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 冷たいシャワーは、昨夜のハシシまでは洗い流してくれなかった。

 頭の芯に痺れが残っている。

 脳味噌のしわというしわに、麻の葉っぱが大量に挟まっている光景が頭に浮かんだ。

 喬志はスポーツタオルで身体を拭きながら、鏡を覗き、健康状態のチェックをした。

 そこには痩せて、つり上がった二重の目をぎらつかせている顔があった。外見はまだ健康な旅行者に見えるかもしれない。そげた頬と頬骨が切れ長の目を強調しすぎていなければ。よく見ると瞳孔が開いていなければ。外に出るときは、サングラスをかけようと喬志は思った。

 部屋に戻った喬志はKハウスのドミトリーに新しい顔が増えていることに気づいた。新しい人間が増えるのは、旅行者にとって、ある意味では大きなイベントだ。

 男が二人、隣のベッドに寝ていた。

 一人は、繊細そうな二十代後半くらい、もう一人は十歳になるかならずかの男の子だった。

 くわえタバコのまま、ベッドをのぞき込んで喬志は二人を観察した。

 顔の半分がたシーツに埋もれているが、親子には見えなかった。日本を出て、まだそう日が経っていないおうだ。

 清潔な衣服。きちんとした――今は寝癖がついているが――整えられたあとのある髪。ベッドの脇に小さく真新しいナップザックが二つ、それにミネラルウォーターのペットボトルが二本置いてあった。喬志自身の荷物とそれほど大差ない。

 長期旅行者の荷物は、短期の観光旅行者と比べると、移動のためかなりコンパクトにまとめられる。スーツケースよりは、両手の自由になるバックパックが愛用される。

 いらないものは、次々と捨てていく。長期であればあるほど、荷物は少なくなり、短期旅行の場合は、多くのおみやげでふくらんでしまうものだ。

 この二人の荷物が小さいのは、何か事情があるように思えた。

(べつにどうでもいいんだけど)

 ひと通り観察しおわると、喬志は二人に興味を失う。今日の予定を考えはじめた。

 リクシャマン巡りも、そろそろ潮時だった。別の方向からあたってみるべきだろう。

 とにかく、ほんの少し前まであの男がここにいたのは確かなのだから見つからないはずがない、といいきかせる。拭えない不安感を押さえつける。

「まあだ、戻ってこないのかい」

 声がした。

 いつの間にか目の前に、肉の壁が立ちはだかっていた。

 かなり大きな男だ。見事な体格の褐色にやけた身体に、黄色い衣をまきつけている。むきだしになった両肩にピンク色の丸い火傷のあとがある。頭には一本の毛もない。

「あんたか」

 村上忠海(ちゅうかい)だった。

 忠海は、黙ったまま喬志のタバコを引ったくり、気持ちよさそうに一服つけた。

「フィルターが血だらけだな」

「本当だ」

「今朝はまた、なんで自分の右手に噛みついたりしたんだ」

「うまそうだったから」

「うまかったのか」

「ああ」

 忠海はアジアの寺を修行で回っている、日本のある宗派に属する僧侶だ。数か国語を話せる、実務的な面では心強い相棒だった。香港のスターフェリーの上で知り合い、行く方向が同じこともあって、なんとなく一緒に行動していた。茫洋とした印象を人に与える話し方や、妙に安心できる人柄が一緒にいる理由かもしれなかった。

 タバコをもみ消し喬志の右手をとると、忠海は傷口を値踏みでもするように点検した。

「大丈夫みたいだが、こんなことをしてると右手が動かなくなるぞ」

「タコは飢えると自分の足を食うんだ」

 忠海はため息をついた。

「なら、今度から足に噛みつけよ。ところでな」

「ああ」

「その小僧とは知り合いなのか」

「何?」

「ずっとお前さんを見てる、そこの小僧だよ」

 隣のベッドの子供がいつの間にか目を覚まし、じっと喬志を見つめていた。大きな目をした、頭の回転の早そうな少年だった。

「おはよう」

 少年から返事はなかった。

「あんたは、トリップしてたから知らないよな。昨日の晩に来たんだ」

 と忠海。

「かなり疲れてるように見えたな」

 もう一度、喬志は少年に目を向けた。少年は一心に喬志を見ていた。喬志の右手の傷を見つめていた。

「なあ、いったい何を摂ったら自分の腕に噛みつくようなトリップが楽しめるんだ」

 少年への興味が失せたように、忠海が話題を変えた。

「昨日はガンジャクッキーを五枚食べて、それからジョイントを吸ったんだ。ジョイントが効いてる間に、時間差でクッキーが効いて、けっこう凄かったな。よかったら、少しゆずろうか」

「ありがたく遠慮しておこう。おれは僧侶だし、それにもう三十過ぎてる。そんな馬鹿やる年齢じゃないんだ」

「おれだって、あと五年もすれば、三十だぜ」

「それはお前さんが、まだ若いってことさ」

「まだ、ね」

 忠海はいつものように、喬志のタバコをパッケージから抜き取ると、窓のそばに行った。外のガンガーを眺めながらタバコを吸いはじめた。

「なあ、このガキなんだけどさ」

 喬志の声に忠海が振り返る。隣のベッドの子供は、あいかわらず一言も声を発さず、ひたすら喬志に住んだ目を向け続けていた。

「子供に好かれるんだな。三十過ぎの大人には無愛想なのにな」

「腹でも減ってるんじゃないか」

「それに、心配性だ」

 忠海は笑っていた。

「今朝はあんたに関して新しい発見の多い日だな」

「とにかくな、起こしたほうがいいんじゃないかな、こいつ」

 喬志は子どもの隣に横たわり、一向に目覚める気配のない男を指さした。

「寝かしといてやれ、疲れているんだろうよ。顔色も悪かったからな。気になるのなら子供は、お前が食事に連れて行けばいい。この人が起きたら、おれが説明しといてやる」

「馬鹿なんじゃねえの」

 吐き捨てて、喬志はまだ濡れたままの身体にTシャツをひっかぶった。

 忘れずにサングラスをかける。

「なんでおれがそんなメンド―なこと。やるわけ、ないだろ」

 そのまま出て行く。

 つもりだったが、少年もベッドを降りて喬志のあとについてきた。

 慌てて忠海に押しつけようとしたが、少年は喬志から離れようとしなかった。寝ている男を無理やり起こしたのだが、

「すみません。ありがとうございます、食事に連れて行ってもらえるなんて。……名前は小沢奈津(なつ)です。ぼくは坂井要といいます。……ありがとうございます、すいません」

 と寝ぼけたまま言うとまた寝てしまった。もう一度、起こそうとしたが無駄だった。今度は何をやっても起きようとしなかった。

「あきらめな」

 丁寧にタバコを灰皿に押しつけて、忠海が言った。

「行ってらっしゃい」

 手を振って見送られた。


 喬志がKハウスを出たのは、十一時近くになっていた。

 強烈な日差しが路上に照りつけていた。

 バラナシには無数の路地がある。

 どの道も、まるで道自体が悪意をもってその身体を蛇のように曲げ、くねらせたような印象を見るものに与える。

 路上には、狭い道にはり出すように、色鮮やかな果物や香辛料が並べられていた。

 壁には古びた貼り紙や映画のポスターが無数に貼られている。それは雨に打たれ、強い日光で乾かされ、また雨に打たれ、ということを繰り返し、壁と完全に同化したような状態になっている。

 そのポスターの色あせた残骸を見ながら、大勢のインド人と身体をこすり合わせるようにして喬志は歩いていた。

 早口の売人が、ハシシはいらないか、マネーチェンジしないか、とすれちがいざまに声をかけてくる。近所のチャイ屋では、幼い子供が一生懸命働いていた。牛や野良犬が道の真ん中に座っている。

 いつもと同じ、見慣れた光景だった。世界に大きな変化は無さそうだった。いつもと違うのは、喬志が幼い男の子の手を引いて歩いていることくらいだ。

「何を食うかな。って言っても、カレーしかこのへんにはないけど」

 喬志は立ち止まり、手をつないでいる男の子の目をのぞきこんだ。

「奈津くん、だったよな。何が食べたいんだ」

 返事はなかった。表情も変わらない。

「カレーは食べられるかい。辛いカレー」

 返事は、やはりなかった。強い日差しが容赦なく照りつける。汗がじわりとにじみはじめた。

 立ち止まっていると喬志に男が近づいてきた。

「ジャパ二、ハシシ、いらないか」

「いらない」

「見るだけね。見るだけ。ノープロブレム」

「今は必要ないんだ」

 それきり喬志が口をつぐんだ。男は粘り続けたが、やがて立ち去った。

 奈津を見た。奈津は大きな目をさらに大きくし、思い切り息を吸いこみ、一度だけ首を縦に振った。

「よし」

 すぐに近くのチャイ屋に入り、タ―リーとチャイを二つずつ注文する。前に座った奈津は、あいかわらず喬志の顔をずっと見ている。

 待つほどの間もなく、チャイがでてきた。こってりしたミルクティー。インドで一番、庶民的な飲み物だ。

 奈津は、おっかなびっくり緑色の熱いグラスから一口飲んだ。

「うまいか」

 ちょっと目をみはり、奈津は一生懸命、首を縦に振る。

「初めて飲んだのか」

 またうなずいた。

 そして今度は心なしか嬉しそうにチャイを飲み始めた。

 子犬みたいだなと喬志は思う。

 また子犬を拾っているのだろうか。子供の頃、喬志は子犬を拾っては捨てに生かされる、ということを何度も繰り返した。雨に濡れた忍を部屋に連れ帰ったときも、半分は犬を拾うような気持ちからだったのを思い出した。残りの半分は、あるいはその時すでに惹かれていたから、だったのかもしれない。それまで喬志は一度として、一目ぼれなど信じたことはなかったのだが。

 今日は変だ、と喬志は思う。おれは忍のことばかり考えているようだ。ハシシが残っているせいかもしれなかった。

 しかしそれはハシシのせいばかりではなかったかもしれない。喬志は忍につながれているのだから。喬志をつなぐ鎖はベルベットのようになめらかな感触ではあったが、鋼のように丈夫で、切れることも、溶けることもなかった。

 忍がそこに喬志を繋ぎとめた。

 日本を出て三か月、インドに入って二か月が過ぎていた。

 見つからないあの男、カーリーとの距離は、近づき、離れ、それでも見失うことなく立ち寄った先を正確にトレースしてきたはずだった。

 バラナシまでは。

 バンコクからスタートした人探しの旅は、ここにきて雲行きがあやしくなりはじめていた。

(だいたい、英語できないしな、おれは)

 ルッキン・フォー・カーリーと千回くらい訊ねてまわり、相手に写真を見せ、バラナシ、英語風に読めばベナレスに入ったのを確かめた。それははっきりしていた。ここにあの男はいるはずなのだ。

 もっと金を握らせるか。荒っぽい行動に出るか。とにかく、手当たり次第に写真を見せる段階はいつのまにか終わっていたのだ。

 だいたい人探しみたいな面倒くさい仕事は性に合わないし、それが仕事での偽名だとしても日本人がカーリーなんて名乗ること自体、喬志にはどうにも好きになれなかった。

 忍に頼まれさえしなければ、こんな面倒なことはやらない。

 喬志は首にぶら下げた貴重品袋から、擦り切れた写真を取り出した。

 どこかのホテルの一室だった。おそらく日本のホテルではない。部屋はダブルだ。男が一人、ベッドに腰掛けている。上半身は裸で、ネパール風の模様のはいったズボンをはいている。裸の肩にスポーツタオルをかけ、右手にタバコを持っている。全体に漂っているのは禁欲的なムードだった。

 目が、独特の光を放っている。

 忍が撮った、カーリーの写真だった。忍が持っていたのは、身につけた服以外、この古びた写真一枚きりだった。

 喬志はまだ一度も会ったことのない男、忍がよくその名を口にした男の写真を睨みつけた。耳に、忍の言葉が蘇る。

「伝えて、伝えて欲しいことがあるんだ、あの人に」

 あのときの忍の表情を、喬志はどうやっても思い出せない。

 おれは、この男をどうするつもりなのだろうか。

 何度も繰り返した自問を、喬志はまた繰り返す。

 どうするつもりなのだろう。

 忍の言葉を伝えて、それだけでいいのだろうか。約束を果たせば、それで何かが終わるのだろうか。

 どうすればいいのか。

 自分はどうしたいのか。

 何もわからない。

 わかっているのは、このままでは永遠にカーリーに会うことはないだろうということだけだった。

 写真を袋に戻すと、奈津と同じくらいの歳の少年がアルミの大皿を運んできた。三種類のカレーと飯、それに生の玉葱に塩をふったものがついている。安く、ボリュームがある。インドではポピュラーなカレーの定食だ。

 定食を奈津はほとんど残さず食べた。よほど腹をすかせていたらしかった。

 奈津が玉葱だけを残し、アルミの大皿をきれいにかたづけたとき、喬志はまだ半分も食べていなかった。

 食欲が落ちている。

「もう少し待ってろ。いい子だからな」

 とにかく食べなければならなかった。きついトリップをした後は、何でもよいから食物を胃に詰めこまねばならない。食べなければどんどん衰弱し、衰弱を癒すためにドラッグの量を増やす、そしてまた食欲を失い衰弱する、という悪循環に陥る。

 ため息をついて、喬志は一切の感情をこめず、機械的に食べ始めた。

 冷たくばさばさした飯をカレーにまぶし、指でこねて口に運ぶ。規則正しく、一定のリズムを保って手と口を動かした。

 男が声をかけてきたのは、ようやく喬志が食べ終え、奈津が眠そうに大きなあくびをしたときだった。

「タカシ、オオツキ、か?」

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