となりのカスミン

Tohna

第1話 天使は告る

「カスミン、大丈夫だよ! ここまで登って来いよ」


「だめだよ、駿ちゃん。怖くてもう登れないよ」

 町外れの山の中腹にある公園には、樹齢が四百年とも言い伝えられているクスノキの巨木が広場の中央にポツンと立っていて、数メートルの高さまで登ることさえできれば、オレたちの町が一望できる。


 この町は、太平洋を望むリアス式海岸の半農半漁の人口二万人程の小さな規模の町だから、この公園からはミニチュア模型のように見えるんだ。


 田んぼ、路地栽培の畑、小さな集落、街の中心街、そしてL字型の突堤に囲まれた漁港がまるで全てを押し込めたかのように。


 大学生になったオレは、帰省でこの町に戻ってくるとこの公園に来てこのクスノキに登ってみる。小学生の頃は難なく登れていたのだが、体躯も立派になり体重も増えた事で木登りは簡単ではなかったが。


 その度に思い出すのがカスミン ―オレの家の隣に住んでいた女の子の呼び名だ― が怖がって登れなかった事を思い出して、独りでに表情が綻んでしまう。そしてそれと同時にもどかしく、悲しい気持ちに支配される。




 カスミンは、小学二年生の一学期にヨコハマから転校してきた。


 その頃、オレの町では大半の若者はきつい農業や漁業を継ぐのをいやがって、地元の高校を卒業するとさっさと進学や就職で大都会に出てしまっていた。


 若者がこの町で結婚して子供を産み育てるということがその頃の二十年前に比べると激減していたから、三校あった小学校は町の中の一校のみで、あとの二つは廃校になってしまった。


 クラスも学年一つ、クラスメートも小学校一年生の時には二十人いたのが、翌年には三人減った。そこに転校してきたのが、カスミンだった。


 オレの父さんとカスミンちのおじさんは、この町にある海洋微生物研究所(株)という私設の研究施設で働く同僚だった。正確には、カスミンのお父さんは「」の所長さんとして転勤してきた父さんの上司だったのだけれど。


 海微研のオーナーはヨコハマの大手の水産会社で、カスミンのおじさんはそこからの出向者だった。お父さんは、カスミンのおじさんのことを「所長」と呼んでいた。

 

 僕の父さんはこの町の現地採用の一研究員だった。


 カスミンとオレの家は海微研が職員用に用意した住宅で、全部で五棟あって三号棟のオレの家の隣の四号棟にカスミンは引っ越して来た。


 カスミンのワンサイドアップにした髪の毛は亜麻色で、瞳はブラウンがかっていた。


 さらにカスミンは色白で、手足は長く、田舎の小学二年生にもわかるセンスの良い服を着ていた。オレはカスミンの事を田舎町にやって来た「天使」だと思った。そしてクラスのみんなは「お嬢」と呼んだ。


 カスミンの本名は神住かすみだ。カスミンは「お嬢」と呼ばれるのを嫌がった。「お嬢」と呼ぶ奴が必ずしもカスミンのことをポジティブに思っている訳ではない事を知っていたからだ。


 だからカスミン、と言い出したのはオレだった。もっと普通の ――本人も受け入れてくれそうな―― 呼び名を付けてあげたかった。


 一部の女子達や、カスミンの両親も、オレの両親も「神住ちゃん」と呼ぶので、オレもそう呼ぼうと思ったのだが何故かそうするのが恥ずかしかったので「カスミン」に決めた。


 照れ隠しと単純に呼びやすかったからだ。


 カスミンは気に入ってくれたみたいで、オレがそう呼び始めるとクラスのみんなも「お嬢」は止めて「カスミン」と呼んでくれるようになった。


 引っ越の挨拶の時は両親に挨拶をするように促されても、全くオレを無視していたカスミンは、その事があってからオレの事を「駿ちゃん」と呼んで良く話しかけてくれるようになった。


 そして他のクラスメートの家も遠かったのもあって毎日のように一緒にいるようになったんだ。二人の両親も仲が良かったから、本当ののようにいつも一緒にいた。


 夏休みには浜に家族ぐるみで行って、唇が紫色になりながらカキ氷を食べた。


 秋には近所の林で栗拾いをしたり、職員住宅の敷地内で落ち葉を集めて焼き芋を焼いたっけ。


 冬にはカスミンの家で二人でコタツに入ってゴロゴロ。オレはミカンを食べ過ぎて黄疸が出て大騒ぎになった。


 そしてまた巡って来た春には、初めて俺はこのとっておきの場所に連れてきた。「天使」に木登りをさせていいか迷ったんだけど、カスミンにこの町を好きになって欲しかったんだ。


 オレがクスノキの木登りを提案すると、カスミンは乗ってきた。カスミンには負けず嫌いなところがあるのは知っていたけど木登りは嫌がるかなと思っていた。


 カスミンはオレがあのクスノキに登ると負けずに登ってきた。でも流石にオレが登れる最高地点までは怖くて登れず、オレは励ましながらなんとかカスミンをそこまで登らせたんだ。


「わぁー! スゴい! 駿ちゃん、こんな景色をいつも見ていたのね!」

 カスミンは初めて見るミニチュアみたいに見える僕らの町を見下ろしてものすごく感動していた。


「なかなか良いだろう? カスミン、ヨコハマとこの町のどっちが好きだ?」

 オレは勝ち誇ったように、――何も考えず―― カスミンにそう尋ねた。


 カスミンは困った顔をして、


「うーん、難しいなぁ。この町も好きだよ。でもヨコハマはオシャレなお店も沢山あるし」

 と答えた。


 正直オレはガッカリした。コイツはまだヨコハマに未練があって、この町を実は馬鹿にしている、と決めつけた。


「そんなにヨコハマがいいなら、ヨコハマに帰れよ。この町をバカにするな!」

 今考えると小学三年生としても余りに幼稚な物言いだった。


 カスミンは、暫く沈黙し、漸くオレの目を見てこう言った。


「駿ちゃん…そうじゃないよ。私もこの町に一年住んで、この町が好きになったよ」


「でもカスミンはヨコハマはオシャレなお店がいっぱいあるって言ったじゃないか!」


「うん。比べることなんて出来ないの。ここにはここの、ヨコハマにはヨコハマの良いところがあるからどちらか選べ、みたいな質問には答えられないよ」

 オレはカスミンにこの町にずっといて欲しかった。


 だからあんな事を押し付けがましく聞いてしまったんだと思う。


 実は前の所長さんも、オレが保育所の年長さんになった時やっぱりヨコハマから引っ越してきた。そして二年間でまたヨコハマへ帰っていった。


 父さんが、


「研究所ここは、本社の島流しの場所なんだ」

 と言っていたことを聞いた事がある。


 最近知った事だけど、水産会社の本社で何かしくじった人が「海微研」に飛ばされて来て、二年間の「刑期」を終えて帰って行くのだと。


 カスミンのおじさんも、何かしくじった訳だがそれはカスミンがあと一年もしないうちにこの町から居なくなることを意味していた。


 二人の間には沈黙が流れていた。


 カスミンは俺の心配を察知したのか、


「駿ちゃん。私は多分来年にはヨコハマに戻らないと行けないんだ。」

 と、悲しそうな目で言った。


「カスミンの好きなヨコハマに帰れるんじゃん。良かったじゃん。」

 オレは意地悪にそう言った。


 すると、カスミンはオレにこう言ったんだ。


「私は駿ちゃんの事が好き。駿ちゃん、いつも私のこと守ってくれるし、優しいから。駿ちゃんは私のこと、どう思ってる?」

 俺はドギマギした。


 俺だってカスミンが好きだ。でもその時は素直には言えなかった。


「いや。分かんないけど他の女子よりは仲が良いだろ?」

 こう言うのが精一杯だった。


 カスミンはますます悲しそうな顔をして黙ってしまった。


 それから二人は木から降りて、お互いに無言で山を降りた。


 松の並木を二人で歩いていると、オレは道端に落ちている松毬を見つけては前に蹴り出した。カスミンはそれを見ても何も発することはなかった。


 その間中、オレはあの質問を悔いていた。そしてカスミンの質問に素直な気持ちを伝えられなかった事に惨めな思いをしていた。


 やがて二人は職員住宅に着いた。少し日が暮れ始めていて、街灯がちょうど灯った。


 するとカスミンは、


「駿ちゃん、あのクスノキに登らせてくれてありがとう。とても楽しかったよ」

 と言って家の中に入っていった。


 カスミンの顔は街灯の明かりではよく見えなかった。もしかして泣いていたのかもしれない。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 翌日からも二人は何事も無かったかのように、普通に二人で学校に通い、学校から帰ってきて二人で過ごした。わだかまりがなかったわけじゃない。


 それでもオレたちは、のように夏には花火をし、秋には家族ぐるみでハイキングへ出かけた。


 冬には町営駐車場に特設されるスケートリンクでスケートをカスミンに教えた。まもなく訪れるであろうカスミンとの別れを考えないようにしていた。


 そして、「あの日」を迎えた。


 春休みを間近に控えた、薄曇りの寒い金曜日だった。

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