チャーイ チャイ

 チャーイ チャイ

 チャイ売りの低い声が聞こえてくる。

 薄暗かった。列車は止まっている。

 喬志は寝台の上からおりると、窓越しにチャイ屋を引き止めた。

「喬志、おれにも頼む」

 忠海の声がした。

 チャイをもう一つ追加した。窓の鉄格子の隙間から、底が尖っている、逆円錐形の素焼きの器を両手に受け取る。チャイはジンジャーの香りがした。

「おりろよ。両手に持ってると梯子が登れない」

 二等寝台車は三段式のベッドになっている。座席が一つ目のベッドで、座席の横の梯子を登って使うベッドが二つ目。それに背もたれの部分を九十度引っ張り上げ鎖で固定すると三つ目のベッドができあがる。

 外国人専用オフィスでチケットを取ると、この一番上のベッドが指定席となる。喬志の隣の列に忠海、忠海の後ろに坂井と奈津が一緒に眠っている。

 忠海がおりてきた。

「寒いな」

 忠海はいつもの薄汚れた黄色の衣を巻きつけているだけだ。

「ああ」

 夜間も天井に取りつけられた扇風機は動き続けるため、上のベッドはもろに風を浴びる。しばらく黙ったままチャイを飲んだ。

「うまいな、これ」

「うまいね」

「生姜がきいてるな」

 忠海はとても嬉しそうな声をあげた。

 熱いチャイが身体に沁みる。

 喬志がタバコを取り出し、当然のように伸びてきた忠海の手にも一本のせて、素早く二人分のタバコに火を点けた。

「何時」

「一時過ぎだ」

「どのへんかな今」

「さあな、暗くてよく判らんな」

「しかしまあ、なんだね」

「なんだ」

「ホテル出たのも、列車に乗ったのもバタバタしたからさ、なんかこうやって温かいチャイを飲んで、タバコを吸うと、ほっとするな」

 荷造りをして午後四時に宿を出た。まずい中華で食事をすませ、ミネラルウォーターと石鹸を買い、路上で米ドルをインディアン・ルピーと交換し、離れた場所からガネスのオフィスを観察し、警官のいないことを確かめてから駅へ向かった。

 九時出発の列車は当然のように三十五分遅れてホームに入ってきた。時刻表によると深夜二時にガヤに到着することになっている。遅れた時間を考えると、早くて二時三十五分に到着する予定だ。

 チャイを飲み終えた忠海が土地の流儀にならい、列車の窓から器を捨てた。かしゃっという壊れる音が聞こえてきた。

「まだ時間あるから休んどけよ」

 タバコを床に投げ捨てて忠海は上に戻った。

 同じようにタバコを捨て、踏みつけて喬志も戻る。

 眠れなかった。

 よほど疲労が深くない限り、まともに眠れないのだ。目を閉じれば、忍の顔がありありと浮かぶためだ。

(チャラスとは言わないが、ガンジャでもあればな)

 苛々しながら天井をにらむ。

 忍のことではなく、他のことを考えようとした。

 これからどうするのか。

 すぐに答えが出た。というより、答えは一つしかなかった。

 カーリーを見つける。

 カーリーはガネスが死んだことで、バラナシから逃げ出せる。それが口惜しかった。また手がかりを失ってしまう。カーリーはまた、この手をすり抜けてしまうのだ。

 忍との約束が、また遠くなった。

「あの人に伝えて欲しいんだ」

 忍の声が聞こえる。忍はいつも、カーリーをあの人と呼んだ。

「なかなか、見つからないかも、しれない、けど」

 声は小さく、そして、力なくかすれていた。

「迎え、に、来なくても、いい」

 喬志の手を握る。

「ぼくは、死んだ、から……来ても、いない、から、来ては、いけないと」

「もう判ったから」

「あの、人ね」

「判ったから。絶対に伝える、だからもう――」

「警察に、追われて、いる、から……。でも、ぼくを、迎えに」

「忍」

「ぼくが、死んでれば、来ても、意味、が、ないからね――」

「忍」

「この手紙を」

「もうしゃべるな」

 喬志の声を聞いて、忍は口を開くのをやめた。そのままずっと。

 永遠に。

 喬志は頭をふった。

 最優先すべきは自分の命だ。生きていれば必ず、次の手がかりが見つかる。

 カーリーも脱出することになるが、PCPをさばこうと思えば時間が必要になるはずだ。そう思えば、まだチャンスはある。今は騒ぎの中心から遠ざかるべきだった。

 列車は休むことなく前へと進んだ。


 ガヤに着いたのは午前四時半だった。

 仮眠室で眠り、翌朝バスに乗りこんだ。

 坂井も奈津も忠海も寝不足のためか、動きが鈍かった。喬志自身も一晩中続いた列車の振動が身体の奥にまだ残っているような気がした。

 喬志たちがスプリングのほとんど効かない、破れているシートに座るのを待っていたかのようにバスが動きだした。

 バラナシとは違う土の道がハレーションを起こし、白っぽく輝いている。

 辺りには背の高い建物がまったく見当たらなかった。乾いた大地が広がっているだけだ。

 しばらくすると川が見えた。大きな水瓶を頭にのせた、赤いサリーを着た女が川を渡っていた。照りつける太陽を反射し、川面が無数にきらめいている。

 川沿いにバスは進み、三十分ほど走ると日本寺に着いた。

 宿坊に通されると、喬志は日本では違法であるタバコを一服した。他のものはそのままベッドに倒れるようにして眠った。皆の寝息を聞きながら、喬志も瞼を閉じた。

 次に喬志が目を覚ましたのは、ドアを叩く音を耳にしたからだ。夜になっていた。

「夜食のご用意ができております」

 ドアの外に若い僧侶が燭台を持って立っていた。

 喬志は時計を見た。午後十時。丸々十二時間、寝ていたことになる。

 バラナシと同じように、ここでも夜間には停電があるようだ。話声で坂井と忠海が起きてきた。奈津は寝かしておくことにした。

 その僧侶――洋平という名前だ――が、石の廊下を食堂まで案内してくれた。

 食堂のテーブルには鉢に入った湯気を立てている白い粥と、黄色い沢庵がすでに用意されていた。

 緊張と疲れが癒されるような、すっきりとした味の粥だった。うまかった。沢庵も泣かせた。

 喬志は食べ終わると、忠海と坂井をそこに残し、庭に出た。

 満月が庭を照らしていた。

 昼間のリキシャやタクシーのクラクション、人々の声、ありとあらゆる喧騒を考えると信じられないほどの静寂だった。

 虫の声が遠くから聞こえてくる。庭には大人が二、三人寝転がれるほど大きくて平らな石が置いてあった。

 喬志はその石の上に座り、タバコに火をつけた。

 すると、部屋を出る前に見た奈津の寝顔が頭に浮かんだ。

 幸せそうな寝顔だった。

 奈津は、あいかわらず、一言も口をきかなかった。

 笑いさえしない。事情を知らない人間がその表情を見れば、不機嫌なへそまがりの子供に見えたかもしれない。

 しゃべらないのを別にすれば、本当に今どき珍しいくらい、子供らしい子供に見えた。胸の奥に血の記憶を封じこめているようには見えない。

 忍の自殺を想った。その記憶は今も薄れていない。二十五歳の喬志でさえ、そうなのだ。

 まして奈津はまだ幼い。

 あの子はこれからどうなるのか。

 母親が自殺し、父親に暴力をふるわれ、赤の他人に連れてこられてこの場所にいる、小さな、けれども今は幸福そうな寝顔の、口のきけない小学校四年生の男の子。

 ある意味では奈津こそが、違う方向を見ている三人をつなぎとめていた。

 奈津がいなければ喬志はカーリーを見つけ出すまでバラナシに留まった。忠海は一人でブッダガヤに行ったはずだ。坂井はそもそも日本から出ていないだろう。

「何を考えている」

 物思いに沈んでいた喬志は、声をかけられるまで忠海がそばにいるのに気づかなかった。

「静かだなと、そう思っていた」

「そうだな」

「坂井は?」

「部屋に戻った。奈津がちゃんと眠っているか心配なんだろう」

「そうか」

 タバコを石にこすりつけて火を消すと喬志はあお向けに寝転んだ。大きな黄色い月は、人を安心させるように思える。

「なあ」

 喬志は横に座った忠海に声をかけた。

「うん?」

「坂井は奈津をどうするつもりなんだろうな」

「さあな」

「冷たい返事だな」

「どうした。あんたは他人に興味がないのかと思っていたんだがな」

「そんなことはないよ」

「まあ、あんな話を聞いて無関心でいられるほうが変だろうな。……ただ、どうしたらいいのか、何が正しいのか、それは難しすぎて、おれには判らんし答えようがない。何となくあの二人は放っておけない気にさせるのは確かだが」

「そうだな」

「他人のことより自分のことはどうなんだ」

「何が」

「誰か探してるんじゃないのか」

「そうだけど、それがどうかしたか」

「とげとげすんなよ。おれはなあ、どうにも気になって」

「………………」

「死んだ人間は、ただの肉のかたまり」

 忠海がぽつりとつぶやいた。

「あんたの言葉がずっと引っかかっててな。死体の処理を仕事にしていたって話も」

「なんでかな」

「よくわからんのだけどな。なんか、気になって。確かに納得のいく言葉だ。あんたが死体の処理をしてたってのを別にしても、ガンガーに浮いている死体を見れば多少なりともそう感じるかもしれん。そう思う反面、なんか痛々しく思えてね。そういう言葉も、あんた自身も」

「えらく感傷的なんだね」

「月がきれいな夜だからかな」

「ふうん」

 涼しい風が吹いた。ハードな日程をこなした快い疲れが喬志を包んでいる。

「気障だねえ」

「似合わんか」

「あんたが言うと、おかしいな」

「これでけっこう、ハードボイルドなんか読むんだがな」

「坊主なのに?」

「坊主だって本も読むさ」

「そうだよな」

「ああ」

「坊主だって本も読むし、甘ったるい感傷にもひたるし、肩の刺青をレーザーメスでとったりするよな。――その肩の傷、刺青とった跡だろ」

 忠海は自分の肩のピンク色の楕円をなでた。

「昔のことだ」

「ふうん」

「昔、大切な女がいてな。いろいろあって、その女が死んで、それで刺青とって仏門に入ったのさ」

「いつごろの話だ」

「もう五年前、になるな」

 忠海の目が過ぎ去った時間をもっとよく見ようとするように細められた。

「なんで死んだの、その人」

「爆弾でな。テロに巻きこまれたんだ」

「ハードだな」

「ある権力者を狙った爆弾だった。……その女が盾になっちまってな」

「狙われた人間は今も生きてるんだな」

「ああ」

 辛そうな、わずかに怒りを帯びた声だった。

 残されたものの悲しみ。それは喬志にも判る。どれほど悲しんでも、涙を流しても、大きな声でその名を呼んでも、決して死者には届かない。

 いつだって、だから騒がしいのは生きている人間だ。死者は静かだ。忍のように。奈津の母親のように。

「なあ」喬志は口を開いた。「……いいわけしてもいいかな」

「何の」

「おれは、おれの事情を他人に話せない、そのいいわけ」

「どうした、いつになく弱気だな。……せっかくだから聞こうか」

「坂井が言ってたことと同じだな。話せば楽になるのは判る。けど、楽になるのはいけないことなんだ」

「どうして」

「それが馬鹿なおれに与えられた罰だと思うから」

「――――――――」

「他人の気持ちの判らない、そんなおれが自分一人救われるわけにはいかない、そんな事情があるんだ。おれは罪を背負って歩いていなくてはならない。おれは救われてはいけない。おれは――不幸でなければならない」

「……なら、なぜ坂井にはしゃべらせたんだ」

「それもそうなんだけどな。痛そうな顔してたから、楽にしてやりたかったんだ」

「おまえも楽になればいいじゃないか」

 喬志は何も答えず、笑った。

「それがお前の償いなのか」

「そうかもしれない」

「処置なしだな。お前は大馬鹿野郎だよ」

「褒めてくれてありがとう。そうだ、あと少し葉っぱが残ってるんだ。一緒に吸わないか」

「もらおうか」

 二人の沈黙の間に、火を点ける音が響き、いがらっぽい紫煙が立ちのぼった。

「これは強いな」

「タバコに葉っぱを混ぜて、更にチャラスを混ぜたんだ」

「ハシシのほうが多いんじゃないか」

「ウイスキーのビール割りみたいなもんだな」

 虫の声が二人の周囲を取り巻くように響いた。

「ううう」

 静寂を破って、忠海が唸りだした。

「どうした」

「おれはな、これをやると、眠くなるんだ」

「だから普段はやらないのか」

「そうだ。……なんだか頭がぼーっとする。何が言いたいのかよく判らなくなったな」

「おれには判るような気がする」

「何が」

「だからさ、月の明るい夜は誰かと話したくなるんだ」

「ほほう」

「自分にとって大切な秘密を打ち明けたくなる」

「気障だねえ」

「まあね」

「もうだめだ。寝る」

「ああ、おやすみ」

「なあ」

「うん?」

「いつか、また月の明るい夜がきたら」

 忠海がよろよろと立ち上がって、喬志を見下ろした。タバコを地面に投げ捨てた。火花が飛び散った。

「今度はあんたの話を聞かせてくれ」

 忠海は照れたように、一度だけ手を叩いた。いい音がした。

「おやすみ」

 指が焦げそうになるまでタバコを吸った。部屋に戻る前に、喬志はもう一度、天を仰いだ。

 月は空の高い場所で美しく輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る