」

「じゃあ寂しかったのか。誰でもよかったんだな。そばにいて触れることができれば良かったんだろう」

「違う」

 血液が沸騰した。

「違う、違う、違うッ」

「じゃあなぜ手を出した」

「知るか」

 椅子を蹴とばした。椅子は壁にぶつかって跳ね、震えた。

「全部が言葉にできるくらいなら、もっと簡単に、ずっと楽に生きていける。でもそうじゃない」

「君は自分の中に言葉を見つけられず、聞き苦しい言い訳をしてるにすぎない」

 クールな口調だった。

「ぼくはここで忍と一緒に暮らすつもりだったんだ」

 喬志を睨みつけた。

「教えてやろう。ドラッグの密輸が警察に見つかって、僕だけ先に高飛びした。時間がなかった。忍が時間をかせいでくれた。自身をスケープゴートにしてね。おかげで、ここで商売の基盤を作ることができたわけだ。確かにずいぶんやばい橋も渡ったよ。だが、すべては忍のためだった。忍と二人で暮らすためだった。人生の目標だった。君が横から手を出しさえしなければ、すべてうまくいくはずだった。なあ、おい、自分が何をしたのか判っているのか」

 カーリーが喬志を正面から見据えた。

「君さえいなければ、忍はここにいて、死ぬこともなかった」

「勝手なことを言うな。あいつが、忍が一人で生きていけないくらい判りそうなもんだろうが。忍はドラッグとお前のいない絶望に浸っていたんだ。お前こそ、なぜ忍を置いてこんなところに来たんだよ。結局、自分が可愛かったからだろう」

 気がついたときには、右手が伸びていた。拳がカーリーの顔面をとらえていた。

 手加減ぬきの一撃だった。

 無限に力が湧いてくるようだった。

 カーリーは吹っ飛び、ベッドにあお向けに倒れた。

「あいつはぼろぼろだったんだ。あんたと離れて」

 死体を埋めに行った山の中で初めてあった。

 雨に濡れて震えながら、身体を丸めて横たわっていた。不健康に痩せて、ただ、その目だけが夜目にもはっきりと澄んでいるのが判った。

 部屋に連れ帰り、一緒に暮らした。

 暮らし始めて一か月が過ぎたころ、喬志は生れて初めて他人に自分の仕事を話した。死んだ兄の話も。

 忍は何も言わず、ただ黙って喬志の手を握ったまま話を聞いた。そのまま手を離そうとしなかった。

 そのときの握られた感触が、どうしてかいつまでも消えなかった。

 そして、ある日突然、喬志は忍以外の何も見えなくなった。

 何も考えることができなくなった。

 ある日、気づいてみれば、喬志の胸に忍への恋が生まれていた。他に言いようがなかった。恋と呼ぶしかなかった。

 好きで好きで、そらだけしかなくて、身体には血も肉もなくなり、代わりに忍が好きだという想い以外の何もなくなっていた。喬志の身体は忍への愛で作り変えられていた。

 どうしようもなく惚れていた。

 思うだけで胸が苦しく、何を見ても、何をしても、心は忍だけを考え続ける。

 逆らうことのできな何か強い力が、喬志を忍に結びつけた。

 不意に追憶の海に潜りつづける喬志の頭がのけぞった。

 何か凄まじい力が、喬志の顔を一撃したのだ。

「お前がいなければよかったんだ」

 頭の上からカーリーの声が聞こえる。喬志は尻餅をついたまま、床の絨毯を見つめていた。絨毯に、一滴、二滴と血が染みこんでいく。

(血だ。誰の?)

 それが唇を濡らして初めて、喬志は自分が鼻血を流しているのに気づく。手で触れると、鼻の骨が折れ、ずれているのがわかった。

 カーリーが殴ったのだ。

 喬志は痛みを感じなかった。PCPが痛みを遮断していた。

 立ち上がる。

 カーリーは頬骨が折れ、内出血を起こしていた。ひどい顔だった。

 喬志は笑顔を浮かべた。

 カーリーを引き寄せ殴った。

 カーリーが喬志を殴った。

 全身がかっと熱くなった。視界が真っ赤に染まる。

 エンジェルダストの効果に、力の陶酔に、言葉の力に、記憶の鮮明さに、罪の重さに、忍の不在に、世界のすべてに飲みこまれるようにして、喬志の意識は溶けていった。

 なにもかもが溶融してゆくようだった。

 溶けていきながら、拳を目の前に突き出し続けた。

 途中で拳の骨の折れる音がした。音が手首から肩、肩から頭に響いた。

 手が満足に動かなくなると、頭を相手の頭にぶつけた。

 肉の潰れる感触。

 骨のぶつかる音。

 血が流れた。

 また、骨のぶつかる音。

 また、骨のぶつかる音。

「いつか、また月の明るい夜にあんたの話を聞かせてくれ」

 忠海の声がした。

「ぼくは、ただ、奈津と一緒にいたかった」

 坂井の声も聞こえた。

「なぜ、忍だったんだ」

 カーリーの声も聞こえた。

 忍はどこにもいなかった。

 また、なにも聞こえなくなった。

 世界はどす黒い血の色をしていた。

 遠くから、骨のぶつかる音が聴こえる。

 ゴッ。

 ゴッ。

 ゴッ。


 気がついた。

 目を開けようとした。起きようとした。

 動けない。

 忍の声が聞こえたように思った。

 動けなかった。

 身体の感覚がない。

 目を開けることなく、再び喬志は意識を失った。


 次に目を覚ましたとき、部屋は暗くなっていた。

 長い時間をかけ、喬志は身体を起こした。立ち上がろうとして、膝が萎えた。

 そのまま、またひっくり返った。

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