「ものとする」の話
「あの、これ、作ってみたので見てもらえますか?」
会社で若い子が緊張気味に言ってきました。今年の夏の始めにうちの部署に配属になった入社数年の若手の女性です。真面目で地味な感じですが、しっかりした印象の人です。
「お、見ておくよ。おいといて」
彼女から書類を受け取って一旦自席に戻らせます。慣れた相手ならミーティングテーブルに行ってそこで議論しながら書類直していくのですが、彼女がそこまでのつもりで持ってきたのかどうか分かりません。
経験上、その場で目を通して気付いたところをいちいち指摘していくのは、新入社員に相手に限らずあまりいいやり方ではないと個人的には思っています。上司が読んでいる間、待たされている方は時間の無駄ですもんね。
で、数時間したその日の午後、彼女の作った書類に目を通しました。まあ、簡単に要約すると「この値段でこの物件はお手頃価格。将来性も十分なので買った方がいい」というレポートです。まあ、誰かが手を貸してあげたんでしょうね。そこそこのできで及第点でした。ただ、今回はちょっと特殊な条件付きの契約を結ばないといけませんので、その対応方法についてコメントしてありました。
実はその物件は買いだという大枠の方針はすでにコンセンサスがある程度取れていました。だから、買った方がいいという結論自体はあまり重要じゃないんです。重要なのはどうやって買うか。いかにリスク少なく条件を契約に反映させるか、なんです。まあ要するに契約上のテクニック的な部分ですね。
「ほほう」
読み進めていくとそのテクニック的な部分はよくできているなあ、と思いました。この子なかなか賢いなと認識を改めたところです。いや、ビジネスですので相応のリスクは当然ありますけど、だからといってリスクを全部かぶるのは愚の極みです。合法的な方法で当方に過大なリスクが来ないようにする、そこのバランス感覚が大切です。
「なかなかいい組み立てしてるなあ」
契約文案には最初に「こういう内容の契約です」というサマリーを付けて回すのが当社のやり方です。そのサマリー自体は見事にリスク回避の取り決めを双方が納得できる形で実現していました
サマリーの後ろに実際の契約書文案がついているのでそこまで目を通すと……。
「うげえ、なんじゃこれは!」
条文読んだ瞬間めまいと吐き気がしましたよ。契約文章は創作と同じぐらいセンスが問われるんですよね。こっそり条文に入れておいたり、逆にこれでもかと目立たせたり。ひととおり読み終えた俺は彼女を呼びました。
「立花さん(仮名)、ちょっと来て!」
「はい」
彼女はあわてて立ち上がって俺の席に来ました。俺も立ってミーティングテーブルに移動して彼女を座らせます。
「これ、契約文案、自分で考えた?」
「はい。契約項目はひな形をベースにして、過去の締結した契約を参考に自分で作りました」
「項目は必要十分で、組み立てもいい。この方向で行けるから。来週会議に出すから資料用意しといてね」
「はい!」
彼女はほっとした表情を見せました。しかし、俺が彼女に言いたかったのはそこではありません。ことさらにゆっくりと俺は言葉を続けます。
「ただし。この契約書文、たかだか3ページの契約書に何回『~するものとする』って表現が出てきたか、自分で数えてみた?」
「え? 数えてません。むしろ契約書の条文は『~するものとする』と書くのが正式だと思ってました」
「そりゃ大きな間違いだ。消しても意味の変わらない『ものとする』は全部カット。だいたい俺たちのような契約の専門部署では『ものとする』が多ければ多いほどバカにしている。こんな契約文案出したら取引先になめらるぞ。よく覚えておきな」
そうなんですよね。ほとんどの人が誤解しているんです。法学部卒の新入社員ですらそうです。なんでもかんでも条文の終わりに「ものとする」を付けたがる。
「甲は乙に対して〇〇円払うものとする。」
こんな感じで。この「ものとする」に意味はまったくありません。「甲は乙に対して〇〇円払う」だけで十分なんです。「ものとする」がないと意味が通らない条文なんて何十ページもあるクソ長い契約書に一回か二回出てくるかどうかです。
若いのが作る契約書は長いと二百条近くになる条文の末尾が全部これになってたりします。ラノベの字数稼ぎよりひどいです。
この「ものとする」、多分昔の奉行所の裁き文の末尾がこれだった影響なんでしょうね。甲と乙、本来一対一の契約書に突然甲乙以外の第三者が乱入して裁定文を入れているみたいなもんです。
ちなみに立花さん(仮称)の作った契約書、3ページほどの契約書に24回「ものとする」という表現が出てきてまして。全部カットさせました。
契約書の条文は短くてなおかつそれ以外解釈できないように作るのがキモなんです。逆にやたら「ものとする」が出てくる契約書は疑ってかかるべきです。文案を作ったヤツの頭が悪いか(そういう文案をさらっと通してしまう会社も信用できません)、さもなくば何か重要なことを意図的に分かりにくくしようとしている可能性がありますから。少なくとも俺のような専門の担当者はそういう風に読みますね。
これに懲りて立花さん(仮称)も今後は気を付けてくれるでしょう。
◇
実は最近ひそかに注目している作者さんがおりまして。また、すごい作者さんを見つけてしまいました。
ラビットリップさん「非情禁交子」
https://kakuyomu.jp/works/16817139558392360026
最初タイトルが読めなかったんですが「ひじょうきんこうし」と読みます。中学校の非常勤講師の楓先生が主人公の連作短編です。公開順に是非読んで行ってほしいところです。特に羽間さん、必読ですよ。
いやあ、とにかく重い。現代の教育現場の重さがこれでもかと濃密に書かれています。生徒、保護者、教師とその管理者。先生の世界も大変です。
楓先生シリーズは「非情禁交子」から「ワンコイン」まで今のところ8作ありますが、楓先生が新卒の非常勤講師から故郷で正規教員になっていく過程が綴られていて読み応え抜群です。
それぞれ1万字ぐらいの連作短編ですので義務教育の子供のいる方、教育界に関連している方に特におすすめします。その中でも7作目の「ASKLESS~問答無用~」はサスペンス風味で一番おすすめなんですが、その前の6作を読んでいないと良さが半減なんです。ご面倒でも是非1作目から読んで行ってもらえると。
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