3
「あなたがオオツキさんですか」
「ああ」
男は、まずかけて下さいとソファを指さした。小さなガラスのテーブルをはさんで模造革のソファが向かい合わせに置いてある。
「日本語が上手だな」
「それほどでもありません。日本語は難しい」
「謙遜までできるのか。口のうまい商売人なんだな、あんた」
その男は喬志の皮肉を、立ち上がって受け流した。そのまま奥の部屋に入った。食器の触れ合う音がした。
レストランで声をかけてきた男は、汚い巻きスカートにシャツを身につけたオートリキシャの運転手だった。男は、ガネスという人があなたを探している、ということを長い時間をかけて、かなりブロークンな英語で喬志に話した。無視して奈津を連れて出ようとした喬志を引き止めたのは、「ガネスはカーリーを知っている」という一言だった。
眠そうな奈津を抱えあげると、巻きスカートの男のオートリキシャ、キャブ付きの三輪車に乗りこんだ。
奈津が眠りに落ちたころ、リキシャは目的地に着いた。そこはバラナシ駅に近い場所だった。シンプルで飾り気がない二階建てのビルに『ガネストラベル』という看板が出ている。
一階のドアを押すと、飛行機や列車の時刻表、それにメモがデスクの上を乱雑に覆っているのが目に入った。壁に大きなインドの地図が貼ってある。
ガネスはゆったりとしたシャツにジーンズという、ラフな格好で喬志を迎えた。シャツは巻きスカートの男と比べると、まるで別の色のような、染みひとつない清潔な白だった。巻きスカートの男にいくらかの金を握らせるとすぐに追い払った。顔立ちは、どちらかといえば西洋風で、肌の色もそれほど黒くはない。見事な口髭がよく似合う男だ。おそらくカーストもかなり高い人間なのだろう。笑顔も好印象を与えるかもしれない。ジャンキーに特有の血走った、卑屈な目をしてなければ。
「その子供はあなたの子供なのですか」
ガネスが紅茶を運んできた。クッキーも一緒だった。
紅茶はおなじみの緑色のグラスではなく、高そうな磁器のカップに入っている。
ガネスの質問には答えず、喬志は話を切り出した。
「カーリーについての話をしたいとのことだったな」
「失礼、シュガーを忘れました」
「待て」
立ち上がろうとするガネスの腕をつかんだ。
「はぐらかすな。おれに用があったんだろう。話を始めよう。おれが知りたいのは、カーリーが今、どこにいるのかだ」
目と声に力をこめた。
「わかりました」
浮かしかけた腰をソファにすえると、ガネスは静かにもう一度同じ言葉を繰り返した。
「わかりました」
そのまま、しばらくガネスは目を閉じた。カーリーの話をする前に、考えをまとめているようだった。
あるいは、自分を騙す算段をしているのかもしれないな、と喬志は思う。この男は、どうにも素直に信用できない臭いがした。
ともかく、まずはガネスの話を聞かなければ何もはじまらない。喬志はゆっくりと待つことに決めた。奈津は喬志の隣で眠り続けている。焦る必要はない。
クッキーと紅茶に手をつけた。クッキーはおそろしく甘かった。
ゆっくりと、目を閉じたまま、ガネスが話しはじめた。
「我々もも彼を探しているのです」
「ということは」
喬志はクッキーを口に頬張ったまま言った。
「あんたも、カーリーの居場所をつかんでいるわけじゃないのか」
黙ってガネスがうなずいた。
「カーリーは我々をひどい窮地に追い込みました」
目を開けると、喬志を正面から見た。
「このままでは、わたしは責任を取らなければならないだろう」
言葉を切って、すがるような目を喬志に向けた。
「わたしは殺されます、このままでは。だからカーリーを捕えたいのです」
喬志は天井を見上げて、ため息をついた。
「わたしたち二人は、二人ともカーリーを探しています。たぶん、お互いに有益な情報を交換できるかもしれません。我々は助け合うことが可能かも」
ガネスのオフィスには、どの家庭でも見ることのできる大きなファンが天井についていた。そのファンが部屋の空気をゆっくりとかきまわす。
「なるほど」
カーリーの居場所を知らないのでは、喬志にメリットはない。何よりも、ガネスの目には拭っても拭いきれぬ、狡猾な光を容易に見て取ることができた。
それでも喬志がその場にとどまったのは、つまるところ、カーリーについて知りたい気持ちを抑えることができなかったからだ。
写真でしか見たことのない男。忍がいつも気にかけていた男。いつまでも捕まらないその男を、少しでも知りたかった。
この暑さの中、子供連れで歩くのにうんざりした、というのも理由のひとつだったかもしれないが。
「あの男は、トラブルを食って生きてたんです
ゆっくりとガネスが話し始めた。
「わたしたちはある仕事を共同で行っていました。我々は、荷物を別の場所に運ぶ、あるいはある地域で売るというような行為で利益を得ていたのです」
「なんだ荷物って」
「ある、特別な、荷物です。先月のことです。我々は大量に荷物を運んでいました。荷物にはカーリーがついていました。私は受け渡しの場所で待っていました。けれど約束の時刻が過ぎてもカーリーは姿を見せませんでした。それ以来、カーリーの行方はわからないのです」
「回りくどい言いかたはやめろ。カーリーはドラッグを持ち逃げした。そうだろう」
ガネスの目が丸くなった。
その目が充血している。体重も身長のわりになさそうだ。普通、上の地位にいる売人が薬に手を出すことはまれだが、それでも充分ありうる話だ。ありふれた、どこにでも転がっている話だ。
「何を持って行ったんだ? ハシシ、スピード、LSD?」
「……PCPです」
言いにくそうにガネスが口を開いた。
ぴゅう、と喬志は口笛を吹く。
「また珍しいな、エンジェル・ダストか。それを取り戻したいというわけね」
「方法はあるんです」
「志あるところに道はあるか。けど無理だろう」
「なぜです。まだ何も話してませんでしょう」
不服そうに喬志をにらんだ。つまらないプライドは高そうな男だ。
「居場所もわからないのに何ができる。紅茶のおかわりもらえるかな。クッキーは全部食べていいのか」
もちろん、というようにガネスはうなずき、陶器のポットから紅茶を注いだ。口中に頬張ったクッキーを紅茶で流しこんだ。
「人質を取るつもりです。それを街中に知らせればいい。あなたの存在がわたしに伝わってきたように、相手がどこにいるのか知らなくても、それを伝えることはできるはずです」
「カーリーがまだバラナシにいるなら、そうだろうな。ところで人質は……」
「街から出てはいないはずです」
「おれも調べたが、同じ結論になったな。列車のチケットを買った跡がない。それで人質は誰なんだ」
「彼を街の外へ運んだリキシャマンもいません。ネパール行きのバスにも乗っていない」
喬志はガネスをにらんだ。
「おれは帰るよ、ミスターガネス」
「急にどうされました」
「なぜ、故意におれの質問を無視する? それに話からすると、どうもおれが協力できそうなところがまるで見当たらない」
「それは、これからお話するつもりです。その前に、なぜ、カーリーを探しているのか教えていただけませんか」
ガネスも喬志の目から、視線をそらさず言った。
悪い予感がした。これ以上聞かないほうがいい。そう思いながら、喬志は質問を続けた。
「人質は誰なんだ」
「カーリーとわたしは、五年間、一緒に仕事を続けてきました。ガネーシュ&カーリー。ビジネスの神と黒い怒れる神が手を組んでいました。なのもかも、うまくいかないわけがなかった。そしてその五年で、わたしは彼の弱みを知りました」
首の後ろがぴりぴりとしびれてきた。これ以上、こいつの話を聞いてはいけない。
それでも、喬志は動くことができない。
「彼には恋人がいたのです」
ガネスが笑みを浮かべた。初対面のときに見せた、営業用の笑みではない。蛇が笑うのなら、きっと、今のガネスのように笑うのだろう。
「彼の恋人は男でした。それほど珍しくはない。人にはそれぞれの人生があります。ある日、カーリーは言いました。自分に何か起これば、必ずあいつはおれを探すだろう。そして、いつかおれを探しに来るだろうと」
喬志は奈津の肩を軽くゆすった。
「何か勘違いしてるらしいな、あんた。奈津、帰るぞ」
そのまま立ち上がる。
「待って下さい。なぜ帰るのですか。話はまだすんでない」
むずがる奈津を抱え上げると、ガネスに背を向けた。
「待て」
ガネスが急いで喬志の前に回りこんだ。
「どこに行く」
「あんたが何の話をしているのか、おれには理解できない」
ガネスは肩をすくめた。
「カーリーの恋人、名前は知りません。話してくれなかったからです。でもわたしは見つけました。あなたがカーリーの恋人なのでしょう。わかってます。カーリーの好みそうな、整った、気の強そうな顔をしている。逃がすわけにはいかないのですよ」
ガネスを押しのけようとした。いきなり首の後ろのしびれが身体中にまわった。
身体中の力という力が根こそぎ霧散したかのようだった。
ガネスが喬志の手から奈津を取り上げ、ソファに横たわらせた。
部屋に差す光が、美しくぼやけて見える。いつの間にか、喬志もまた、ソファに座りこんでいた。
立ち上がる力がなかった。
指を動かす力がなかった。
息をする力さえなかった。
頭の中が真っ白で、何も考えることができない。
どこからかガネスの声がした。
「あなたは、カーリーをとらえるための人質です。正しいですか、わたしの日本語。難しいですね、日本語は。とにかく大切なお客さまです。だから手に入りにくい、上質のチャラスを使ったバングクッキーをごちそうしたのです」
腕に何か突き立てられた。
「これはおまけですよ。スピードです」
注射器。覚醒剤。頭に浮かんでは消える言葉。
大麻から油脂だけを抽出したチャラスを混ぜたクッキーをガネスが食べさせたこと。だからクッキーの味つけはひどく甘いものになっていたこと。ガネスは食べて効き目が出るまで、カーリーの話で喬志を引き止めていたこと。今また覚醒剤を打たれたこと。ダウナー系とアップ系のドラッグをカクテルすると強いトリップに落ちること。ガネスが喬志のズボンをずらしていること。ガネスが喬志にフェラチオをしていること。おそらく自分はレイプされるのだということ。やるのはともかく、やられるのは初めてだということ。ガネスはドラッグとセックスで喬志の意思を奪おうとしているのだということ。
ドラッグによる、思考能力がおそろしく早くなる、あの閃光のような頭の回転により、喬志はそれだけのことを一瞬のうちに悟った。自分がおそろしく間の抜けた役を演じつつあることも。
ガネスは間違いを犯している。
カーリーの恋人は喬志ではなく忍だ。
そして、忍は、すでに死んでいるのだ。
「伝えて、伝えて欲しいことがあるんだ、あの人に」
あのときの忍の表情が、どうやっても喬志には思い出せない。
ただ、凄いほどの血の匂い、時とともに色を失ってゆく顔色、血の温かさ。思い出すのはそんなことばかりだ。
ガネスは軽々と喬志を抱え、二階への階段を登った。
ベッドに投げ落とされた。
この部屋にはクーラーが良く効いていた。シーツがさらさらとしていて気持ち良い。ガネスはダブルベッドに横たわった喬志を見て、満足感を表すようにため息をついた。
そして、ゆっくりと時間をかけて、喬志の服を剥ぎ取っていった。卵を弄ぶように、丁寧で、驚くほど繊細な手つきだった。
喬志はされるがままになっていた。久しぶりに感じる人肌の温もりと感触が、記憶を刺激する。
頭の中に、次々と忍が蘇ってくる。
必死に力づくで抑えていたものが、ふるい落とすことのできないものが、二度と喬志を引き離すことのできぬほど緊縛したものが、頭の中に、身体中に、あふれ駆け巡った。
忍の目。細い首。小さく静かな声。とがったあご。なめらかな胸や、毛のうすい足。繋いだ手の感触。忍とのセックス。
忍は切なそうに身体をくねらせた。
死ぬほど色っぽい声をあげた。
後ろから貫かれ、手を伸ばして肩をつかむと、忍はいっそう声を上げ、腰をふった。
目を閉じると、忍の姿態が鮮明に浮かんでくる。
喬志のそれは、とっくに立ち上がっていた。
皮膚の感覚が鋭くなっていくのを喬志は感じた。ジーンズが皮膚をこするたび、ほんの微かにガネスの手が触れるたびに感覚はさらに鋭くなっていくようだった。
全裸にされたときには、目が潤み、全身が熱をもっていた。頭の中では、忍のあえぐ声がフルボリュームで響いている。
ガネスがその長い、美しい指で敏感になった身体をゆっくりと撫ではじめる。呼吸が早くなった。ガネスは筋肉の一本一本を、そっと愛しむように撫でている。喬志は、忍の呼吸を、媚びるような視線を、全身に感じていた。
快感は雪のように降り積もり、重なり合い、溶けることなく喬志を埋め尽くした。
ふいにガネスの手の動きが早くなった。喬志の身体をめちゃくちゃにまさぐる。
「くッ」
足の指までそらして、身体を弓なりにした。
身体がびくん、びくんとはねるのを押さえられない。歯を食いしばり、シーツを握りしめる。足を持ち上げられ、舌が踵から膝裏へとねっとりと這う。
「あッ」
左手が腹から胸、腕と撫でまわす。
「ああッ」
喬志は歓喜の声をあげていた。荒い息をつき、ガネスの責めに息をつめ、身体の芯から絞り出すような声をあげた。ガネスの舌が太ももを舐めまわしたあと、ようやく下半身に近づいた。
舌は、さっと舐めては、逃げるように別の場所に移動した。そのたびに喬志は足をつっぱり、そりかえった。ガネスは硬直したものと蕾を交互に責め、やがてその責めを蕾に集中させた。
舌だけをつかっていたぶられるうちに、喬志の感覚はそこに集中していた。
脳裏では、忍もまた、喬志の責めに声を押し殺して耐えている。
ガネスはたっぷりと舌を駆使したあと、指にスイッチした。緩く浅く、強く早く、リズムをつけて動く指に十二分に翻弄されると、肩をつかまれひっくり返された。
四つ這いのまま振り向くと、ガネスがコンドームをつけていた。エイズ防止のためだろう。
ガネスはゆっくりとじらすようにそれを喬志の蕾にこすりつけ、先端を浅くくぐらせては抜き、またくぐらせては抜いた。こすりつけながらまた先端をゆっくりと入れる。徐々に深くしていくが無理には押し入ってこない。先端を埋めながら喬志を強く握ったかと思うと、力をゆるめ、手のひらを使って敏感な先端をマッサージしてくる。
力が抜けたところで、ずるりと一気に挿入してきた。激痛にうめくと、ゆっくりと引きぬかれる。背中をそらし、痛みを和らげようとする。ガネスが抜きながら、ゆっくりと喬志の先端を弄ぶ。
何度もそうされるうち、痛みが少しずつ疼痛に変わっていく。
それを察知したかのようにガネスは強い力で喬志を固定すると、すごい早さで腰を前後させはじめた。
目の端から涙がこぼれた。白い炎が脳を焼き尽くす。
閉じた瞼の裏に、忍がいた。
喬志と同じポーズをとって、尻をふっている。忍の背後で喬志は、ガネスと同じように腰を使っていた。
もっと強く。
もっと激しく。
もっと。
もっと。
ついにガネスの動きが、強烈な快感をほりおこした。
「ああああああッ」
かたときも、じっとしていられなかった。
ガネスと喬志の作るリズムが、頭の中の喬志と忍の動きとシンクロしている。ガネスは喬志で、喬志は忍だった。
泣いていた。
泣きながら叫んだ。
ガネスが吠えた。
しばらくの間、その頂点に留まった。
波が過ぎると、ガネスは力を抜いた。
ガネスが肩と腰を引き寄せていた腕を離すと、そのまま喬志はベッドに倒れこんだ。ぺちゃ、っと濡れたシーツが音をたてた。ベッドは二人分の汗で小さな水たまりができていた。
腹とシーツに挟まれたまま、身体の痙攣にあわせるように喬志は射精した。
放ったものはびっくりするほど熱かった。
そのまま目を閉じた。どこかに落ちていくようだった。
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