忠海も坂井も喬志の案に同意しなかった。

「なあ、死んだ人間は、ただの肉のかたまりだろ。お前らもインドに来て死体のひとつやふたつは目にしただろう。死に変な感傷を持つな。これは生きるためにやるんだ。手伝わないならそれでもいい。けど、おれは一人でもやるからな」

 喬志がそう言い、本当に一人で作業にとりかかると、ようやく二人はしぶりながらも手伝い始めた。

 ガネスの身体は死後硬直が始まっていた。

 作業がやりやすいと喬志は思う。

 まず首に膝を当てて前後に折る。アシスタント二人のおかげで手順がスムーズに進んだ。手首も同じように折る。足首は硬いし、道具も少ないため、今回は見送ることにした。

 次に折れた関節の隙間にナイフをこじ入れ、切断する。一気に切り落とすのは無理だから、根気強く、何度も繰り返す。

 途中、坂井が二度吐いた。忠海は吐かなかった。ただ、別人のように顔つきが険しくなった。額に細かい汗がびっしりと浮かんでいた。

 切り分けたガネスを鍋に入れ、喬志はタバコに火を点けた。忠海と坂井は二人で川に身体を捨てに行った。

 後は時間をかけて煮込むだけだ。

 作業は二階の、例のベッドの部屋で行っていた。蝋燭の明かりは手元だけを照らしている。部屋のほとんどが暗闇に隠されていた。

 静かな夜だった。聞こえるのはベッドに寝かしつけている奈津の寝息だけだ。

 喬志が二本目のタバコを吸い終えたころ、沸騰した湯で眼球が白濁しはじめた。

 足音がした。

「おれにも一本くれ」

 坂井と忠海が戻ってきたのだ。返事を待たず、忠海は喬志の手からタバコを奪った。きゅっと音を立てて強く吸う。穂先が赤く光る。

「お巡りさんがパトロールしてただろう」

 喬志の言葉に坂井がにやりとした。坂井は腹の中を空にして、だいぶ落ち着いたようだった。

「あとどれくらい煮込むんですか」

「三時間は欲しいな」

「そんなにか」

 うんざりしたような声をあげ、忠海が鍋の蓋に手を伸ばそうとする。

「だめだ」

 忠海の手をつかんだ。

「見ないほうがいい」

 押し殺した声で続ける。

「このコンロは火力が弱いんだ。気長に待ってろ」

「すごいにおいですね」

 坂井が言った。

 狭く風通しの悪い部屋は異臭に満ちていた。人肉の煮える匂いと血の匂い、坂井の吐瀉物の匂い、それに昼間喬志が放った精液の匂いが混ざり合っている。

「たまらんな。おれは寝るぞ。終わったら起こしてくれ」

 灰皿にタバコを押しつけ忠海は壁にもたれて座りこんだ。しばらくすると、気持ちよさそうないびきが聞こえてきた。

「坂井さん、あんたも眠れるようなら寝たほうがいい」

「坂井でいいですよ。大月さんはどうするんです」

「おれか」

 喬志は金属製のスプーンを床から拾い上げた。

「おれのこの後のスケジュールはな、目玉をくりぬいて、脳味噌をかきだしてから、様子を見ながら肉を削ぎ落すんだ。このスプーンでね。楽しそうだろう」

 喬志はわざと唇をつり上げた。

「余計なことに気を回さんで、休めるときには休んでろ」

「――はい」

 部屋のすみで音がした。

 坂井が振り向いた。坂井の身体で死角になっていた部屋のすみが目に入った。いつの間にか目を覚ました奈津が鍋の中を見つめていた。

 坂井が奈津の手から蓋を取り上げ、抱きしめるまでの間、時間がひどくゆっくりと流れたような気がした。スローモーションの時間の中、蓋を取ったまま、奈津は鍋の中のガネスを見ていた。声もあげず、表情を変えることもなく、見続けていた。

 坂井は震えているようだった。泣いているようだった。奈津は何も感じていないように見えた。ただ、坂井にしがみつかれたまま立っていた。視線は鍋でぐつぐつと煮立っているガネスをとらえたまま離れなかった。奈津の手から蓋が落ちた。

「どうした」

 寝ていたはずの忠海が床に転がっている蓋を拾い、かぶせた。


「すいません。取り乱してしまって」

 しばらく経って落ち着きを取り戻した坂井がすまなそうに言った。

 喬志は奈津を脇に抱え、ベッドの上に座っている。

 坂井がぼそぼそと低い声で忠海に話をしていた。

「なんて言うか――なんて言ったらいいのか。皮膚一枚を残して身体の中身が過去に戻っていたみたいな」

「それは」

 小さく静かな声で忠海が訊ねた。

「奈津に関することか。言いたくないなら言わなくてもいいんだがね」

「言いたくない訳じゃないんですよ。ただ」

「ただ、何だ?」

「言って楽になるのは逃げてるような気がするんです」

 蝋燭が燃える音がした。

 喬志が声をかけた。

「坂井、おれは興味本位で知りたいな。……どうせ今日初めて会った人間で、時間が経てば二度と会わない関係だろうと思う。だからお前は楽になるけど、それは逃げじゃないし、おれの好奇心も満たされる。ガネスが煮えるまでの暇つぶしだ。話せよ、聞くから」

 喬志が立ち上がり忠海に奈津を渡した。忠海は壊れ物を扱うように、奈津を抱いた。

 そろそろ頃合いだった。坂井に背中を向け、座りこむとスプーンを手に鍋の蓋を開けた。顔面の脂肪が黄色いゼリーのようになっているのが透き通った皮膚から見えた。顔は充分にやわらかく煮込まれていた。

 筋肉はおもしろいくらい簡単にはがれた。肉が硬くならず、骨から外しやすくなっている。左目をくりぬき、眼窩から脳をかきだし始める。スプーンが少し大きくうまく脳が出せない。

 蝋燭をもう一本近くに引き寄せ、少量ずつ脳をこそぎとる。脳は魚の白子と同じ色をしていた。坂井が口を開いたのは、喬志が長い時間をかけて左目からの作業を終え、右目に取りかかったときだった。

「単なる興味本位だ」坂井が言った。「そう言われるとなんだか楽ですね。楽に話せそうな気がします」

「ただ単に口が悪いだけだよ」

 背中越しに返事をすると、

「照れてるのか」

 と忠海が口を挟んだ。

 坂井は少し笑い、

「これだけ暗いと顔も見えませんしね」

 と言った。それから話し始めた。

「ぼくは教師でした。臨時採用の。奈津と出会ったのは小学校です。四年生のクラスに奈津がいました。明るくて、本当に明るくて、なんていうか、今どき珍しいくらい子供らしい子供でした。本当に良い子で……ある日、奈津の母親が自殺しました。風呂場で頸動脈をカミソリで切ったんです。普通、風呂場なら手首ですよね。おかしいですよね。でも、実際首を切ってて」

 喬志は振り返り、奈津を見た。奈津は無防備なくらい忠海に頼り切ったようすで体重をあずけていた。坂井の話を聞いているのか、それとも何か他のことを考えているのか、喬志には判らなかった。

「ぼくは刑事から詳しい話を聞きました。本当に二人組なんだな、なんて馬鹿な感想を持ちながら彼らの話を聞いた。奈津は死んだ母親を一晩ずっと見ていたらしいという話でした。奈津は一人っ子のわりに躾の厳しい両親のもとで育ち、外から遊んで帰るとまず泥だらけになった足を風呂場で洗うんです」

 坂井の声がかすれる。

「父親は出張に出ていたそうです。一晩家を空けてんですね。かれは家に帰ったとき、電気がどこにもついていないので変だなと思ったそうです。暗い玄関で靴を脱いでリビングを横切ると浴室から明かりがもれていた。ドアを開けると血で真っ赤になった浴室で、母親の死体を前にして奈津が座りこんでいたそうです。ずっと、水も飲まず、何も食べず、死体を見ていた――奈津はそのときからほとんどしゃべりません。学校に出てくるようになるまで、それから一か月かかりました。医者の話ではきっかけさえあれば元のように話せるようになるということで、転校せず、ぼくの前に戻ってきたんです。それから……」

 沈黙が流れた。振り返ると坂井は下を向いていた。顔が影になり、表情が読めない。

「それからどうした。いじめにでもあったのか」

 喬志の声に、坂井の身体が大きく震えた。

「そうです。でも、それだけじゃなかった。奈津がいじめられて学校に登校しなくなって、心配でぼくは奈津の家に行きました。マンションのドアの前に立つと、中から悲鳴が聞こえました。あわててチャイムを何度も押しました」

「―――――――」

「平日の早い時間なのに父親が出てきました。今の悲鳴は奈津くんの声じゃありませんか。ぼくがそう訊ねると、父親は『なんだか母親の夢を見るようで』そう言いました。『先生、もう少し奈津が落ち着くまで待ってやってもらえませんか』そう言いました」

 坂井の声は徐々に熱く暗いなにかを孕みはじめた。まるで坂井の身体の中に膨れ上がってきたものがおさえきれず、声に滲みはじめたかのようだった。

「帰りながらぼくは気がつきました。父親の息がわずかに乱れていたことに。酒の匂いがしたことに。戻ってみるとドアが開いていました。父親の判断力はきっとアルコールで極端に低下していたのでしょう。ぼくが見たのは奈津の頭をサッカーボールみたいに父親が蹴った瞬間でした」

 坂井が床を殴る音がした。暗い部屋で坂井の目がぎらついているのがはっきりと見て取れた。無表情のまま目の前を灼けつくような視線で睨んでいた。

「ぼくはあの時の、あの光景が焼きついて頭から離れない。母親を失った子供の頭をサッカーボールみたいに蹴った父親の顔が。変な話ですけど奈津の頭は本当にサッカーボールみたいだった。なんだか父親の狂気にぼくまで染まるような空気が部屋に満ちていたんです。殺せばよかったんですよ、ぼくは。今でも夜中に起きてそう思います。殺すべきだったんです。あいつは昼間から奈津を殴りつけていたんです。酒の肴に。『お前が代わりに詩ねばよかったんだ』と、そう何度も呪文みたいに繰り返しながら。ぼくは失敗したんです。あと一歩、何かが遅れたらぼくは殺せました。そこまで追い詰めていたんです。ドアを開けたままにしていたのが致命的なミスだった。誰かの悲鳴が響いて、ぼくは気がつくと奈津を抱いて走っていました。手にはいくらかの現金と、銀行の通帳、それにパスポートがありました。部屋を出る直前に、箪笥の引き出しをひっくりかえしていたんです。やみくもに手に触れるものを持って出たのに、それだけは幸運でした。すぐに飛行場に向かって、飛行機に文字通り飛び乗った。たぶんもっと他に何か、なにかいい方法があったのかもしれない。けれど、ぼくにはあんな部屋に奈津を置いていくことなどできなかった。無理だった。どうしても。奈津を違う部屋に、違う場所に連れて行きたかった。あそこではない、別の、どこか違う場所で静かに奈津と一緒に座って話をしたかった。……それだけなんですよ」

 坂井は長いため息をつき、話を終えた。

 いつの間にか、外は明るくなりはじめていた。


 太陽が昇る前にガネスの頭と手のひらは、肉と骨にきれいに分けられた。

 見つけたハンマーで頭蓋骨と両手の骨を砕くと、その破片を袋に集めた。後でやすりをかけて少しずつ粉にするのだ。部屋を掃除し痕跡を消すと、忘れ物がないかを点検してから外に出た。スープは下水に流し、残りの肉片は、半分を路上をうろついている犬に、残りの半分は川に捨てた。それぞれの場所で野犬と魚がそれをたいらげ、つつくのを見終えてKハウスに戻った。

 奈津を除く三人が交代でシャワーを浴び、前後のことはひと眠りしてから考えることにした。

 身体中がじんじんとしびれていた。

 目を閉じた途端に、喬志は高い場所から落ちていくように眠りについた。目を覚ましたのは三時間後だった。

 頭がうまく回らなかった。

 口中を血だらけにして目覚め、奈津と坂井と出会い、ガネスにレイプされ、ガネスを処理し、坂井の身の上話を聞く、という長い、特別なフルコースの一日であったのに、ゆっくりと眠っているわけにもいかないのだ。

 日中の暑さのせいで、身体が汗でべとついている。

 忠海だけが起きて腕組みをしているのを確認してからシャワーを浴びた。

 温かい水が束の間流れ、じきにいつも通り、冷たい水が流れ出す。

 シャワーから出ると忠海が列車のチケットを渡してきた。ブッダガヤ行きのチケットだった。

 ブッダガヤ。仏陀が悟りを開いたことで有名な土地だ。バラナシから十時間、列車で移動するとガヤ駅につく。そこからブッダガヤまではバスで移動する。

「なぜブッダガヤなんだ」

「日本寺がある」

 そういって忠海は好色そうな笑みを浮かべた。

「日本寺の食事はな、粥と沢庵だ」

 真っ白い粥と淡い黄色の沢庵が浮かんだ。のどが、ぐびっと鳴った。

「近くの町で小さな祭りがある。退屈しのぎに三か月くらい隠れていればいい」

「いいですね」

 シャワーを終えた坂井が割りこんできた。

「ブッダガヤに行くぞ」

 忠海が叫ぶと坂井が拍手した。それを見て、起きてきた奈津も手をたたいた。

 昨夜の緊迫感は、忠海の粥と沢庵で吹き消されてしまった。苦笑し、なんとなくくすぐったいような感じに包まれて喬志も手をたたいた。

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