4
男は落ち着きがなかった。
村上忠海は、男を観察していた。
男は部屋を端から端まで歩き、五分おきに時計を眺め、通りに視線を巡らせた。
起きてから少しもじっとしていない。男は突然目を覚ましたかと思うと、慌ててあたりを見回し、連れの子供を探しはじめた。
「おはよう」
忠海はとびきりの明るい声で男に話しかけた。
「やっと起きたな」
眠っていた男はすがるような視線で忠海を見ていた。
「子供のことなら心配しなくて大丈夫だ」
「奈津がどこにいるのか知っているんですか」
「おれの連れと一緒に飯を食いに行ったよ」
部屋は相変わらず暑かった。どこにも涼しい場所などない。
「覚えてないか。あんた一度起きて、礼を言ってたよ」
忠海の言葉を聞いても男の顔から心配の色は消えなかった。
「心配しなくてもそろそろ帰ってくるよ」
忠海の言葉は少しも効果がなかった。男は束の間座ったかと思うと、急に立ち上がった。
「どこに行くんだ」
「ちょっと外の通りまで」
「なあ、少し落ち着いたほうが良いと思うがね」
見かねた忠海の言葉は男の耳を素通りしていくようだった。男の返事はなく、そのまま階段を降りる足音が響いた。
忠海は喬志と出て行った子供の姿を脳裏に浮かべる。
小さな男の子だった。くりくりとした目で頼りないくらい細い首だった。小さな手で喬志のシャツの裾をしっかりと握っていた。
内気そうな、それでいて、強引に喬志についていくあたりが、本来の芯の強さをうかがわせる、そんな子供だった。
あの男は小さな子供のことで、みっともないくらい動揺して、うろたえている。
スーニーがまだ幼かったころの自分と同じだ。
スーニーが転んで牛に頭を踏まれたことがあった。
男が四人がかりで忠海を動けなくした。そうしなければ、忠海が素手で牛を殺しかねなかったからだ。誰であっても、神聖な牛を殺すことはできない。
あの時、忠海は本当に殺すつもりだった。後で両手を切り落とされようと、殺されたとしても、どうしても我慢できなかったからだ。
幸い、スーニーは頭から少し血を流しただけで、後に傷も残らなかった。それを医者に聞くまでの真っ黒い絶望を思い出す。
自分の大切な部分がごっそり消えてしまったような、たまらない、ぞっとするような喪失感に絶え間なく責められた。
時計を見た。四時だった。
ランチライムはとうに終わっている。そろそろ、喬志が男の子を連れて帰るころだろう。
万が一、男の子が帰らなければ、あの男はどうするだろう。やはり自分のように誰かに復讐するだろうか。自分と同じように、自分を責めて責めて、いつかその痛みなしでは息をすることもできなくなるのだろうか。
血まみれの記憶を引きずるのだろうか。
階段を登る足音がした。喬志ではなかった。
男の顔はかなり強張っていた。
「……本当に」
男が言った。
「本当に――帰ってきますか」
「当たり前だ」
忠海はうなずいた。
「ちゃんと帰ってくるよ、必ずな。だからとりあえずシャワーでも浴びたらどうだ」
男の表情は納得したようには見えなかったが、それでもシャワーを浴びに行った。シャワールームに消えると、忠海は過去へと戻っていった。
記憶の氾濫は一度勢いがつくと、止まらないようだった。
サンディと会ったころを思い出す。
自分が結婚しようなどとは、あのころの忠海には想像もつかないことだった。やくざにもなれない半端もので、ドラッグの密輸を個人で行って生活していた。
何度かは自分で運び、疑われるようになってくると、初めての海外旅行に行った大学生に運ばせた。日本の空港ではパスポートを見て人物の中身を判断する。忠海のように何度もインドを訪れるものは徹底的にチェックするが、初めての海外旅行者には多少の手を抜く。何人かの頭の軽そうな男女に運ばせた。便箋をLSDの溶液に浸してから乾燥させ、それに文字を書いて手紙を書いて投函したこともある。
ゴアでサンディと会い、それが密輸稼業から足を洗うきっかけとなった。サンディはアメリカ人で、ビートルズに心酔していた。そして忠海にひと目ぼれした。
初めは愛などなかった。忠海は女に飢えていたし、第一、ゴアは忠海のようなチンピラにもやさしい、暮らしやすい土地だった。クリスマスにLSDのパーティーは行われなくなっていたが、それでもゴアはやはり天国だった。だから、ずるずるとサンディとの関係を続けた。
そしてスーニーが生まれた。
根無し草だった忠海にとって、自分の子供は生きている証に思えた。
光に包まれているように思えた。
ゴアを離れ、スーリニでもぐりのガイドを始めたのは、それからだった。日本人相手にサービスし、少しだけ他のガイドより高い金を稼ぐようになった。
かけがえのないほどの、それは、時間だった。
家族とともに生きるという大切な時間だった。
その幸せも、ある日消えた。
男がシャワーから出てきた。
まだ喬志たちは戻る気配もない。
忠海は自分で自分の頬をはった。
そして昔のことを考えるのをやめた。
時計の針が六時を過ぎ、七時になっても、喬志たちは戻ってこなかった。
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