詩う者が沈黙したとき

吉美駿一郎

プロローグ

 目を覚ますと、口中に血の匂いがした。

 唇のはしから、あふれた血液が口の脇を伝って落ちてゆく。

 闇に囲まれていた。

 声が出ない。

 大月喬志(おおつき・たかし)は自分が目を閉じたままであるのに気づいた。目を開くと、部屋は光に満ちていた。朝だった。

 喬志はベッドに横たわらず、床に座りこみ、壁にもたれたまま眠っていた。視線を下げると、自分の右腕が目に入った。

 それで、口の中に拡がる血が誰のものかわかった。それは喬志自身の血だった。眠っている間に、自分の右手首に噛みついていたらしい。

 頭がようやく働き始め、喬志は昨夜もトリップしていたことを思い出した。確か、質の良いハシシ入りのクッキーが手に入り、普段よりも少し多めに齧った記憶があった。

 強張った顎の力をゆるめ、かなり乱暴に右手を外し、口にたまっていた血液を飲み下すと、タバコを引きぬき火を点けた。

 それにしても、何故、腕に噛みついたりしたのだろう。また、忍の夢を見ていたのだろうか。

 その思いを追い払うように、喬志は立ち上がった。朝の光が一泊十五ルピー、日本円で四十五円のインドでも格安ホテルの大部屋を照らしている。古びたベッドが四つ並んでいた。部屋の中央には傷だらけの大きなテーブルが置かれている。テーブルの傷は、おそらく何人もの旅行者がハシシを刻む時につけたものなのだろう。汚れた壁には小さな窓が開いていて、そこからガンジス川を見ることができる。

 窓の外では、年老いたインド人が朝日を浴びながら沐浴をしていた。

 インドの聖なる川、ガンガーのほとりに建つ、Kハウス。日本人のバックパッカーに人気のある安宿で、夏休みの時期は日本人の大学生で混雑する。けれど、雨期も終わり、九月の猛暑が続くこの時期、学生は学校に通っているのだろう。泊っているのは、どこか社会からはみ出したような人間ばかりだった。

 インドに来るのは久しぶりのことだった。以前は仕事の合間によく来たものだった。血なまぐさい仕事の後、ここに来ることで精神の浄化を行っていたのだ。

 忍と出会う前のことだ。

 喬志は目をきつく閉じた。

 タバコをひねり消すと、喬志はいつものように考えた。自分は不幸だろうか、と。

 それは半ば習慣化した、喬志の目覚めの儀式のようなものだった。

 一晩中、無理な姿勢で寝ていたため、身体のあちこちが強張っている。右手には深い傷がある。口中が血なまぐさい。ドラッグの影響がまだ抜けきらず、感覚が鈍い。

 けっこう、なかなか不幸じゃないか。

 そこまで考えて、喬志は苦笑する。

 不幸を探して、安心するなんて矛盾している。

 不幸せが、幸福のもとになっている。

 ただ、自分が不幸でなければならないのは、確かだった。

 何故なら――忍の顔がちらつく――自分は、最低なのだから。

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