8
その男は執拗だった。
ひげ面のその男は身体中に笛をぶら下げ、横笛を吹きながらいつまでもついてきた。ずいぶんと陽気な曲だ。
村上忠海は奈津を連れて歩いていた。
坂井は昨日の移動による疲れか、今日はよく眠っていた。喬志はおそらくどこかでトリップしているのだろう。取り残されたような表情の奈津を誘い、外に連れ出した。
夕方だった。昼間の激しい暑さはない。
ブッダガヤではバラナシのほうに建物を構えた店は少なかった。代わりのように地べたに布を引き、その上に商品を並べて売っているものたちが大半を占めている。
道を歩くと、そういう男や女たちが日本語で声をかけてくる。
「じゅず、じゅず」
「ジャパニ、ジャパニ」
「これ、安いね。ノー、高いね」
「びゃくだん、びゃくだんね」
ここ数年の日本人旅行客の増大、特に信心深い老人の団体客の増加は、この地の商売人に日本語を学ばせるほどの影響力を与えていた。日本語は金に結びつくのだ。
笛吹きひげ面男は、ビルマ寺を過ぎたあたりで忠海ではなく奈津に向かって話しかけてきた。もちろん奈津は返事をしない。
そのまま無視して通り過ぎたが、男はずっと後をついてくる。
ふと見ると、奈津の視線はちらちらと後ろに向けられ、どうやら笛を見てるようだ。
「奈津」
奈津は転びそうになりながら、横に並んできた男の笛から目を離さない。
「奈津」
もう一度呼ぶと、忠海を見た。
「あの笛が欲しいのか」
こくん、と首を傾けた。
「よし」
竹製の笛だった。奈津の指のサイズに合わせ、小さめのものにした。
笛を手にした奈津が目を細めて忠海を見上げた。
音はなかなか出なかった。奈津は息のもれる音しか出せていない。
「貸してみろ」
何度か実際に吹いてみせた。
「唇の形をよく見ておけ。それから笛につける角度と。こうだ。――判るか。後は自分で何度か練習するんだな」
大木の下に座りこんで、紙パックのマンゴージュースを二人で飲んだ。奈津はジュースを飲み終わるとすぐに笛を手にした。唇をとがらせ、一生懸命、息を吹き込んでいる。忠海が初めて目にする奈津の真剣な顔だった。
忠海は奈津の顔を眺めながら考えた。
奈津を注意深く見ていれば、ある程度のことは理解できる。身振りや顔の表情、目の輝きなどで意思を読み取るのは可能だ。だからといって言葉が必要ないはずはない。言葉はやはり、必要なのだ。
話せない事情はいくつか考えられる。
発声のための器官が傷ついているから。頭の中で言葉を形作ることができないから。言葉が理解できないから。
それらの原因は奈津には当てはまらない。
奈津が言葉を理解しているのは判る。頭の中で言葉を形作ることもできるはずだ。器官に異常があれば坂井が言及しているだろう。
おそらくは自分の言葉を話すのに、感情的な負荷がかかっているのだろう。母親の死について、多くの人間に質問されたに違いない。プロテクトがかかり、それを父親の暴力がいっそう硬い強固なものとした。
だが原因が判っても、それで奈津の苦しみが軽減されるものでもない。奈津の役に立っているわけではない。
理解されようとも苦しみは続く。
自分がそうであるように。
昨夜の喬志がそうであるように。
喬志もまた、罪に苦しんでいる。孤独であろうとするのが、喬志の償いなのだ。自分の身体を傷つけ、心を切り裂くことで、満足している。そうしないと時間が過ぎるのに耐えられないからだ。
それが忠海にはよく判った。
おそらく喬志も忠海と同じように、いつも過去の一点だけを見つめながら歩いている。それは心の傷を癒せなくて口をきけない奈津も、それを見て胸を痛める坂井にも当てはまるのかもしれない。
あのとき、もっと考えていたら。
あのとき、自分にもっと力があったら。
そんないまいましい家庭の疑問が、心をしっかりと縛りつけてほどけない。
見えない鎖が動きを制限する。制限された範囲であがき、迷う。
けれど罪を背負うというのは、そういうことではないのか。いつ、いかなる時も決して罪を忘れず、苦しむことこそが、それぞれの罪に相当する、正当な罰なのではないだろうか。
いつの間にか、山の端に沈みかけた夕陽が、奈津の頬を、身体を染めていた。西の空に無数の雲が集まっている。雨を含んでいそうな雲だった。その雲も、夕陽に染め上げられている。ときおり朱色の雲が光り、細い電光が走った。
地面も、空も、木々も、忠海自身も、空気さえ紅色に染まっていた。
奈津もいつの間にか笛の練習の手を止め、洛陽に見とれていた。口が大きく開いている。
「きれいだな」
奈津が勢いよくうなずいた。何度も、何度もうなずく。
一瞬、奈津の弾んだ声が聞こえたような気がした。
忠海と同じように奈津が感動しているのが伝わってきた。同じ感覚を共有できたのが、なぜか忠海には嬉しかった。奈津もまた、圧倒的な景色に感動したことではなく、忠海が奈津の想いを受け止めたことのほうが嬉しそうに見えた。
しばらく夕陽を見送り、それから忠海は奈津の手をとって寺に向かって歩いた。
二人の影がびっくりするほど長く伸びていた。
寺に戻っても、奈津は一人で笛の練習を続けた。
ベッドの脇に座りこんで何度も繰り返し息を吹きこんでいる。
奈津の懸命のマウス・トゥ・マウスも、笛に生命を宿らせる兆しはなく、沈黙したままだった。
けれど、奈津の表情は決して沈んだものにはならなかった。
「奈津、どうしたんですか」
坂井が訊ねた。眠そうな目をしている。
「笛を買ってやったんだ」
「笛、ですか」
「そうだ。奈津が欲しそうな顔をしてたんでな」
「――奈津が何かを欲しがるなんて、本当に久しぶりです」
「そうか」
「忠海さん、あの」
「ん?」
「あの、ありがとうございます」
「うん?」
「奈津、嬉しそうな顔してましたし」
「喜ぶのはまだ早いよ」
忠海は顔をしかめた。
「音が出てから喜ぼうな」
「そうですね」
坂井が笑いながら言った。
「喬志はどこに行った?」
「……たぶん骨を削っているんだと思います」
「やすりでか」
坂井がうなずいた。複雑そうな表情だ。
「そうか」
忠海もうなずいた。
喬志は八時に戻ってきた。奈津は練習をなかなかやめなかった。
奈津の笛から音が出たのは夜中だった。
忠海は眠れず庭に出た。
ウシャス祭の日が近づくにつれ、睡眠時間も減っているようだった。下弦のわずかに欠けた月が、雲の切れ間から庭を明るく照らしている。
ゆっくりと月明かりを浴びて歩いた。庭に植えてある松が、濃い影をつくっている。
奈津が庭石の上に座っていた。何日か前の夜、喬志が座っていた石だった。
どうやら寝たふりをして抜け出したようだ。
「まだ眠ってなかったのか」
声をかけ、奈津のそばに近づいたときだった。
不意に、澄んだ音が夜気にすべり出た。
奈津は呆然とし、それからもう一度同じように音を出した。
何度も同じ音を繰り返し、それから順に音階を上げはじめ、下げた。音を味わうように自由に上げ下げを繰り返す。
音に包まれたまま、奈津が微笑んでいた。
目をあげて、忠海を見た。
「やったな、奈津」
奈津が石を飛び降りて走ってきた。忠海に抱きついた。思いがけないほど、それは強い力だった。
「……よくやったな」
頭をなでた。顔を上げ、奈津が満面の笑みを見せた。
「よくやったな、奈津」
奈津はなかなか抱きついた手を離そうとしなかった。
奈津の抱きついた力は、忠海の心の奥まで届き、それから長い間、消えなかった。
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