10

「タバコ、めぐんでもらえないか」

 それが初対面の忠海が口にした言葉だった。香港のスターフェリーの甲板で、アイスクリームをなめていた喬志に声をかけてきたのだ。

 二か月、一緒に動いてきた。けれど忠海についてしっているのは片手で数えられるくらいだった。

 肩に刺青を除去した手術跡があること。いいガタイをしていること。四と九のつく日には髪の毛を剃ること。昔、大切な女が爆弾テロに巻きこまれて死んだこと。人のタバコを勝手に吸うこと。

 喬志に判るのはそれくらいで、だから忠海がどこに行ったのかまるで見当がつかなかった。忠海の寝ていた場所には何も残ってなかった。書置きさえない。

 洋平という若い僧侶に聞くと、朝かなり早い時間に寺を出たという。

「どこに行ったか判りませんか」

 午前中でしっかり覚醒してない喬志に代り、坂井が質問する。

「何も聞いてないんですか。変ですね。ぼくらも知らないんですけど……」

「けど?」

 洋平はしばらく眉を八の字にして考えこみ、二人を寺の入口に連れていった。そこは宿坊の受付を兼ねた応接間になっている。洋平は奥から新聞を持ってきた。

「よく判らないんですけど、もしかしたらこの新聞が原因で急に出て行ったんじゃないかと思うんですよ」

 英語の新聞だった。昨日の新聞のようだが、かなり乱雑に扱われたらしく、くしゃくしゃになった跡があった。

「昨日、かなり遅い時間にここを通りかかったら、忠海和尚がこの新聞を凄い目つきで睨んでいたんですよ。別人みたいな険しい顔で、なんていうか、周囲の空気まで張り詰めてて」

「そうですか。判りました。ありがとうございます」

 坂井が頭をさげた。

「あの人がいないと、なんだか少し寂しいですね」

 洋平はそう言って本堂に向かった。

 坂井はすぐにソファに座り、新聞を広げた。喬志はいまだに意識の焦点が定まらないまま、坂井の横に座って壁の貼り紙を眺めた。大きな文字で「気をつけましょう、高い数珠」と書いてある。

 同じ文句を書いた紙がテーブルの上にもあった。ガラスの天板越しに読めるようになっている。

 気をつけましょう、高い数珠。

 日本人旅行客の増えたことから、近年、悪質な詐欺まがいの手口で数珠を売りつけられる被害が増えています。被害の概要は、まず、売る側が日本語で話しかけてきます。覚えず気を許すうちに、ここだけの話だけどと相手はおもむろに数珠を取り出します。香木でできた数珠です、これを買えば来世は素晴らしいものになります、などと口上手く勧められ、気がつくと購入してしまったというケースが多いのです。数珠はひとつ五万円から三十万円。これらの被害はまことにもって遺憾で……。

「これだ」

 坂井の声で、喬志は数珠の話から現実に引き戻された。

「このスーリヤという町に行ったんだと思います」

「どうして」

「ここから三十キロくらいしか離れてませんし、ここに書いてあるんですけど一週間後に町でウシャスの祭りがあるらしいんですよ」

「そういえば確かここに来る前に、祭りがあるとかおっさん言ってたな」

「そうですよ。間違いないです」

「どうする。追いかけるか」

「――そうですね」

 沈んだ声で坂井が言った。事情はどうあれ、さよならも言わずに忠海は出ていったのだ。喬志自身も、置き去りにされたような、馬鹿にされたような、そんな気がした。

 行かないほうが良いのかもしれない。

 口には出さないが、坂井もそう考えているのだろう。

「スーリニか。聞いたこともない町だな」

「ええ」

「何でそんなマイナーな場所の祭りが記事になってるんだ」

「あ、違うんですよ。祭りは記事の添え物で、本題はスーリニの爆弾騒ぎなんです」

「爆弾」

「なんでもその町の長の銅像が爆発したらしいんですよ。けっこう威力があって頭の部分は粉々に砕けたらしいんですが、怪我人は出なかったようです」

 爆弾。

 町の長。

 女が、死んでね。

 忠海の声が聞こえた。

「坂井」

「はい?」

 喬志の尋常ではない声の響きに、坂井の顔が引き締まった。

「忠海が仏門に入った理由を聞いたか」

「いえ、知りませんが」

「女が一人、爆弾テロで死んだそうだ。ある権力者を狙ったものに巻きこまれて」

「……どういうことですか。それと銅像の爆破には関係があるんですか」

「知るか。おれには判らん」

「――――」

「判らんが、とにかく行ってみるか。その小さな町に」

「ぼくも行きます」

 坂井がうなずいた。

 カーリーはどんどん遠くなるなと喬志は胸の内でつぶやいた。

 もしかすると自分はカーリーに会いたくないがために、寄り道をしているのか。

 喬志は己に問いかけた。違う。どんなことをしても、なんとしても、忍との約束を果たす。最優先すべきはカーリーだ。

 けれど、何かが引っかかるのだ。胸騒ぎが喬志をスーリニに行かせようとする。坂井が「爆弾騒ぎ」と口にした途端に、背筋に詰めたいものが走ったのだ。

 銅像爆破について忠海は何かを知っている。そんな気がした。

 スーリニに行って忠海を探す。そう決めた。ほとぼりを冷ますための時間を使って。何故だか一度兆した胸の不安は去らなかった。

 バスに乗り、スーリニに到着してもそれはおさまらなかった。


 スーリニは想像よりも大きな町だった。

「みんな、けっこう綺麗な服を着てますね」

「ああ」

 通りを歩く人々の服は清潔そのものだった。

「けっこうビルがあるな」

「そうですねえ。映画館が五つもある」

 坂井はツーリスト・インフォメーションでもらったガイドブックを読みながら歩いている。夏は坂井に手を引かれ、きょろきょろと辺りを見ながら歩いていた。地図で見ると町は石畳を敷いた大きな広場を中心にして、南側に小売店や観光客向けのホテルが連なり、北側には王宮なみの巨大な建物と贅をつくした家々、小綺麗なオフィスビルが並んでいた。

 物価は他の場所、たとえばバラナシやブッダガヤに比べると少し高い。ホテルも二割から三割は高かったが、シャワーからはちゃんと熱い湯が出た。

 坂井の話によれば昔は王族が避暑のため利用したに村で、今はコンピュータのソフト開発の中心となっていた。インドのコンピュータ情報網の広がりに連れ、村から町へと発展し、アラブ人や華僑が集まりつつある。発展の主な理由に、昔から教育の水準が他の場所より高かったこと、王族の避暑にあわせ異国の商売人が多く入っていたことなどがあげられる。

「華僑が多いなら、うまい中華が食えるな」

「楽しみですね」

 日が暮れかけていた。

 喬志たちは南側の通りを歩いていた。

 学校帰りらしい、真っ白い制服を着た少年や少女が通りを横切った。香辛料と揚げ物の匂いが漂っている。ゴミの集まっている場所にかなり大きな牛が座っている。その隣で、薄汚れたサリーを着た女性がカラスと一緒にゴミを漁っている。

 路上生活者だ。

 スーリニは清潔な外観ではあったが、地に視線をあわせると、やはりそこには間違いなくインドがあった。足のない物乞い、真っ黒な鍋でミルクを沸かしている老女、皮膚病を患い痩せこけた犬。虎の縞は洗っても落ちないものだ。

 通りのチャイ屋でひと休みする。

 窓から通りを眺めると、猥雑な力がガラス越しにびんびん響いてくるような活気のある通りだった。

「こんなところで忠海さんに会えるんですかね」

「これだけでかいと、やみくもに探しても無理だな」

 坂井がため息をついた。

 椅子に座った奈津は顔しか見えなかった。忠海、という名前に反応するように坂井をじっと見つめた。

 店の奥から真っ赤なドレスを着た少女が通りに飛び出して行った。

 よく注意してみれば、他にも何人か、誇らしげな顔で赤と黒のドレスやサリーを着た子供が走り回っている。

「やけに赤と黒の服が多いな」

「ああ、あれはウシャス祭の衣装なんですよ」

 坂井がカバンをかきまわし、ガイドブックを取り出した。

「あった、ありました。でも凄いですね。日本語のガイドブックまであるんですから。これからは観光にも力を入れていくつもりなんですかね、アッリー・マナーフは」

「誰だって」

「アッリー・マナーフ。例の銅像になった人ですよ。北のでかい建物に住んでいて、この町のほとんど全てのことを束ねているみたいですね。ここがソフト産業の町として発展したのも、マナーフが優秀なプログラマーを集めたからだといわれてます」

「よく知ってるな」

「調べたんですよ」

 坂井の声が沈んだものになった。

「なにがどう繋がるんだか判りませんけど、忠海さんがここに来た理由は銅像の爆破に関係があるかもしれない、そう思っているんでしょう、大月さんは」

「ああ」

「だからインフォメーションでありったけの資料を集めて読んだんです。町の歴史とか今度の祭りに関してとか。どのガイドブックにも一度は出てくる名前があって、それがかの偉大なマナーフその人なんです」

「ふうん」

「興味のなさそうな返事ですね。……さっきの服の話ですけど、この地方ではウシャスという暁の女神が信仰されていて、ウシャスを表す色である赤と黒の衣装が女性には好まれているんですよ。あの子供たちはきっと、祭りのための新しい服がうれしくて、待ちきれずにああやって走り回っているんだと思いますよ」

 窓のそばを女の子が泣きながら通り過ぎた。赤と黒の新品のサリーは、転んだのか泥だらけになっている。

「かわいそうに」

「家で怒られちゃうんだろうな」

「そうだな。――忠海だけどな、ウシャスの祭りには現れるような気がするんだ」

「ええ。ぼくもそんな気がします」

「ウシャス祭ってどんな祭りなんだ」

「夜に行われる祭りなんですよ。神話がベースになってます。毎年、十六歳の娘が一人、ウシャス役に選ばれるんです。その娘がウシャスの扮装である赤と黒のサリーをまとい黄金の装身具を身につて、山車に乗って町中を練り歩くんです。それで夜明け前に広場に到着して、暁を眺めてフィナーレとなる」

「へえ」

「面白いのはウシャスを讃える歌というか、まあ詩のようなものだと思いますが、それを歌うことを許された『うたう者』という神官が六人いて、広場で暁に向かって歌うんだそうです。夜はけっこう賑やからしいんですけどウシャスが広場についてからは声を出してよいのはその『うたう者』だけだそうです」

うたうものねえ」

「一種の世襲制のようですね。その家に生まれた第一子は必ず『うたう者』にならなくてはいけないようです。かなり厳しい修行があってボイストレーニングはもちろんですが、『うたう者』はどんなことがあっても歌いはじめたら、それが終わるまで何が起こっても歌い続けなくてはならないそうです。だから精神的な修行も行うんですね。ウシャス祭の一番の特徴は『うたう者』ですかね」

 静かな広場に暁の光がさす。透明な大気に歌が流れる。

「けっこう面白そうな祭りだな。忠海は単にウシャス祭を見たかっただけかもしれないな」

「ただ、それだけじゃ黙って出て行った説明になってませんよね。それに――」

「それに? 何だよ」

「今年の祭りはこれまでとは違うんですよ」

「どう違うんだ」

「今年のウシャスを務めるのは、そんじょそこらの女の子じゃないんです」

「誰なんだ」

 坂井は言おうか言うまいか迷っているような表情をした。

「焦らすなよ」

 坂井が覚悟を決めたように眉をひそめた。

「アッリー・マナーフの一人娘、サミア。彼女が今年のウシャスなんです」

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