第2話 天使は消える
薄曇りの寒い金曜日。
その週、給食当番だったオレとカスミンは、みんなが食べ終わった食器やトレーを専用のワゴンに積んで担任の青羽先生と一緒に専用のエレベーターで一階の給食室に運んだ。
給食のおじさんおばさんにありがとうを言って、ようやく一週間の給食当番の任務が解かれた。後は今着ている給仕用白衣を家で洗濯をしてもらって月曜日に持ってくるだけだ。
「先生、職員室に寄って行くから先に行っててね」
青羽先生はそう言って職員室に入っていった。とても美人で優しい先生だ。
小さかったカスミンは、その頃背が伸びて、俺と同じくらいの背丈になっていた。そして転校したての頃のワンサイドアップにしていた髪型もセミロングになっていて、天使加減は更に上がっていた。
ついさっきまで、カスミンが牛乳を飲んだあとに口の周りの産毛に牛乳が付いているのを見てこの世のものとは思えない可愛さを感じていた。
オレは小学四年を手前にして事程左様に随分とませたガキになっていたが、カスミンに自分の気持ちをまだ伝える事ができていなかった。
階段を昇っていると、カスミンはその亜麻色の髪の先のほうをつまみ、鼻孔にあててちょっと困り顔をした。
「給食でカレーとか出ると、髪に臭いがついちゃうのよね」
オレは、
「そんな大げさな。臭いなんて着かないだろう? どれどれ、ちょっと匂いをかがせて見せて」
と言ってカスミンの頭に少し自分の鼻を近づけた。
「いやっ、駿ちゃん、人が見てるよぉ」
カスミンは左手でオレの顔を制して言った。
迂闊だった。カスミンが自分の髪を鼻の下に持ってきて髭みたいにしているのを見てオレはついカスミンの髪の匂いを嗅ごうなんて事を学校の中で自然にやってしまいそうになった。いや、少しやった。
幸い誰も見ていなかったから助かった。誰か見ていたら、それはもう大惨事だっただろう。カスミンの髪の匂いは、カレーの臭いではなくて、シャンプーのいい匂いがした。いや、あれはシャンプーの匂いなんかじゃない。カスミンの匂いなんだ。
「悪い悪い、ついさ」
「もー。駿ちゃんのエッチ」
そう言って膨れっ面をしたカスミンもものすごく可愛かった。
あーあ。もう何日もしないうちにカスミンはヨコハマへ帰っていくんだな。
オレは教室の窓の外を眺めて二週間前のことを思い出していた。
「駿、神住ちゃんのお父さん、四月にヨコハマの本社に転勤で引っ越しは春休みに入ってすぐだそうだぞ。ちゃんとお別れを言わなきゃな」
父さんがその日家に帰ってくるなりオレと母さんにそう告げた。
「ああ、そう。父さんは来週からまた船でしょ?」
関心がない素振りをして、サンプル採取で一ヶ月くらい帰ってこない父さんの話にすり替えた。本当は心臓が張り裂けそうに辛かった。
オレはいつかこの日が来ることを知っていたけど、実際その日が来てみて思ったのは、想像以上に心が痛かったって事だった。
父さんの言葉を思い出して、改めてオレは悲しくなった。
おい、カスミンが居なくなる?
本当かよ? オレ、カスミンの笑顔も、泣き顔も、怒った顔もみんな好きだった。
いつもカスミンはオレの側そばにいたのに。居なくなるなんて。
あまりにも残酷だ。最初からカスミンなんてこの町に来なければオレはこんなに悲しい気持ちにならなくて済んだのに。いや、そうじゃない。カスミン。オレのカスミン。
今まで近すぎて、いるのが当たり前で、オレの事ちょっと好きでいてくれた。
それなのにオレは自分をごまかして、カスミンの気持ちに応えていなかったじゃないか。
あと一週間しかない。三月十六日は六年生の卒業式。そして十八日が終業式だ。もうカスミンと一緒に家に帰ることもなくなる。引っ越しの準備もあるみたいで、ここ最近は放課後に一緒に過ごすこともできなくなっていた。
オレは居ても立っても居られなくなり、昼休みが終わり、みんなで教室の掃除をしている間にカスミンを廊下に呼び出した。
「オレ、カスミンが転校する前に言いたいことがあるんだけどさ」
「え、どんなこと?」
「ここじゃ言えない事。オレ、五時間目終わったらズルして先に学校出るから。カスミンもその後、あの公園のクスノキに来てもらえないかな?」
「えー、先生になんて言えばいいのよ?」
「おなか痛いでもなんでもいいよ。とにかく来てほしいんだ。」
カスミンはしばらく黙っていたけど、決意したように、
「分かった。私、駿ちゃんを追いかけるね」
と言ってくれた。
カスミンが転校する前に、オレはカスミンにオレの本当の気持ちを伝えるんだ。
そうすればカスミンはヨコハマに戻っても、オレの事、きっと忘れないよな? オレは自分を言い聞かせるように、弾む心を必死に抑えていた。
五時間目は学活だった。学活の時間が終わる直前に、オレは計画を実行した。
青羽先生には申し訳ないけど、オレはここでズルをしなければならない。
「青羽先生、ごめんなさい。頭がとても痛いので、保健室に行きたいんですけど」
「あら、駿君大丈夫? 授業が終わるまで我慢できるかしら? 先生が保健室に連れていくわよ?」
「大丈夫です。一人で行けます」
「そう。じゃあ、後で先生も保健室に行くわ。保健の先生にちゃんとどう痛いのか説明できるかしら?」
「はい、なんとか大丈夫だと思います」
結局授業時間が十分を切っていたから、オレは五時間目が終わるまで待たされた。
青羽先生は責任感の強い人だからオレを一人で保健室に行かせることができなかったのだろう。
計画は完全に失敗だった。
オレとカスミンは眼と眼で会話をした。
(うまくいかなかったね)
(残念だ)
ここからは、オレは一階の保健室にいたので、後から聞いた話だ。
結局午後二時二十五分に授業が終わり、先生は一旦オレを保健室に連れていき、十分後に教室に戻って来て少し遅れて終礼を行った。来週の卒業式には三年生は参加しないこと、来週中に持って帰る荷物などの話をして、十分くらい経ったころ、日直が号令をかけて終礼は終わったようだ。
そしてみんながランドセルを背負おうとした時だった。
信じられないくらい強い揺れが校舎を襲った。
教室は、円を描くように揺れていた。説明用のモニターが倒れ、オレのクラスメート達は悲鳴を上げた。先生はみんなに落ち着くように、机の下に隠れるように、防災頭巾を身に着けるように的確に冷静に指示を出していた。
地震の揺れは簡単には収まらず、少なくとも二分間は続いた。
保健室にいたオレもベッドの下に隠れるよう保健の先生に言われ、すぐにベッドの下に潜りこんだ。
生きた心地が全くしなかった。いつまでも激しく揺さぶられる保健室の床に這いつくばり、
「悪いことを考えたバチが当たったのかな」
と考えたりしていた。
最初の強い揺れが収まり、保健の先生の制止も聞かず走って自分の教室に戻った。
廊下や階段には至るところに壁に亀裂が入っていた。まだ揺れているような錯覚もあった。
教室に戻ると、先生は驚いた顔をしてオレに聞いた、
「駿君、大丈夫だった⁉︎」
「大丈夫、みんなは?」
女子たちは例外なく大声をあげて泣いていた。男子も恐怖で青ざめている奴ばかりだ。
実は俺も脚が震えていた。先生は気丈に振る舞っていたが、先生だって怖かったに違いない。
職員室から全教室に放送が流れた。
「全職員は、防災頭巾着用の上児童を校庭に集合させて下さい」
青羽先生は放送に従ってオレ達に指示を出す。
「廊下は走らない! 階段では前の人を押さない! 素早く校庭に出て! 上履きのままでいいわ!」
緊張が一気に高まった。
オレはカスミンを見つけて、
「立てるか? 一緒に逃げるぞ」
と、手を引いた。
カスミンの手は緊張で冷たく、そして汗をかいていた。
表情は硬かったが、それでもオレが戻って来たことで少し安心してくれたみたいだ。カスミンは、フワッと笑ってくれた。
町の様子はどうなんだろう。この小学校は町の中心地よりやや山の方に立地していた。
この小学校が廃校にならずに残されたのは利便性ではなく、単に一番新しく建設されたからだ。
いきなり防災無線による放送が聞こえてきた。
「こちらは、町役場防災無線です。午後二時四十六分ごろ、強い地震を観測しました。この地震により津波が発生し、この地域にも到達する可能性があるものと予想します」
なんだって?
津波が来たらこの町なんて一巻の終わりじゃないか! オレは津波の恐ろしさを父さんから聞かされていた。
先生達も短い時間で協議をして避難先を全校生徒の前で発表した。
「クスノキ公園へ全員で避難します! みんな、はぐれないように固まって移動しなさい!」
すると、低学年の生徒の何人かが叫び始めた。
「家族は、家族はどうなりますか?」
「ウチには足が悪いバァちゃんがいる。助けに行きてえ!」
「猫のミーちゃんはどうしたら?」
校長先生は悲痛な面持ちでこう言った。
「この町には、『津波てんでんこ』って言葉があります。津波が来る時は、取るものも取らず、肉親にも構わず一人一人がバラバラに逃げろ、という言い伝えです」
生徒たちは一斉に反発した。
「でも、お父さんとお母さんにもう会えねえのは嫌だ!」
「先生、ひでぇよぉ」
つられて泣く子たちもいた。
先生も辛かったんだと思う。校長先生は毅然とこう言い放った。
「先生は、君たちの命を守ると君たちのお父さんお母さんと約束をしてるんだ。だから、高いところに行こう。むかしむかしの津波では、この学校のある場所も津波で流されているんだよ」
百人少し居る生徒たちは、それを聞いてみんな黙った。校長は続けた。
「みんなが助からねば、君たちのお父さんやお母さんが助かった時きっと悲しむ。だから、こんな時はまず自分が大切なんだ。さあ、みんなでクスノキ公園に行こう!」
生徒たちは無言で二人一列になって、あの公園に向かって坂を上り始めた。
啜り泣く子もいた。
でも、親に会えないかもしれない気持ちを圧し殺して一歩一歩歩いていた。
しかしオレには信じられない事がこの後起こった。
カスミンが、カスミンが居ない…
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