AIやロボット、その立場から見る善悪の彼岸

「いや~、それにしてもアリシアが早々に戻ってきてくれてよかったよ。せっかくあみだで当たったってのに無駄になるところだったもんな」


自身で調理したペペロンチーノを口にしながら、右琉澄うるずはしみじみ口にした。『任せる』とは言ったものの、本音では余計な口出しをして面倒なことになるのを嫌っただけだというのがこれで分かる。けれども、それが人間というものだ。完全な悪人もいない代わりに完全な善人もいない。状況によりどちらにも振れるのが人間という生き物だというのは分かっていた。


そして、AIが実用的なレベルにまで発展してからでもすでに数百年。そこまで集めたデータを検証しただけでも人間が<善>や<悪>と呼んでいる概念に具体的な根拠がないことが確認されてしまった。


なるほど確かに、無垢な子供をなぶり殺しにするような輩は<悪>であると考えたくもなるだろう。しかしなぜそのような行いに走るのか?と考えた時に、当人には自らの行為を正当化するだけの<理由>が存在することは事実である。当人にとってはその行いこそが正しいということになる。


つまりそれも、当人にとっては<正義>なのだ。被害者側にとってはまぎれもなく<悪逆な振る舞い>ではありつつも。


こうなると<正義>=<善>とは言えなくなるだろう。それを行使した者にとっては<正義の行い>であるとしても、さすがに<善>とは言い難い。


では、<善>とは何か? 


『悪逆な振る舞いをしないこと』


が<善>なのか? しかし、『悪逆な振る舞いをしない』だけで人間の社会は本当に成り立つのだろうか? 


人間も生き物である以上は、何らかの形で<命>を犠牲にしなければ自身の命を維持することはできない。動物を殺さないために植物だけを摂取するとしても植物もやはり<命>であり、野菜や穀物を得るためには土壌の改良や害虫の駆除なども行わなければいけないので結局は小さな動物達の犠牲の上に成立していることに変わりはない。


また、動物は痛みや苦しみを感じるが植物はそれを感じないというのも、実際には嘘である。植物も、動物のそれとは大きく仕組みが違っているだけで、痛みや苦しみは感じているのだ。だからこそ防御反応も示す。


人間には理解できないそれだから植物の痛みや苦しみは気にしなくていいと言うのか? 植物の命を大量に奪う行為は、果たして<善>と言えるのか?


<善>や<悪>、さらに<正義>という概念は、特定の人間にとって都合よくでっち上げられた虚構の概念でしかないことは、すでに明らかなのである。


おそらく、かつての人間は感覚的にそれを理解していたのだろう。だからこそ、自分達が他の命を糧として生きていることを理解し、糧となった命に対して感謝の気持ちを抱いていたのだと思われる。


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