第3話 天使は拗ねる
「青羽先生! カスミンが、カスミンがいない!」
「え、なんですって?」
青羽先生は思いもしなかった事態に言葉を一瞬失ったが、気を取り直してみんなに大きな声でこう言った。
「だれか、神住さんを見た人はいますか?」
直ぐに二年生の女の子が手を挙げて言った。
「カスミン、学校に戻って行きました」
動転する先生。
「何か言ってなかった?」
女の子も事態の深刻さに気圧されて、泣きながら言った。
「ううん、カスミン、何も言ってなかった」
「ありがとう、麻実ちゃん、よく教えてくれたね」
青羽先生は勇気を出して教えてくれた二年生の女の子を優しく労った。
「先生、オレが、オレがカスミンを探してくるよ!」
とオレは決意を込めて言ったが青羽先生は、
「駿君、だめよ。こういう時のために先生がいるのよ」
と窘められた。
「その代わり、駿君がみんなを先生の代わりにまとめてくれない?」
と優しく微笑んだ。
直ぐに青羽先生は、校長先生と相談しはじめた。校長も最初びっくりした表情をしたが、やがて深刻な顔つきになった。
どうやら青羽先生がカスミンを探しに行くようだ。校長先生は青羽先生に制約をかけた。
「時間を区切りましょう。十五分がリミットですよ。もし、十五分経っても見つからない場合は・・」
「校長先生、必ず十五分で見つけて見せます!」
「では、先生の携帯電話でアラームを設定してください」
「分かりました」
青羽先生は手早くアラームを設定すると走って坂を下りて行った。
(頼む。青羽先生。カスミンを必ず探し出してくれ)
オレは祈る他なかった。
地震が発生して二十五分が経過していた。時刻は午後三時十一分。
先生たちが持っている携帯電話はもはや使い物にならなかった。電話はパンク状態でつながらないし、この辺は圏外なのでインターネットで情報を得ることもできない。校長先生が青羽先生に携帯のアラーム設定をさせたのは賢明な判断だと思った。
最早オレたちには、防災無線だけが頼りの綱になっている。坂をどんどん上っていくと、やがて漁港の様子が見えてきた。漁船は普段通りに停泊している。津波特有の「引き潮」が全く見られなかった。
それを見た四年生の担任の男の先生が、
「なんだ、誤報かな」
と笑い半分で呟くと、一行の中には楽観論者が出てきた。
「何事も起こらないみたいで、本当、よかったですなあ」
教頭先生が能天気にもそう話したため、先生の中にも「学校に戻ってはどうか」という意見が伝播しつつあった。
しかし、校長先生の考えは違った。
「教頭先生、引き潮が必ずあると何故いいきれるのでしょう?」
「え、だって昔から引き潮があって、大きな津波が来るっていうのが普通でしょう?」
「いえ。津波は様々なので必ずしも引き潮があるわけではない、というのがここら辺の土地の者の常識です」
そう言われた教頭は引き下がるしかなかった。
「遅い。遅いぞ、青羽先生」
独り言のつもりだったのだろうが、校長先生はいつの間にか心配を口にしてしまっている。
校長先生もギリギリの判断をしたのだろう。心配を通り越して焦燥感を漂わせている。
地震が発生してから三十五分が経った。
時刻は午後三時二十一分。
オレたちは、カスミンと青羽先生を除いて全員が無事にクスノキのある公園についた。
ここには陸上競技場がある。入り口にはチェーンが掛けられていたが、先生たちはお構いなしに入ってゆき、生徒を観客席に誘導した。
校長先生は、教頭に生徒たちを任せてカスミンと青羽先生の戻りを競技場から少し下ったところで待っていた。半分イライラしている。
「青羽先生、頼む。帰って来てくれ」
その時、一斉にサイレンが鳴り響いた。
すさまじい音だ。怪獣の断末魔のような音が、薄曇りの空にコダマしている。
オレは教頭の制止も聞かず、校長先生のところに駆け寄った。
「先生とカスミンはまだですか?」
「ああ、まだだ」
校長先生は眼を腫らしていた。いつも全体の朝礼では威厳があり、廊下ですれ違う時はとてもやさしいおじさん、という感じだったから、誰一人悪く言う人はいない。こんなに憔悴した校長先生を見るとは思わなかった。
「あ、あ、ああああ!!!!」
突然校長先生が叫んだ。漁港の水位がいきなり上がり、そのまま水の塊が濁流となって町に侵入してきた。
この町には、防潮堤防は建設されていなかったのだ。
その時になってオレは母さんの事を思い出した。我ながら親不孝な息子だと思う。父さんはもう二週間くらい船で外洋に出ている。沖合では余程の不幸が重ならない限り津波の影響は受けにくいと父さんから聞いていたから、安心しきっていたんだ。
津波による濁流は、易々と海微研のある辺りを呑み込み、どんどん遡上してきた。
職員住宅まではもう、数分の猶予もなさそうだ。
(ああ、神様。天神様。死んだおじいちゃん、おばあちゃん。どうか、どうか母さんとカスミンの家族を守ってください。それから、カスミンを助けに行ってくれた青羽先生も必ず!)
オレは跪いて自分の無力さを呪い、ありとあらゆるモノに願をかけるしかなかったのだ。
町の中の車という車が、渦を巻く津波の濁流に揉まれている。
そして、津波はついに学校のある標高まで上がってきたのだ。
「なんでも、なんでもするから! これ以上みんなを巻き込まないでくれ!」
オレは絶叫していた。いつの間にか、陸上競技場にいた学校のみんなも、オレと校長先生がいるところにやってきて、暴れる濁流と、紙のように濁流に翻弄される車や建物を見ていた。
みんな、最初は無口だったが、堰を切ったように、―嗚咽さえしながら― 一斉に叫び始めた。
「お母さーん!」
「パパ―! ママー!」
悲痛な叫びにオレの心は切り裂かれていた。
「みんな、呑まれちまったのかな…」
四年生の担任の先生がそういうと、用務員さんが胸倉をつかんで叫んだ。
「なんでさっきからオメェはそんな事しか言えねえんだ⁉ 子供たちのことを考えろ‼」
「俺にも、家族がいるんだ。嫁さん、身重なんだ」
用務員さんは、胸倉をつかんだ手を放し、へなへなと座り込んだ。
「そうだな、俺にもおっ母ぁがいる。みんな心配なんだよな」
町を蹂躙する津波の濁流を、みんなは涙を流しながら眺めるしかなかったのだ。
オレは、目を閉じた。このままオレもこの世からいなくなりたい。そんな気持ちにすらなっていた。
いや違う。何を考えても雑念が入ってきて、何も自分の中で結論が作れなくなっていたんだ。次から次へと違うことを考えては、また違う何かを考えた。
水没したのか、サイレンは止まった。
そして、濁流は海へと引き始めた。
風呂の栓を抜いたがごとく、一気に海へすべてを浚って戻ろうとしている。
一人、二人と、自然と坂の下に向かって駆け出した。先生達はもちろん止めたが、もう止まれなかった。
「父さんと母さんを連れて行くなよ!この野郎!」
卒業式を控えた六年生が声変わりした声で怒鳴っている。
オレも彼らと一緒に、海に引き込まれるアレコレを追いかけるように坂を駆け下りて行った。
そしてオレ達は、信じられない光景を見ることになる。
学校へ続く坂の途中には、運送会社の大きな営業所があった。倉庫、トラックヤード、二階建ての事務所、至る所に町の人たちが鈴なりになっていたんだ。
次々に坂を駆け下りてきたオレたちを見て、町の人たちからは歓声が上がった。
「おい、小学生たちは無事みたいだぞ!」
中には警察官に背負われたおばあちゃんや、妊婦さんもいた。
みんな、安堵して泣いていた。
「お前たち、学校のみんなは無事でいるのか?」
おばあちゃんを背負った警察官に聞かれた。
オレは、
「先生一人と、オレのクラスの一人の女の子がいない」
と重々しく警察官に告げた。
「先生とその女の子って、あそこにいる人たちだろ?」
驚いてオレは警察官の指差す方を見た。
学校の屋上にいる、カスミンと青羽先生だった。
無事だったんだ・・・・
緊張の糸が切れたみたいだ。オレは腰が抜けて動けなくなった。
そしてそのまま気を失った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夜になった。幸いにも学校は校庭に水が浸入した痕は認められたが校舎や体育館は無傷だったので、無事だった母さんとオレは体育館で一晩を過ごした。父さんとは連絡は取れていない。
カスミンの家族も全員無事だった。学校の備品であった段ボールや、備蓄されていた非常食が避難してきた町の人に配られた。
時間が経つにつれ、寒さは増してきたので、暗幕やカーテンなど、防寒に使えそうなものはすべて使った。
オレとカスミンは一緒に暗幕に包まっていた。
「なあ、なんで勝手に学校に戻ったりしたんだよ。オレ、カスミンが津波に流されたと思って」
「駿ちゃん、ごめんなさい」
カスミンはその大きな瞳に涙をいっぱいに貯めていた。
「でも、カスミンが生きてて良かった。オレ、カスミンに言いたいことがあるって言ってただろ?」
「うん」
「一年前、クスノキに登った時の事覚えてるよな?」
「うん」
「あの時の事、ごめんな」
カスミンの涙はついに瞳を決壊して流れ出た。
「いいの。私が駿ちゃんの気持ちを試すようなことをしたんだもん。駿ちゃんが怒っても仕方ないよ」
「オレ、カスミンのこと」
「えっ?」
「か、カスミンのこと、きょうだいみたいだって思ってた」
まただ。オレはカスミンに本当の事が言えない。
「駿ちゃん」
「ん、なんだ?」
「これ」
カスミンは暗幕の裾から右腕を出してオレに何かを差し出した。その手に握られていたのは手紙だった。
「この地震が落ち着いたら、読んでね」
「神住より、駿ちゃんへ」と、封筒にはかわいらしい文字で書かれていた。
「カスミン、これを取りに戻っていたのか?」
「うん。私、もう居なくなるから」
「だからってこんなに危険な事…するなよ」
「青羽先生には迷惑かけちゃった」
「先生が一緒に居てくれてよかったな」
「うん、先生に本当に怒られたよ」
「そりゃそうだろ。津波、舐めるなって(笑)」
「駿ちゃんは津波にあったことがないのに、随分詳しいよね」
カスミンにそう言われて気が付いたけど、小さなころから父さんから聞かされていたし、この町の人は震度三くらいの地震でも逃げる意識があった。多分、ほかの町や村と違って防潮堤が作られなかったから危機感は半端なかったんだと思う。
さっき聞いた話だけど、結局あんなにすごい津波が来たのに、町の人全員の安否が確認されたんだそうだ。時折、誰かが持ち込んだラジオからほかの町の様子が聞こえてくる。電波が悪くてよく聞こえない。
「…町、連絡が取れていません。また、宮城県… 市では、・・・・地区との連絡が途絶えています…」
アナウンサーは自分を落ち着かせるようにニュースを読んでいた。
それが却って怖くて、眠れなかった。
それでも、最後は疲れて、そのまま暗幕に二人で包まったまま眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あの日から三週間が経った。近隣の市町村では沢山の方が亡くなったが、この町は一人の犠牲者も、けが人すらださなかったので「奇跡の町」と呼ばれた。
そして、カスミン達一家は予定よりも二週間遅く、ヨコハマへ帰っていった。
職員住宅は、オレの家も、カスミンの家も、すっかり流されてしまい荷物もなかったのだが、国道も寸断され、鉄道の線路は流されて移動手段がなかったのと、ヨコハマも少なからず東日本大震災と名付けられたこの地震の影響を受けていたので、少々待ってほしいということだった。
別れの日、避難所から手配した車に乗り込んだカスミンは、後部座席の窓を開けて、
「駿ちゃん、手紙、読んでね」
と言った。なんとなく、押しつけがましい言い方だった。
避難所暮らしは容易ではない。プライバシーもないから手紙を読むような場所ではない。何しろ手紙を送った本人が目の前にいる。
カスミンからの言葉はそれだけで、あまりにもあっけなく寂しいお別れだった。
そしてオレはまたカスミンに気持ちを伝えられずに別れてしまったことを悔いていた。
オレは、ただ、カスミンを乗せた遠ざかる車をぼーっと眺めていた。
オレは、永遠にカスミンを失った。そう思ってカスミンからもらった手紙を握りつぶしてそのまま人目につかない体育館の裏の側溝に捨てたんだ。
カスミンが居なくなった三日後、父さんとようやく連絡が取れた。父さんが
「海微研は津波の被害が甚大で復活は出来なくなった。父さんは、本社の研究所に移るのでヨコハマに転勤になる」
なんだよ、この展開。
神様はいるんだな。
オレは、小躍りして体育館の裏に捨てた手紙を拾いに行った。しかし、というか、やっぱりなかった。
強い風も吹いたし、飛ばされてしまったのだろう。でも、またカスミンに会える。
その時はきっと言える。カスミンが好きだって。
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