第26話「幼馴染は、私のことを名前で呼ぶらしい②」

「…………」


 ほら見なさい、過去の私。ハル君が困ってるじゃん。……だから、セーブしてたのに。


 迷惑をかけることが、どんなにハル君を傷つけるか――もう知っていたはずなのに。この数多あまたみにくさを解き放った結果がこれじゃあ……どうしようもない。


 それに、私の言い方にも問題があった。

 いくら自己嫌悪に陥ったからって……こんなぶつけ方をする必要が、一体どこにあったというの? 言う手段だって対策だって、一言一句整理していれば、幾らでもあったはずなのに。……何で、それを口に出して言えないのだろうか。


 ……こんなにも溺れた自分が恥ずかしい。

 こんなにも嫉妬する自分が恥ずかしい……っ!


 ――そんな後悔であふれたときだった。


「………………あれっ?」


 突如、温かく、冷たく、そして塩っぱいものが降ってきた。

 雨漏り……なんてことはない。今日は1日中晴れだったし、ここ最近も雨は降っていない。

 それに、凪宮家は雨漏りするほど古い建築物でもない。


 ……じゃあ、これって……?


「……おい、一之瀬?」


「……へっ?」


 私はそのとき、必然に俯いたままの視線を上げた。それと同時に気づいた。


 目の前に広がる広々としたリビングの景色が歪んで見えた。

 そして何故か目元は熱く、そしてまた、私の手の甲に粒が落ちてきた。


 ――これって……私の、……?


 目元が涙で溢れていることにようやく気づいたものの、私は思考が回らない。

 とりあえず、目元を袖で擦るものの、涙は拭えば拭うほど止まらない。

 醜さから溢れた――自分の哀れな欲望と、嫉妬から産まれた涙だ。


「……な、なん、で……涙なんか……」


「おい。そんなに強く擦るな、跡になるし目が腫れるだろ!」


「い、いい! 自分でやるから!」


 見ないで欲しい……。これ以上、こんな醜い私を、見て欲しくなんか――。



「――!!」



 瞬間、ハル君から聞いたことのないような怒声で、彼は私の名前を呼んだ。

 ……今、私のこと……初めて名前で……。


「……ごめん。お前が、そこまで溜め込んでるって気づかなくて……ごめん」


 彼はそっと、私の目元を服の裾で触れる。

 だけど今の私は――そんな現実よりも、起こった事実に驚愕していた。彼は何も触れてこないけれど……間違いなく、私は聞いた。


 ――はっきりと、ハル君の口から『渚』と呼ぶ声が……。


「………………そ……そんな、こと」


「……勘違いしないでほしいから言うけど、別にあいつを名前呼びしてるからって、お前を嫌ってるわけじゃない。あいつが、無理に言わせたから……その影響で呼んでるだけだ」


「そう……なの……?」


「ああ。それに、名前呼びにしてほしいなら言ってくれればいいのに」


「だ、だって……! ……ハル君のことだもん。絶対引いた目で見るでしょ……?」


「誰だその外道げどうは。お前の脳内の僕って、一体どんな性格してるんだよ」


 私の、脳内でのハル君――それは、誰よりも落ち着いてて誰に魅了されることもない。“学園一の美少女”と呼ばれる私より、遥かに可愛い幼馴染。そして――私なんかよりも、断然頭がいい、私にとって唯一無二の、好きな人――。


「……まぁ、一之瀬のことだから絶対に言うわけないよな」


「う、煩い……っ!」


「お前って妙に頑固だよな。その上、執着するものにはトコトン執着して……。でも――絶対に欲しいと思う者には、わがままを言わない奴だもんな」


「~~~~~~~っ!!」


 図星を突かれた。否、彼は知っているだけ。


 確かに私は、大事にしたい・大切にしたいと思う人を困らせるようなことは、絶対にしたくない性格をしている。


 現に『名前呼び』のことがそうだし、先日の『お泊り』のことだってそう。

 たとえ出張だったとしても、それが両親の仕事で大事なことだから……「1人は嫌だ」と言えなかった。


「その溜め込む癖、いい加減に克服しろよ? じゃないと、今回みたいに気づいてやれないんだからな? まぁ、それがお前なんだし無理にとは言わないけど――僕にだけは、気を使う必要はないんだからな」


「……………」


 少しだけ、彼は視線を逸らしてそう言った。

 ……ほら。普段は言わないことを言うから、そんなに真っ赤になるんだよ?


 誰かを意図して助けることが少ないから、少しだけ照れてしまったのだろう。

 そんな彼を見て、私はふっと小さく吹いた。


 ……なんだ。……そうだよね。

 のことがあるからって、無理に溜め込む必要はどこにもない。その証拠に、こうしてハル君は私のことをちゃんと聞いてくれた。提案までしてくれた。


 ――言ってみれば軽くなる。

 かつて、小学校の頃の先生に言われたことが、今になってようやくわかった。偶にはこんな風に、他人の言葉を当てにしてみるのも……悪くない。


「……じゃあ、さ。試しに私のこと『渚』って呼んでみてよ」


「な、何だよ、急に……。それに、過去15年間も幼馴染やってきて今更呼び方変えるとか……恥ずかしいだろうが」


「『気を使わなくていい』ってハル君が言ったんじゃん」


「そ、そうだけど……それとこれとは話が違うっていうか、その――」


「頼めば呼んでくれるんでしょ?」


「お前なぁ……」


 顔を腕で半分覆い隠しながらも、


「…………な、なぎ、さ」


「うん。くるしゅうないです……!」


「そうですか。それは大変結構でございましたね……」


 この日――照れながらもハル君は、私のことを初めて名前で呼んでくれた。


 お互いに恥ずかしくて、それ以上の会話は出来なかったけど……私にとって今日という時間は、おそらく一生忘れない。多分、記念日にしちゃうかも。


 醜い嫉妬も、愚かだと思った感情も、全てを晒した行為だったけれど――この『嬉しい』という気持ちは、決して嘘じゃない。


 まだ半分泣いている状態の私を、ハル君は何を思ったのか優しく抱き締めてくれた。


 つい数時間前にも感じた、あの電車の中の温もりと似ているけれど少し違う……とても温かい胸元。ドクドク、と心臓の鼓動が聞こえていたけど、少しは意識してくれてるのかな? まぁでも言ったところで――「せ、性欲なんだから仕方ないだろ!」なんて言われるのは明白だし、言わないでおこうと思う。



 ――大切だから、私のことを覚えていて欲しい。

 ――大切だから、彼のことをもっと知りたい。



 これは、そんな大事な契約を交わす儀式のようなもの。

 いずれ、ハル君が私のことを「好き」だと言ってくれるまで――。


 この温かい体温を肌で感じて……いつか、このときの気持ちを聞けるような関係になれたら――。いつか、本当のことをうち解け合えるようになるまで。

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