5
身体が動かない。
「五人の男にかわるがわるレイプされた女性の話はしたっけ?」
懐かしい声が聞こえる。喬志がどこかで聞いた覚えのある声だった。
「イスラム圏での話なんだ。イスラム教ってすごい性に厳しくて、厳格な戒律があって、男は結婚するまで女の子の手を握るどころか顔を見るのも難しいんだ。そんなふうに締めつけられた、ある小さな村に住む五人の男が、山道で金髪の女性と出会った。短パンにタンクトップ姿の女性にね。男たちはかわるがわる犯した」
暗くて、身体がふわふわする。小さな声が話を続けた。
「男たちが満足した後、彼女はこう言ったんだ。『凄かったわ、本当に、最高にすてきだった』って。それで一緒に記念写真を撮ってもらえないかと持ちかけた。『写真ができたら送るわ。アドレスを書いて』って、彼女は言ったんだ。男たちは喜んで書いたって」
忍の声だ。
「その女性は、男たちと別れてすぐに大使館に駆け込んだ。強姦罪で告訴するために。写真と住所がはっきりしていたから、男たちはすぐに逮捕された。でも裁判にかけられる前に五人とも死んだ。首まで掘られた穴に埋められて、顔に石をぶつけられて」
喬志は声を出そうとした。忍と話がしたかった。
「村人全員で殺したんだ。その小さな村にとってはとんでもなく罪深く、恥ずべきことだったから、村人たちで裁きをおこなった。小さな子供から、年寄りまで、全ての村人が石を投げて殺した」
忍は少し悲しそうな声で言った。
「ぼくは好きだな、その女性が」
そして、こうつけ加えた。
「その女性も一緒に石を投げられたら良かったのに」
「そうだな」
まどろんでいた喬志は、自分のつぶやいた声で本当に目覚めた。
昔、忍から聞いた話だった。
夢と呼ぶにはあまりにも生々しすぎた。今も、ガネスにレイプされたときも、忍は本当に喬志のそばにいるようだった。
今でも死んだなんて信じられないのに、どこを探しても、どこに行っても、忍には会えない。
のろのろと身体を起こし、床に落ちたジーンズを拾いあげる。ガネスはポケットのナイフを取り上げてはいなかった。
刃を引き起こす。ナイフの重みが、手のひらに吸いつくような感触が、喬志の心を重くしてゆく。冷たく、硬くしてゆく。
もみくちゃになったシーツのすき間にナイフを隠し、周囲を見回した。
狭い部屋だった。ダブルベッドが部屋のほとんどを占領している。ベッドは部屋の奥に据え付けられていた。窓、というより四角い穴が壁に空いている。出入口は廊下に続くドアがひとつしかなかった。
とにかく、ここを出なくてはならない。
奈津が心配だった。それにガネスだ。
ガネスをこのまま許しておくほど、喬志は心の広い人間ではなかった。穴に埋めて石をぶつけてやる。
おそらくと喬志は思う。ガネスは油断している。
用意の周到さと、何気ない慣れのような感じから、ガネスはハシシと覚醒剤をカクテルさせて、過去に何度かこのようなレイプを行っていたのだろうと思えた。大抵の人間は、ドラッグを使ったレイプの快楽と、そしてレイプされたショックに思考力を奪われる。
だからガネスは油断しているはずだ。そこをうまくつけば、チャンスはあるはずだった。ガネスを嵌める罠について考えながら、頭の片隅では忍のことを思い出す誘惑に逆らえなかった。後に耐えがたい苦痛と寒さを感じるのが明らかだとしても。
部屋に戻ったガネスは放心している喬志を別の意味にとらえたようだった。
あいにくだったなガネス。声に出さずに胸の内でつぶやくと、ガネスが口を開く前に、膝と手をついてすり寄った。シャワーを浴び、服を着たガネスの前まで進むとズボンのファスナーをおろす。
「プリーズ・ワン・モア。プリーズ」
それを取り出し、口に含んだ。
舌の先をつかって舐め、口をすぼめてしごく。喬志が上目づかいに見上げると、ガネスの目に再び欲情の火が灯った。
硬さを増したものをくわえたまま、後ろ向きに這った。ガネスはおとなしくついてきた。ドアからベッドまでたどり着くのにそれほど時間はかからなかった。
ベッドにかかとが触れると、喬志はわき腹に拳をたたきこみ、ベッドに手を伸ばした。ナイフを手に取る。
ガネスは後ろ向きに倒れ、ドアに頭をぶつけたまま失神していた。喬志の左手には肝臓に入った充分な手応えが残っていた。ガネスに近づき、喬志はもう一度同じ場所を蹴った。足をおろさず、胃袋へかかとを突き刺す。
ガネスは手を持ち上げようとした。口を開こうとした。どちらも満足にこなすことはできなかった。
喬志はゆっくりとガネスの足の間にしゃがみこんだ。動けないガネスの股間に顔を埋め、それをもう一度くわえた。ゆっくりと時間をかけて育てる。充分な硬さになったそれを左手で床に固定すると、喬志はガネスの目を見た。
ガネスの目の中に、脅えと、驚愕と、欲情の光が溶け合い、複雑な色になる。
喬志は微笑むと、床に固定したものにナイフを突き立て、一気に手前に引いた。
一瞬、ガネスの目が信じられないというように見開かれた。絶叫するガネスのこめかみを殴って、再び意識を奪う。それは見事に二つに分かれて縮こまっている。
(十文字に切って、四本にしたかったな)
喬志は全裸のまま奈津を探した。返り血をかなり浴びていた。奈津は一階の奥の部屋で、椅子に縛りつけられていた。
「もう大丈夫だ。いい子だったな」
奈津は落ち着いていた。怯えてはいるようだったが、驚くほど自分を保っている。
「あと少し待っててくれ。頼む」
奈津がうなずくのを見て、喬志はスピードを探した。
注射器はデスクの上に、粉は食器棚のクッキーの横に収めてあった。粉を水で溶くと、注射器に満たした。
二階にあがり、ガネスのそばに座った。まだ意識を失っている。腕に注射器を刺してポンピングする。注射器の中で血液とスピードをゆっくりと混ぜ、注意深く少量ずつ注入した。それから太ももをナイフで切り裂いた。
オーヴァードーズに出血多量。二つのハードルをクリアできれば、ガネスは助かるかもしれない。
シャワーで血を洗い流すと、手早く服を身につけた。
「がんばってな、ガネス」
日本語で声をかけ、奈津の手を引いて外に出た。日が沈み、ようやく過ごしやすい気温になっていた。
宿に帰ると部屋中の電気が消えていた。太い蝋燭があちこちに置いてある。
「どこに行ってたんですか」
隣のベッドの男が戻った喬志を見つけ、気色ばんで詰問してきた。
「停電なんだな」
「いつも通りに」
忠海が答えた。夜間の定期的な停電だった。テーブルの上や、ベッドの脇に蝋燭が灯りをともし、不安定に揺れる影を作り出していた。天井のファンも動きを止めている。
隣のベッドの男は奈津を点検していた。服についた血を見つけた。
「奈津の血ではないよ」
詰め寄った男に言った。
「血がつくなんて普通じゃないでしょう」
「すぐに洗濯すれば、きっと明日には消えてるよ」
つかみかかろうとした男を忠海が後ろから捕まえた。
「もう少しちゃんと説明したほうがいい。本当に心配していたんだ」
喬志はため息をつくと、タバコを引きぬき、蝋燭で火を点けた。紫煙と一緒にもう一度ため息をつく。
「ところで、あんた誰?」
男の目がつり上がった。
おれは今、普通じゃないと喬志は思った。レイプされたからなのか、疲れすぎてハイになっているのか。どちらなのかはわからなかった。ただ、だんだん男をからかうのが楽しくなってきた。
「それから気になっていたんだけど、なんで奈津は口をきかないの?」
男は怒りのためか口がきけなくなっているようだった。
どちらかといえば端正な顔立ちだった。多少神経質そうだ。長めの髪と薄い唇がその印象を助長していた。傷つきやすい目をしていて、全体に線が細く、それがある種の保護欲を刺激するように見えた。
「ぼくは小沢要といいます。奈津の叔父にあたるものです。保護者として何が起こったのか知っておきたいんです。動揺していたものですから失礼な口調になっていました。お名前は」
「大月喬志」
「大月さん。奈津になにかあったら兄に申し訳がたちません。だから話していただけませんか」
男は見事に逆上した自分を抑えていた。喬志のはしゃいだような挑発が、逆に男を冷静にさせたようだった。
なにかが、喬志の記憶に引っかかっていた。
「申し訳なかったな、小沢さん。ちょっと色々とあってね。本当は昼食を食べに行っただけだったんだが……」
「血の話を聞かせてください」
ぼやけていた映像にピントが合うように、記憶が鮮明に浮かんでくる。
「大月さん」
「――小沢?」
朝の会話を思い出した。
「あんた、おれに何を言ったか覚えてないか」
「まったく。何を言ったんです」
「だいぶ疲れているようだったしな」
「血はどうなりました」
「けっこうしつこいな、あんた」
「当たり前です。話してください」
「おまけに頑固だ。ところでおれは物覚えのいい男でね。つまらんことばかり覚えているんだ。いらないものを捨てられないみたいにね。あんたさ、朝には坂井要ですって名乗らなかったかな」
男が――坂井が――身体を一瞬震わせた。
「どん、ぴしゃりだな」
タバコをもみ消した。
「誘拐でもしてきたか、この子」
坂井の目が光った。握った拳がふるえていた。
「坂井さんは奈津の親戚ではないようだ。もちろん親にも見えない。おまけに、ずいぶんと慌ただしく日本を出てきた」
「なぜそう思うんですか。何を根拠にそんなことを」
「荷物がね、少なすぎるから」
言って、喬志は床の荷物を指さした。
「いかにも、時間がなくて取るものもとりあえず出てきました。そういう荷物じゃないですか」
坂井は唇を噛んで、下を向いている。
「もうやめろ」
忠海が口をはさんだ。
「誰にだって事情があるんだ。坂井くん、言いたくないことは、言わんでもいい。なにがどうあれ、あんたは奈津のことが心配だったんだから。それは判るよ。喬志だって、このおれだって、なんやかやがあって、こんなところでふらふらしてるんだ」
「なんだよ、おれが悪いみたいな言いかたよせよな」
「だったら何があったかそろそろ話したらどうなんだ」
「判ったよ。話すよ」
ガネスに呼び出され、嵌められたこと。レイプ。ほとんど洗いざらい話した。忍の話はしなかった。
「ガネスか――」
一言いったっきり、忠海はしぶい顔で腕組みをした。
「そんなわけで、おれはガネスの野郎にちょっとした仕返しをして、疲れ果てて帰ってきたんだ。野郎の精液がぷんぷん匂うし疲れて気分も機嫌も悪いし、さっさともう一度シャワー浴びて眠りたい。何もかも忘れたいんだ。だから、もういいかな」
坂井は一言、すみませんでした、と謝ると黙りこんだ。
坂井は話の途中で動揺し、驚き、レイプの話をしたあとは、恐縮したようにひらすら身体を縮こまらせていた。感情丸見えの可愛いところもあるなと喬志は思う。
奈津は相変わらず一言も口をきかなかったが、熱心に話を聞いているようだった。奈津もあるていど事情を知りたかったのだろうか。レイプの意味が判ったのかどうかは、喬志には読み取れなかった。
「ちょっと待て」
冷たいシャワーを浴びようとした喬志を忠海が呼び止めた。
「……初めて会ったときから思ってたんだがね」
「愛の告白なら、明日たっぷり眠ってから聞くから。今夜は勘弁してくれよ」
「いきなりこんなことを言うのもどうかと思うんだが、なんて言ったらいいのか判らんしな」
喬志の冗談にはつきあわず、忠海は真剣な顔で口ごもった。
「おやすみ」
背中を向けたが肩をつかまれ引き止められた。
「何だよ」
「ガネスを殺したのか」
いきなり口調を変えて、真剣な声で忠海が言った。
「……なんだよそれ」
「あの血がね、気になってな。……死人の匂いがするんだ、あんたから。なぜかは判らんけど、最初から思ってた。危なっかしい目をしてるってね。人が死んでも動じない、みたいな目だ。――もしかして、あんた、ガネスを殺したんじゃないか。なあ、ちょっとした仕返しって何をしたんだ」
「変だな」
「何が」
「なんでそんなガネスが気になるんだよ」
「あいつは小物だけど、それなりに重要人物でもあるんだ、この街じゃな。薬も扱ってるし、リキシャの元締めもやってる。裏の顔も広い」
諭すような声だった。坂井がこっちを見ていた。奈津も。
「そういう人間がある日死ぬ。事故ではなくて殺されていた。すると、死ぬ前に出入りしていた人間があやしいと疑われる。そして、何が起きるか。どこの世界でも同じことだ。報復がある」
忠海はため息をついた。
「あんただけなら、おれも放っておく。面倒だからな。おれだって、これで忙しい身なんだ。けどな、奈津も狙われるぞ。あんたと一緒にいたのを知られてるからな。だからさ教えてくれないか。おれの勘は当たっちまったのか。ガネスが生きているなら、死なない程度に助けないとならんし、死んでるなら動く準備をしたほうがいい」
それきり忠海は黙った。長い沈黙が部屋を満たした。
「生きてるはずだ」
喬志の言葉に、忠海が安堵の吐息をついた。
「おれが出るときは、息をしてたよ。運が良ければ、たぶん、今も生きてる」
「死んでなければ方法はある。向こうにも弱いところがあるからそこを突っつけばいい。けど運が悪ければ」
忠海は後を続けず、そのままドアを開けた。喬志も外に出た。
「ぼくも一緒に行きます」
坂井の声が後ろに聞こえた。
おそらくガネスは失血とスピードのショックで足がもつれたのだろう。それとも、血で滑ったのかもしれない。
ガネスは階段の下に倒れていた。
「運が悪いね」
「誰の」
坂井と忠海が同時に言った。
ガネスの首の骨が折れていた。死んでいる。
少なくとも、と喬志は思う。ガネスは出血とオーヴァード―ズのハードルをクリアしようとした。けれど三番目のハードルにひっかかった。
(おれたちもハードルに足をとられたけどな)
来る途中で寝ついた奈津の寝息が聞こえる以外、オフィスは死んだように静かだった。
誰も、一言も口をきこうとしなかった。
誰も、動かない。
「まいったな」
忠海が言った。
「時間が足りんな。こっちは子連れだ」
「奈津はぼくが守りますよ。忠海さん一人なら大丈夫なはずです」
坂井が言った。忠海は自分の足元でまるくなっている奈津を見つめた。
「見え見えの弱音だったな。すまない。奈津はいい子だ。おれにもわかる。だから、一人で逃げるつもりはない」
「おれのせいだ」
「あやまることないですよ」
坂井は言った。
「生きてたら、こいつは奈津にも手を出していたかもしれません」
「出してたな間違いなく」
忠海がぼそりとつぶやく。
「たちが悪いんだ、こいつは。何人か、日本人も行方不明になってるよ」
くそ、と毒づいた。忠海は本気で腹を立てているようだった。
「しかたないっちゃ、しかたないんだ。ガネスは正真正銘のくそ野郎だったんだから。おれは坊主が言ってりゃ世話ないが、こいつが死んでせいせいしたよ。他の場合だったら拍手喝采して、ダンスしてもいいくらいだ。――起こったことはしょうがない。乗りかかった船だ。別個に動くのは反対だ。皆で動いたほうが、まだしも襲われても対処のしようがある。大使館に逃げこんでもいい」
坂井が顔を伏せた。
「それはできることなら避けたいですね」
「おれも同感だ」
「なんだ、坂井くんも喬志も後ろ暗い何かがあるんだな」
「あんたもだろう」
「どうだろうな。ただ、奈津が危険な目にあうくらいなら大使館もやむを得んとは思う」
「ガネスを川に流したら? 布にくるんで流せばいい」
喬志の提案に、忠海はうなった。
「そりゃ、うまく流れれば時間は稼げる。だが何かに引っかかると、すぐに身元がばれるな。警察もそうなったら黙ってはないだろう」
「でも警察に本当のことを話せば」
「警察も大使館も、あんたにゃ同じだろう」忠海が言った。「近寄りたくない場所なんじゃないのか」
「じゃあな忠海。さっきの川に流す案にプラスアルファしたらどうだ」
「どんな」
おかしなもんだ、と喬志は思う。
「あんたの勘は鋭いよ、忠海。おれの日本での仕事、何だと思う」
「なんだ、藪から棒に」
「笑うよ、きっと」
「よくわからんな。さっきのプラスアルファの話はどうなったんだ」
忠海が不審そうに言う。
「死体を処理してたんだ。高い金をとってね」
喬志は暗く笑った。
「ちゃんとした葬式をできない仏さんの始末をしてたんだよ。おれの身体には死んだ人間の匂いがしみ込んでる。八年間、ずっと処理してきたからな。身元がばれないように、頭と手足を切り取って、鍋で煮るんだ。肉を剥がして、残った骨は砕いて。そうすると、死体から得られるデータは極端に減る。首から先がない身体は、だから捨てやすい」
だからさ、と喬志は続けた。
「とりあえず、鍋にコンロ、それと手ごろなスプーンを探そう」
初めて死体を見たのは、十七歳の夏だった。
兄からの電話で向かった場所に死体があった。歳の離れた兄は混乱していた。車で轢き殺してしまった。事故なんだ。いきなり飛び出して来て。震え、怯えた声で兄はしゃべった。沈黙するのに耐えられないようにしゃべり続けていた。
黒い長袖Tシャツを着た、ずいぶんと太った中年の男だった。頭から血を流し、白目をむいている。まったく動かない。
「兄貴はどうしたいんだ、この男を」
喬志の問いに、兄は一瞬口を閉じた。
「け、け、警察は嫌だ」
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
他に言葉を知らないように兄はわめき続けた。地面に跪いたまま、喬志の足にしがみついてくる。
両親を幼いころに亡くした喬志の生活を支えてきたことだけが唯一の自慢の、他に取り柄のない男だった。レールを踏み外さないことだけが誇りの男だった。喬志にだけ高圧的な態度を取る、気の小さい男だった。喬志は親代わりの唯一の肉親であるこの男がどうしても好きになれなかった。
間延びした、怯えて引きつった顔を見下ろした。兄は足にしがみついたまま、嫌だと繰り返している。周囲に人はいなかった。兄の足を蹴り飛ばすと、いつも持ち歩いているバックのナイフを手に取った。
首と手足を切り離せば、死体には個体差がほとんどなくなる。むろんDNA鑑定をされれば死体の身元は判るが、今回の死体と兄には接点がない。おそらくこの男は死体が見つかるまでは行方不明者として判断されるだろう。死体が発見されても、膨大な数の行方不明者とこの死体のDNAの鑑定を照らし合わせるとは思えない。
山に埋めた死体は、見つかることすらなかった。
それが初めの一歩だった。
それから兄が死んだ。生命保険金が喬志に入った。ほとんど自殺だった。自責の念に耐えきれず、注意力が散漫になり、車で事故を起こしたのだ。
それから死体処理が喬志の仕事になった。
良い依頼人を探すのは長い時間と手間がかかるが、それでも一件当たりの利益は相当なものだった。一年に二度仕事をすれば四百万になった。それほど贅沢な暮らしはできないが、喬志が生きていくぶんには充分な額だった。
やくざに仕事が見つかりトラブルになりかけたが、手数料を渡すことでそれも解消した。利益は減ったが、直接依頼人を探さずともよくなり、裏道を歩く人間が仕事を紹介してくれた。年に二回の仕事が三回になり、時には人を殺すこともあった。けれどそれは喬志にとってそれほど苦痛ではなかった。
初めて人を殺してそれに気づいた。
二か月、その男を張っていた。
ある日、尾行していたその男が死体になったイメージが浮かんだ。その瞬間を逃さず駆けよって殺した。背中からナイフで刺したのだ。男は喬志のイメージ通りに路上に横たわった。とても簡単だった。
やくざは喬志に金を払い、依頼者から金を何度も強請っていた。喬志はそれを知っても何も感じなかった。
そのころから、仕事と仕事の合間にアジア方面に浮かう回数が増えた。それがある意味では癒しの儀式めいたものになっていた。
香港から始まり、インド、ネパール、パキスタン、トルコと場所を変えて旅は続き、ヨーロッパに足を向けることなく再びインドに帰った。熱と匂いが気に入っていた。いつか仕事をすませ、海外にいる自分が本来の自分になっていた。
日本での生活は、仮の、便宜的なものにすぎないと思っていた。
忍に会うまでは不満のない生活が続いた。
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